内藤正典さんの「となりのイスラム」を読んだ。西欧近代思想とイスラムの思想は「根本的に相容れない」が「共存することは十分可能」だということが重要なのだなと。

Posted at 17/09/10

内藤正典さんの「となりのイスラム」を読んだ。



この本は昨年のうちに興味があって買ってあったのだが、ちょっと突っ込んだ本を読めるような精神状態でない時期が続いたのでしばらく放置していて、つい数日前に本棚で目にして今こそ読む時なのではないかと思い、手に取ったのだが、大変良い本だった。

この本は、イスラムの専門家である内藤さんが、切実な強い思いを持って、なおかつ周到に、そして読者に対し啓蒙するという上から目線を感じさせず、それでもただごとでない重要さを読者の心に響かせる、とても素晴らしい本だと思った。啓蒙書というものはやはりどうしても説教臭があるのだけど、この本には説教臭の代わりの切実さがある。著者の伝えなければならないという思いが、読者に読まなければならない、伝えられなければならないという思いを呼び起こす、啓蒙書の本当の意味でのあるべき姿を感じさせる一冊だったと思う。

日本においてイスラムは理解されていない。これはイスラム諸国、あるいはイスラム教徒との交渉の歴史が浅いということが一番大きいが、日本の外国との交渉が明治以前は主に中国と、明治以降は主に西欧諸国と、戦後は主にアメリカと、というふうに偏ってきて、イスラムは彼らに取っても他者だから、その他者としての描写を日本人はそのまま受け入れてきた部分が大きいように思う。

私自身がイスラムというものを初めて学ぶべき対象として認識したのは高校2年で世界史で学んだ時だ。それ以前も歴史に興味を持っていた(主に日本史、中国史)から、歴史地図に「サラセン帝国」があるのは知っていたが、名前だけだった。世界史ではマホメットという名前や「コーランか剣か」という言葉やマムルークという奴隷が軍人になってるとかまずはそういう知識からだった。

受験の頃はシルクロードへの憧れのようなものがあって、中央アジアやビザンツ帝国についての本を読んだりしていたのだけど、大学に入ってからはそういう講座もなく主に本で読んでいる一方、イスラムについては板垣雄三先生の授業があり、それからも佐藤次高先生や山之内昌之先生の授業に出て、専攻ではなかったがそれなりに勉強し、また「イスラムハンドブック」など当時ようやく少しずつ出てきていたイスラムを勉強するための資料なども買ったりしていた。またアラビア語も片倉もと子さんの本で少し勉強してみようと思ったが、これは一瞬で挫折したが、ただ母音が3種類しかなく文字では子音しか表記されないとか、そういうことは知った。

そういうわけで私のイスラム知識は基本的に授業で聞いた知識と本の中の知識だけだった。大学の同級生の中には板垣先生について最終的にシリアの研究者になった人もいるが、私はイスラムに関し関心は持っていたがそれ以後専門的に勉強することはなかった。

その後は教職についたりしてイスラムについて人に教えたりする機会もあったが、大抵はその程度のことでも学生はもちろん一般の人たちも知らなかったから、イスラムというのはこういう宗教だ、とかこういう人たちだ、みたいなことを教えたりすることもあった。学習した当時はすでにムスリム同胞団もあったのでそれについても多少は学習しており、イスラム原理主義についても一片の知識はあったので、原理主義の運動などについても自分なりに理解したつもりになっていた。

様子が変わってきたのは90年代後半、アルカイダが出てきた頃で、特に2001年の911テロはやはり衝撃だった。彼らはイスラム原理主義という言葉だけでは片付けられない、「過激派」というべき存在だと認識するようになっていったが、それでも原理主義との区別はどうつけたらいいのか、迷う場面も増えてきた。というか現実問題として各国政府は意図的に原理主義者と過激派=テロリストを混同して扱うケースが多く、そのあたりも問題に感じるようになってきていた。

その頃から報道は日本語だけに限らずなるべく読むようにしていたが、そうなってみると基礎知識がイスラム世界の現状を理解するには圧倒的に欠けているところがあるということに気づかざるをえないようになってきていた。

しかし、そのあたりを包括的に説明した読みやすい入門書・啓蒙書の類はなかなかなくて、自分の古びた80年代の知識を運用しつつなかなか整合しない現状の報道と合わせながらウィキペディア等の記述も援用しつつイスラム世界の現状を理解するように努める、という状況が長い間続いていた。もちろん私にとってイスラムは専門ではないし、また現実的に身近にイスラム教徒がいるわけでもないのでイスラムについて学ぶことは優先事項ではないので、中途半端な状態が続いていた感があった。

この本を読み始めて最初に感じたのは、まず切実さ、真剣さだった。まずは多くの人に広くイスラム教とイスラム教徒=ムスリムについて知ってほしい、という切実な思いだった。我々は日本の伝統的な意識の上に西欧近代思想を乗せて、それを一応のグローバルスタンダードだという認識を持って生きているが、ムスリムにとってはそうではない、イスラムの考え方と西欧の近代主義は根本的なところで相容れないし、それをお互いに許容し合うことが大事なのだと理解してほしい、という思いの切実さだった。

