人文的教養を修め美意識を培うことは現代を生きる(魔法の)杖になる。

Posted at 17/08/29

現代は人文系冬の時代だ。

しかし、人文系の教養がなぜ必要なのかについて、明確な答えを述べている人はなかなかいない。必要だから必要なのだ、くらいのことではなかなか人々を納得させるのは難しい。このままいくと大学から人文系の学問が最小限しか守られない雰囲気さえ出てきていても、関係する人たちの声はあまり多くない。

人文系の教養を愛する人は決して少なくないはずなのだが、なぜその発言はあまり強くないのか。もっと発言していくべきだとずっと思っていながら、何か私自身、ことの本質を外しているような気がしているところがあった。

そんな時に、書店で見かけて買った本が大事なヒントをくれているの気づいた。山口周「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」」(光文社新書)だ。

イギリスのロイヤル・カレッジ・オブ・アートがグローバル企業の幹部エリート向けのプログラムを組むなど、美術系の大学や大学院でエグゼクティブのトレーニングが行われていると、序文にある。

これは面白いと思った。サイエンスというものは分析が基本だから、それぞれ細部に分割して論理的に物事を解き明かしていくわけだが、アートは統合的でコンセプチュアルな試みなので、むしろその需要が高まっているのだという。

この本の書名は最近よくあるパターンという感じで、たまたまその時私が「美意識」の問題について考えていたから目に留まったのだけど、この辺りの記述は自分の思考にとってとても良いヒントになった。

美意識というのは、下手をすると物事をなす障害になることがある。ある美意識が強すぎて、他の人の共感を得られず、ことの実行に障害を及ぼしているのではないかと思われる例があって、その場合美意識はどのように考えるべきかというようなことを考えていたのだ。つまり、美意識はある種の障害に過ぎないのではないかということだ。

しかしそうではない、とその本を立ち読みして気がついた。その美意識が障害になるのは、それが不適切で独善的であるからであり、本来物事をビビッドに実行していくためには、美意識は必要なものだと気がついた。その一つの理由は、科学的・論理的方法だけでは現代の情勢にキャッチアップしていくのは難しいということ。つまり、「感性で乗り切る」必要、その能力が急速に高まっているということだ。

そう、最初の問題に戻る。人文系の教養がなぜ必要か、といえば、それは美意識を育み、そして鍛錬するために必要で、それは単に自分の生活を豊かにするものであるだけでなく、この未知の新しい世界を生き抜き、新しい世界を築いていくために必要なスキルなのだ、ということになる。

日本の凋落についてよく考えるのだけど、その原因の一つは、日本のリーダーたちの「美意識の欠如」にあるのではないか、と感じることが多い。政治家の出処進退や政策目標の場当たりさのようなものもあるが、経済界でも何を求めているのかよくわからないコンセプトの不明確な経営が行われていて、それが経済の不振を招いている感がある。その背後には、科学性・実証性のみを求める日本の学問の不毛のようなものがあるように思う。

実証性は科学の観点から見て重要であることは確かだが、実証性のみがあればいいというものでもない。日本には「用の美」という考え方があるので、「実証主義」という道具を用いれば自ずと美が備わる、のように感じている向きもないわけではない気がするが、もちろんそれでいいわけではないだろう。

この本でも取り上げられていたが、経営者の美意識という点ですぐに思い起こせる一人はスティーブ・ジョブズだ。彼は製品に対する細部まで徹底した美意識でよく知られている。彼の美意識が、本来の意味での「用の美」であったのだと思う。

人文系の教養は、古典教養から始まり、音楽・美術・文芸・その他諸々の鑑賞技法に及ぶ。用の美の次元から言っても、もともと日本にはそういう古くからの伝統があるのだが、それが現代のビジネスに直接的に生きてきていないのは、それを媒介するべき教養教育に足りないところがあったからだろう。

人文主義的教養のもたらす美意識というと、真っ先に思いつくのが例えば小林秀雄の美意識なのだが、実際には彼のように高度に抽象化された、ある意味重々しいものでなければならない理由はない。

明治大正の教養主義というのは、新派大悲劇やら国粋主義やらエログロナンセンスやらどちらかというと大仰なものが多かったが、そういうものは現代では廃れるべくして廃れた面もあるけれども、生き残っているのは例えていうならば茶人の美意識のような、一見軽く見えて透徹した底なしの美の見方のようなものかもしれない。

江戸時代も本居宣長くらいまで下ると「ますらをぶり」や「たをやめぶり」のような抽象化された大きな美意識が出てくるが、(明治に至っても紀貫之の美意識を批判した正岡子規のような肩に力の入った感じになる)例えていうならば松尾芭蕉の「軽み」のような、ちょっとしたことでもいい。そこにある美をどこまでも見出す訓練は、人文教養の役割ではあったのだと思う。

美しさは、見出せば良い、鑑賞すれば良いというだけではない。教養を用いることのできる人は「感動する側」だけではなく「感動させる側」にもいなくてはならない。目利きでなくてはならないし、見巧者でなくてはならない。良いものを見抜き、良いものを作り出すのに資することができなければ、本来人文教養は用をなさない。そういう意味でもし人文的教養が学問のための学問でしかなければ、その衰退は止めることができないだろう。

しかし、人文系の教養はそれにとどまるものではないはずだ。美がどういうものであるかについての知識の基礎として重要であるだけでなく、我々一人一人が我々の仕事や人生においてどういう美を実践していくべきであるのかを考えるために重要なのだし、またそれは一国の指導者、あるいはそれ以上の局面を動かす人々が担う困難な問題の解決に道を見出すための重要なよすがになり得る。

科学的正しさ、宗教的な生命を賭した選択、人が道を選ぶときには様々な根拠を持って行動するわけだけど、最終的な選択の時には何か「勘」のようなものに頼らざるを得ない場面もあり得る。美意識がその「勘」とどのような関係にあるのか、そこにはプラクティカルな方法論と実現されるべき価値・理想の双方から「美」というものが絡んでくる場面はあるだろう。

ただ難しいのは、日本には昔から滅亡の美学、滅びの美学のようなものがある点で、第二次世界大戦における様々な選択、大元にはアメリカとの開戦の時点においても、その美学が働いてしまったところがなくはない感じがすることだ。我が国は一度それで滅亡への道を辿り、そして戦後、そうした美学は顧みられにくくなってしまった、ということがある気がする。

しかしそれは乗り越えていくべき課題だろう。新しい時代には新しい時代の美学を、重大な蹉跌やトラウマを乗り越えて、築いていかなければならない。私たちはまだそれに成功しないまま、美学自体を放棄しようとしているのかもしれない。

現在における思想的混乱は、まだ新しい時代にあるべき美学が建設されてないからかもしれない。トランプやブレグジットなどの現象を、単なるバックラッシュと捉えるべきではない。共生主義が未来にあるべき美学の根幹だったとしても、それはまだ未熟だったと捉えるべきだ。

日々変わっていく世界と社会の情勢の中で、私たちはその移ろいの中で我々のあるべき形を求めていかなければならない。それは一つの形として結実するとは限らないけれども、だからこそまだ私たちは未熟なまま、自らの感性をも駆使して時代を乗り越え、築いていかなければならないことになる。

不十分であっても、自分なりに教養を修めたと自認するところが少しでもあるのであれば、世界の惨状を教養に照らし合わせて冷笑するのではなく、その現状を教養に照らし合わせて少しでもポジティブな方向への道を示し、実行していくべきなのではないかと思う。

そのための武器に、魔法の杖と言えるほどのものになるかどうかはそれを生かす人間次第だが、教養とそれに培われた美意識は、なるはずだと思う。

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