「ナチスはいいこともした」という言葉をめぐって思ったこと。
Posted at 17/08/31 PermaLink» Tweet
「ナチスはいいこともした」という言葉をめぐって思ったこと。
ヒトラーが最初はいい政治家と思われていた、というのはあまり正確ではない。もともとヒトラーが名を売ったのはミュンヘン一揆と言われる武装蜂起事件で失敗したことだったので、最初から暴力的な側面を強く持った指導者であったことは確かだ。ただ、それならば当時は各国で起こっていた武装蜂起と質的にどこが違うのかといえば難しい。
しかしヒトラーはその後武装蜂起の方法論を改め、ヒトラーとナチスがドイツ全国に名が売れだした頃には改心して暴力的な部分はなくそうとしていると錯覚させるところもあった。その時期にそんなに悪い政治家でもないという印象を与えたとしたら、それが「最初はいい政治家だった」という言説として残ってるという意味では、そういう言説はあったと言えるかもしれない。しかしその一方で「我が闘争」には有名な大衆論を書き、その暴力的な本質を明らかにしているわけだが、そこに書いてることを本気にした人たちは支持者の中にも多くなかったことは、ドラッカーも「経済人の終わり」に書いている。
一方で、「ナチスはいいこともした」という意見があるとしたら、それは自動車税を廃止し自動車の生産を盛んにしてアウトバーンを整備し、インフラ産業・自動車産業を発展させて失業を吸収したり、安価に入手できるラジオを開発して国民に普及させたこと(39年で普及率70%)など、主にケインズばりの需要喚起政策でドイツの経済を復活させたことを指しているのだと思う。
こうした経済政策では明らかに戦後ドイツもナチス及びヒトラーの経済政策の「恩恵」を被っているところはあるわけだが、このあたりについては思想的にはどう考えられているのか、もう一つはっきりしないところがある。基本的にはナチスは侵略主義的で全体主義的で、またホロコーストという絶対悪を為していることは確かであるから、その前では取るに足りない功績と考えようとされているように思う。
しかし、ナチス・ドイツがイギリスを空爆したV2ロケット(弾道ミサイル)を開発したフォン・ブラウンはその後アメリカに移住し、ロケット開発の中心になったことは周知の事実だ。また、その他の技術者もソ連に連れ去られて宇宙開発に従事し、両大国が宇宙開発競争を行った。そう意味では、宇宙開発自体が壮大なナチスの遺産だということもできる。
そう考えてみると、ドイツもロシアもアメリカも、また科学界もナチスの遺産を都合よく使っていながらヒトラーやナチスを非難し完全否定するという矛盾に、ナチス非難のロジックの弱さがあるように思う。ナチスがなければいい意味でも悪い意味でも現在の世界はないという事実が直視されていないのではないか。
現に存在するそうしたナチスの「遺産」と計り知れない「罪悪」をめぐり、西欧世界はとにかく完全否定こそが政治的正義であるということになっている。いわばそれはポリコレ的思考停止なのだが、それは結局はその矛盾を凍結するための苦肉の策だと思われる。したがって、必ずしもナチス時代と自らの現在とが直結していると意識されない日本などでは、その矛盾があまり強く意識できなくてもそんなに不思議ではない。
別の言い方をすれば、西欧はナチスやヒトラーの存在の歴史的な意味をまだ消化できていない。このポリコレ的凍結という態度は、中国が天安門事件を言及すら禁止していることと、そういう意味で共通する部分はある。中国もまた、国民を戦車で轢き殺し、それが世界に晒された天安門事件をまだ消化できていないのだ。
ナチスに対する態度としては、以前は共産主義者ないし左翼の資本主義批判の論理の中に資本主義がナチスを生み出したのだから資本主義は悪という論理があったが、今では廃れている。現在ではむしろドラッカーやハイエクのように、ナチスの「国家」社会主義は共産主義や社会主義と同じ全体主義だから社会主義は悪、という論理の方が強くなっている。
しかしそういう意味では資本主義支持・社会主義支持の双方にナチスの呪いはかけられていて、左翼リベラル系の運動にはナチスと同じ全体主義的抑圧という言説(禁煙ファシズム、フェミナチなど)、資本主義には非人道的国家さえ利用する金の亡者という批判が付いて回る。ナチスは未だに都合よく他者の批判に利用されている。それはある意味自らの傷を敵に投影しているように見える。
簡単に言えばナチスを皆が嫌悪し否定しようとするのは、特に西欧人の中には右に行こうと左に行こうと極端に行けばナチスに類似してくる可能性が常にあるからで、そのために現代人にとっては呪いのようなものになってしまっているのだ。