これは、西欧においてその主張が全く受け入れられて来なかったという著者の苦い思いもまた感じさせるわけだが、逆にいえば西欧近代を相対化して見やすい立場にいる我々日本人には、「西欧近代思想とイスラムの思想は「根本的に相容れない」が「共存することは十分可能」だ」ということを理解してほしい、という強い思いを感じた。

そして、この「根本的に相容れない」ことと「共存することは十分可能」だということは、両方極めて重要なことだ、という主張だ。

日本人は、まあ日本人だけではないが、「基本的に相容れない」のならば排除するしかない、あるいは相手を殲滅するしかない、みたいに考える人が多く、またそういう不寛容な人は特に最近は増えてきているように思うが、もちろんそんなことはない。例えば各家庭の考え方は違っても、お互いに領分を守ることによって不要な摩擦を招かない、ということは普遍的にあることだ。ただ、西欧近代は自らの進歩主義だけを唯一絶対の真理と捉える傾向が強く、そのほかの論理を認めないところがある。しかしそれはそれこそが原理主義であって、その行き過ぎが対立と戦争を招いてきたことから、宗教対立に関しては世俗主義の原則が17世紀以降確立してきた。

また常識的なイスラム教徒はイスラム国家でない国でイスラム教徒でない人にイスラムの戒律を強制するようなことはない、と主張する。そこは、イスラム教徒とはこういう人だ、という説明につながるが、例えば映画「最強のふたり」の登場人物や自分がトルコで依頼している運転手の例を挙げて、説明を強化している。

だから共存することは、お互いに十分可能なのだが、現実にはそうなっていないのは、西欧近代の側が「根本的に相容れない」ことを認めず、「イスラムの側が西欧近代の個人主義的人間観に基づく社会観・人間観とそれによる社会規範を絶対に受け入れなければならない」と主張することにある、とする。

つまり、イスラム教徒である限り受け入れ不可能なことを西欧近代の側が押し付けようとすることに根本的な問題がある、というわけだ。

これは女性のスカーフの問題や預言者ムハンマドの侮辱に関する問題で、つまりフランスで端的に表れている。まあ、それについては西欧の側も、ムスリムが受け入れ可能かどうかなど考えていない。問答無用だ。そうなればムスリムの側も自然強く抵抗せざるを得なくなる。だから大事なのは「西欧近代とイスラムの思想は根本的に相容れない」ことを認め、お互いに譲り合うことがなければこの問題は解決しない、というのが筆者の重要な主張の一つになる。

ということはつまりウェストファリア条約における世俗主義の原則のような西欧近代とムスリムの側の妥協・取引をどうにかして成り立たせることが一つの急務ということになるだろう。状況を見ているとなかなか難しそうではあるが。

もちろん、イスラムも世界性のある宗教なので、本来世界は全てダールアルイスラーム(イスラームの家、イスラム世界)であるべきであり、その中心となる「カリフ」が必要だ、ということになる。そしてイスラーム国家はダールアルハルプ(戦争の家、まだイスラム化されていない世界)に対しジハードを持って世界を真に平和な世界にしていかなければならないという思想は当然ある。

この辺は西欧近代の普遍主義と同じことで、またいわゆる中華思想も世界に「王化を及ぼす」という考え方はあるから、普遍主義的な思想、ないしは一神教的な思想には必ずそういうものがある、ということは、日本では昔からよく論じられてきた。まあ多神教的な文化基盤を持つ日本だからこそ認めやすい考え方というのはあるわけで、それを日本が(国家がとは限らない、個人の日本人思想家だっていい)イスラムと西欧近代の仲裁を取り持つことはありえないことではない。

しかし現状の問題は、結局領域国民国家によって支配されている現在のイスラム世界では、本来のイスラム教徒の生活は実現が難しく、領域国民国家の思想=西欧近代の主権国家思想の論理が優先され、ムスリム同胞団などの「イスラム的生活の実践」を求める集団も原理主義=テロリストのレッテルを貼られて弾圧されるという悲惨なことになっていると著者は言う。イスラム世界にとっての問題の一つはこの国民国家システムにあると言うことは内藤さんだけでなく池内恵さん、中田考さんなども言っていたが、それはそれで納得できる考え方だと思う。

そして西欧諸国におけるイスラムへの無理解と差別、またイスラム諸国におけるイスラム実践の困難さなどが、原理主義から過激化への動きに繋がっていると著者は言う。この辺りは当然いろいろな論者の主張するところでもある。

西欧諸国のイスラム批判の強まりは、おそらくはイスラムの思想の根本にジハードの思想、つまりイスラム以外の宗教・生き方を排除する非寛容の思想があることをその論拠にしているわけだが、しかしそれはどっちもどっちで、西欧諸国自体がムスリムの思想にどれだけ非寛容であったかと言うことに気がついていない、決して認めないところに問題の根深さがある。

