書くことに関するポテンシャル

Posted at 17/01/03

ここのところブログをあまり更新しなくなったのだけど、それはツイッターで断片的にその時思ったことを書いてしまっているからで、その時その場で多くの人にそれを読んでもらうにはそれはちょうどいい手段なのだけど、後からまとめてこういうことを考えていた、ということを人に読んでもらうには、ちょっと不十分な手段ではある。

自分自身も、いつの今頃どういうことを考えていたかということを、遡って検索することはできなくはないけど、ブログほどは「過去の記録」性が高くなく、また他の人の発言をRTしたりもしていて、その時自分が本当にどう考えたかは分からなくなってしまうことが多い。

もちろんブログで書いてあったからと言ってその時そのままの感じ方や考え方が再現されるわけではなくて、いまそれを読みなおそうと思う時の客観的な視線からしかその時の自分は分からないので、その言葉は内側からではなく外側から自分自身にも感じられ、そういう意味では書いた時の自分は読むときの自分からはすでに他人だ。しかし自分自身をまるで他人のように読むことも可能だからこそ、文章を書くことの意味もあるとも言える。

ここまで一気に書いたのだけど、これだけの文章を息もつかさず書けるというのはここしばらくなかったことなので、自分が文章を書くということに対するポテンシャルは上がってきているのだと思う。

今日は郷里に戻るか東京に留まるか少し迷っていたのだけど、まだ東京でやりきれてないことがいくつもあり、その中の一つがこうして文章を書くことではあったので、書けていることはよかったと思う。

そういえばひとつ文章が書きにくい理由は普段はMacBookAirで細かい字で画面を見ているから、ということもあるかもしれないとWindws7のデスクトップの画面を見ながら思う。ずっとブログを書いていた時は、こうしてデスクトップで書いていた。一時は郷里でもデスクトップを机の上に置いて書いていたのだが、今はデスクトップは片づけて、MacBookAirかWin7のノートで書いている。でも文章を書くというのは本来、デスクトップのような大画面で自分の思っていることを大きな字で書いた方が書けるのではないかという気もする。そういう意味では、郷里でもデスクトップを復活させた方がいいのかもしれない。

若い頃からMacBookのようなもので、ないしはスマホで文章を書きなれていたら違うのかもしれないが、ペンを持って原稿用紙に書いていた当時からPCでキーボードで描けるようになった革命的変化を経験している身としては、この考えるスピードに近い速度で文字を打てるデスクトップのありがたさというのは他に代えがたいものがある。MacBookももう少しキーボードが大きければそんなにストレスを感じずに済むのかもしれないが。

今年はどういう構想を持って過ごすのか、年頭にもう少し考えようと思っていたのだけど、まだいろいろ先が見えないことも多く、日々感じる中で作戦を立てて行かないといけない部分も多い。もうしばらく日々やるべきことを淡々と片づけていくべき日が続くのだと思うが、考えておくべきことの整理くらいはした方がいいのかもしれない。

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