人はナニカに導かれてどこかへ行く

Posted at 16/07/22

世界が始まる前からあり、世界が終わってからもあるものがある。

それは何かと言うと、ただあるだけのものであり、何かこちらからの問いかけに答えてくれたり、こちらに何かを働きかけて来たりするものではない。

去年今年貫く棒の如きもの (こぞことしつらぬくぼうのごときもの) 高浜虚子

それは何か、ということをよく言われていて、それは自然のことだ、と言う人もあれば、いや、天皇制という意味だろうと政治的な判断をする人もあった。

しかしそれは、自然というものに一番近いだろうけど生々流転する自然そのものではなくて、その自然そのものを成り立たせている何か、ということになる。それは法則か、と言えばそういう抽象的、観念的なものと考えるのはあまり面白くなく、具体的に存在はするが人の目にも見えず手にも触れられない、ただあるだけの何か、ということなのだと思う。

それが神か、と言えば日本的な意味での神だと言えなくはないと思うが、キリスト教の神のような意思を持ち行動する神ではない。何となくそこにある、そこにいる神、であってもよいのだけど、特に何か物語が伴うような神ではない。

ただいる、ただあるだけのもの。それが、自分の中にもあるのだと思う。

昨日書いた「ナニカ」というのはそういうもので、ただこれはそこにある、ただあるものそのものではなくて、多分それから派生した何かなんだと思う。しかし、神社とかに行くとそこにある何かよくわからないものに、自分の中のナニカはとても近しいものを感じて、安心したり元気が出たりする、ところがある。

それは生命、と言えばそういうものに近いもので、だから、あるが故に存在する、生きているが故に存在する、何かであろうとする意思、何かをなそうとする意思という意味での実存というものに多分似ている、あるいは近いものなのだと思う。

人は、ナニカが望むものに導かれて、どこかへ行くのだろう。

ナニカについて、今わかっている、あるいは思っていることを書いてみた。

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