しかしその中で、我々近代人は「倫理的に正しい国家」を樹立しなければならない。そのためには、ナチスを絶対他者として自らを切り離し、それを批判し否定することによってしか、論理的にいって「正しい国家」を成り立たせることはできない。ナチスはひどいことをしたのは確かで、確かすぎるほど確かだからこそ、自らの現在の一部がそれに乗っていることは絶対に否定しなければならない。しかし、ナチス時代を経たかららこそ現在があることもまた確かなので、違う言葉で言えば「ヨーロッパは傷ついている」のだ。その傷を無神経に触られたくない。中国が天安門事件に神経質になるのと同じだ。中国の指導部も公式にはともかく、心中では天安門事件は中国共産党国家の一つの原罪だと思っている証なのだろうと思う。
ナチスの存在は西欧文明における原罪であって、それを救済してくれるキリストはまだ現れていないのだ。
話は変わるが、ナチスをめぐる議論は日本における朝鮮半島の植民地支配の論理とも似てくるところがある、というかこれは日本の左翼マスコミが意図的にそういう風に話を作っている気もするが、つまり「日本は韓国の植民地支配でいいこともした」という過去の有名な「失言」と「ナチスはいいこともした」という「失言」とを重ねてきているわけだ。
これは実際に支配を受けてた過去の、及び「歴史教育」を受けてきている現代の韓国人にとっては「植民地支配」は問答無用の絶対悪なので、「植民地支配でいいこともした」などと言う日本人は人の心がないと思うのだろう。また我々より上の連合国史観を叩き込まれている日本人も同様なのだが、戦前期に育った高齢者や、そう言う考えから徐々に解放されつつある今の若者にはピンとこない。
その際に大きな意味を持ったのが台湾の存在で、台湾では日本支配時代を懐かしむ人々も多いと言うことが、韓国人の言うことは大げさすぎるのではないかと感じる多くの日本人の共感を呼んだのだ。
朝鮮半島は日本支配の終了後、日本が用意した後継政府は支持されず、結局統一が維持されずに分断状態となったものの、南北共に民族主義の強い国家が冷戦体制の中で成立・維持されてきたことによって純粋に日本に対する敵愾心が保存されたと言うことがあると思う。しかし台湾は日本支配の終了後台湾を支配した国民党政権が2・28事件と数十年に及ぶ戒厳令支配という強権的な体制をとったため、返って日本時代が評価されるという現象を生んだ面がある。何れにせよ、台湾の反応やそれを伝える作家たちの言に触れて、植民地時代に対する韓国の反応は異常である、と考える日本人が増えたことは間違い無いだろう。
つまりその時点で日本にとって植民地支配は「原罪」として意識されない、少なくとも意識する人たちが圧倒的に減少した、ということは言えるので、その辺が韓国の人たちにはやはり気に触ると思うし、ことさらに従軍慰安婦や徴用工などの問題を取り上げるのにはそういうこともあるのではないかと思う。
日本は基本的に「過去のことは水に流す」という心性が強く、韓国は過去に学び、活かしていこうという姿勢が強いように思う。そのギャップもお互いの評価によりマイナスを加えていることも確かだと思う。
もっとも日本でもネットが生まれて以来、過去に遡ってその人の発言を検証し、矛盾点を指摘したり旧悪を暴露して攻撃する人々が急激に増えたので、以前に比べると水に流しにくい社会になりつつある感はある。それが過去を生かすという建設的なスタンスであればいいが、他人を引きずり下ろすためだけに使われるケースがままあるため、ある意味おおらかな伝統を持っていたわが国もギスギスしてきたという感はないでもない。
ただ、そういう国民の民族性とか国民性みたいなものはそう簡単には変わらない、長期持続性が強いことのように思われるので、日本人がついうっかり、ないしわざと過激なことを言って受けを取ったりしようとする行動(いつまでもその癖が抜けないし政治家はいるしそういう政治家を好む心性も日本人はある。もっとも日本人だけでないことは最近の世界を見ていると分かるわけだが)によってポリコレ的立場から攻撃されたり、主観的には「いじめを受けている」と感じたりすることは、なかなかなくならないだろうなと思う。
今までタブーであったことが一気に変化していくとき、人々がどのような行動に出、どのように世界が変わっていくかの実験のようなものが今まさに世界で展開しているように思う。ナチスをめぐる問題などについてもとりあえずの総括をしておくことは有効ではないかと思い、連続ツイートしまたブログにまとめてみた。
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