そう言う危機的な状況の中で生まれてきたのがイスラム過激派、特に昨年の時点で大きな問題になっていた「イスラム国」であり、それはいわば「イスラムの病気」であると著者は言う。

以上述べてきたことにより、このイスラムの病気に対する根本療法の処方箋として、領域国民国家体制を見直し、イスラム国家が樹立され、カリフがその中心となることを、この本では明示はしていないが、それを暗示しているところで終わっている。

ある思想が社会に広がる時は希望を持って語られていくが、それが弾圧され、地下に潜らざるを得なくなると先鋭化・過激化し、原理主義的になっていく=純粋化していくとともに暴力的になっていくことは日本の自由民権運動や60-70年代の左翼思想の過激化などを見てもある種のおきまりのコースだ。

テロリズムは当然糾弾されるべきことなのだが、アメリカの空爆が全てを解決するわけではない、と言うのは全くその通りだ。日本人は西欧人に「日本人は我々の価値観と結局は相容れないのではないか」とみられることを極度に恐れ、反発している人々が多く、西欧近代の「自由と民主主義という理念」を自ら選び取ったのだと考えたい人が多い(安倍首相もことあるごとにそう言ってる)が、西欧の側からすれば「強化は成功しているし時々それを疑ってやれば日本はさらに西欧化が進むだろう」くらいに考えられているのだろうと思う。

それは、第二次世界大戦での敗戦によって日本は「西欧の価値観を受け入れないとまた西欧、つまりアメリカなどの「国際社会」にどんな制裁を受けるかわからない」というトラウマを植え付けられているからで、PCやフェミニズムに対する反発は日本ではアメリカでのようにリベラルに対する反発というだけでなくそういう植民地主義的近代主義に反対する民族主義的な心情も伴っていることからもわかる。

西欧の側は根本的に西欧近代思想以外の思想を認めようという気がない、というか一時期はマルチカルチャリズム、多文化主義がリベラルの間でももてはやされたが、今ではヨーロッパのリベラルの間でも「うちの隣にいなかったらどんな文化を持っててもいい」みたいな感じになっていて、「「閉鎖的で不寛容なイスラム」から離れて暮らす自由もあるはずだ」というのが本来右翼思想のないオランダなどでの排外主義につながっている、という指摘がこの本にはあって、それはなるほどと思った。

結局は共存する上ではお互いにお互いを知り、譲るべきところは譲り、守るべきところは守る、折り合いをつけ適切な心理的距離を取りながら生きていくしかないわけだけど、それがなかなかできないのが人間というものかなと思う。

だからこそ、最初に触れた「西欧近代思想とイスラムの思想は「根本的に相容れない」が「共存することは十分可能」だ」という思想が重要になってくる、ということなのだと思う。

この本はイスラムの現状について自分の知識の欠けているところ、理解の足りないところを補ってくれただけでなく、いろいろなことを考えさせてくれた。お勧めしたい本だ。

少しこの本を離れたことを付け加えておくと、最近よく使われる言葉でこれから鍵になると思われる言葉は、「合意」と「取引」ではないかと思う。

首脳間の会談などでも日本では「〜の点で一致した、合意した」ということに重点を置いて報道される。しかし、アメリカのトランプ大統領を評した言葉で、「彼は合意よりも取引を好む」という言葉があって、ああその手があるよなあ、と私は思ったのだった。

合意した、というのはいいことのように思えるが、思想的なことでの合意というのは結局は一方が一方を完全に受け入れるか、あるいは受け入れを強制するかしかない。しかし取引ならばここからここまでは認めるがここからは認めない、ということが可能だ。

例えば、ヘイトスピーチは一切認めない、それは妥協を許さない、と主張するのはいいが、それならばどこからどこまでがヘイトスピーチなのかを誰が認定するのか、という問題が必ず起こる。反差別団体が独善的なのはそれを認定するのが自分たちだと思っている点で、彼らは自分が反対者に口を極めての時に非常に差別的な言葉を用いて攻撃するのに自分たちの言説は正義だからいいのだ、と主張する点で、それでは理解は得られない。彼らは合意という名の屈服を求めているだけだからだ。

しかし異なる価値観の人の共存という時には、必ずどこからどこまでは認め、どこからは許容しないという取引による妥協が必要となる。アメリカのリベラル=反トランプ対トランプの争いを見ていてもリベラルの側が極めて狭量に、滑稽に見えるのは、トランプが常に適当なところで妥協しても構わないという姿勢を見せながら応対しているある種の余裕を見せているからで、トランプという人がタフな商売人であることをうかがわせる一方、リベラルの側がいくつになっても学生運動かよ、という感じになるからだろう。

トランプという人がアメリカで成功を勝ち取れるかはまだよくわからないが、少なくとも現代世界に一石を投じる人物であることは確かで、この「合意より取引を重んじる」という姿勢が、これから多文化共存に向けては重要になっていくのではないかと思う。

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