原泰久「キングダム」41巻を3日で読んだ。

Posted at 16/02/08

原泰久「キングダム」41巻を3日で読んだ。

[まとめ買い] キングダム (1-25)
原泰久
集英社

この作品は、いつもマンガや小説を紹介してもらっている方に紹介され、時間があったら読んでみようと思っていたのだが、金曜日に地元の書店で第1巻を買って読み始めたら、知的に面白いというよりは(私は普通そういう感覚で熱中するのだが)、読まずにはいられない(身体の底から)感じになり、「凄く面白い」という知的な興奮というよりも、この人生でこの作品を読めて良かった、生きてて良かった、とさえ実感する、「たましいが喜ぶ」感じにとらえられてしまった。

何しろ連載10年にわたる既刊41巻の長大な作品を3日で読み切った(単行本の出ている448話までといま出ているヤングジャンプ掲載の462話)のでまだ全体の感想が完全には言葉になっていないところが多いのだが、初読の感想は初読の時にしか書けないわけだし、考え方によってはマンガというものは初読の感想が「すべて」だと(これは小説でもそうだが)も言えないわけではないので(初読で面白くなければ普通再読はしないだろうという意味で)、今の段階での感想はぜひ書いておかなければならないと思う。

こういう段階での感想が書きにくいのは、いくつもの言葉が自分の中に浮かんで来てその中でどれが一番大事なことかというような重み付けがまだ出来ていないということがある。ということは、何から書けばいいのかがまだ正確につかめていないにも関わらず、正確に順位付けをしようといろいろ書いているうちに、一番大切な「面白さ」「感動」みたいなものがはっきりしないものになって行くというジレンマがあるからだ。まず、こういう風に感想を書くこと自体、「言葉にできないほどの感動」みたいなものが「言葉で考えた感想」に置き換えられて行くことだから、本当にそれがいいのかどうかも分からない部分もある。だからといって感想を書かないと記憶は自分の中で風化して行くから、それももったいない。風化して行けばまた再読する楽しみがあるとも言えるが、いつでもそれができる余裕があるとは限らないし、場合によってはもう手元に本がなくなっている場合もある。

そういう意味では、こういう言葉にした感想というのはいわば「月をさす指」であって、感動そのものではない。しかし指差す指がなければ美しい月にも気がつかないということもあるわけで、そういう意味ではこういう文章も意味はあるだろう。「不立文字(文字に頼らずに悟りを得る)」をとなえる禅宗が、どの宗派にもまして多くの言葉が残されている、ということと結局は同じことなんだろう。

ということで、このマンガをどうとらえるか、と言ういまのところでの一番大枠での感想をまず書いておこうと思う。

まず第一に、このマンガは、「下から目線」のマンガだと思った。

たとえば、「OnePiece」では、ルフィは最初から海賊王を目指し、ずっと「高いところ」に目を置いて周りを見ている。それは多分、作者の視線、作者の見えている世界でもあるだろう。基本的に登場人物たちはみな視線が高い。強敵とぶつかって己の力のなさを思い知っても、すぐ切り替える。強敵も、すぐ乗り越えて行く。その結果、敵の強さはどんどんインフレを起こし、主人公側も空を飛んだり(歩いたり)、バズーカ並みの打撃を加えたり、天候を操ったりすることが可能になって行く。もちろん元々が「ゴムゴムの実を食べてゴム人間になった少年モンキー・D・ルフィ」が主人公なのだからそれでよいのだが、この作品の視線の高さ、というものは「キングダム」を読んだ今となっては凄く特徴的なものに思えて来ている。

それは、OnePieceの作者である尾田栄一郎さんが、明らかに天才だ、ということが大きいのではないかと思う。

いまジャンプから出版されているマンガ家を目指す人への指南雑誌、「ジャンプ流」が鳥山明・岸本斉史編に続いて尾田栄一郎編が出ているが、その付属DVD(これが凄い。NHKと浦沢直樹さんが企画した「漫勉」のようにマンガ家の鉛筆やペン、筆の動きをずっと追っている。)のインタビューで尾田さんが言う、「イラストは描きながら描きたくなった対象、キャラを描いている、始めから決めて描いているわけではない、なぜならその時描きたくなったものが一番新しいものだから、一番新しいものしか描きたくない、そうやって描いて来た」、という言葉を読んで、尾田さんは天才だとしか言いようがない、と思った。

そして、尾田さんは本当に絵を描くのが好きで、その「好き」を失わないように血のにじむ思いをして描いてきているんだと思った。

しかし、天才には天才なりの弱点もあって、やはりむらっ気の部分がないわけではないし、東の海編、アラバスタ編、空島編、ウォーターセブン編、と延々と続く中には、ファンの間でも評価の別れているシリーズもある。もちろん、そういうことを議論するのがファンの楽しみだ、ということもあるのだけど、やはりストーリーにしろ絵にしろ乗って描いているところとそうでもないだろうと感じさせるところは出て来ている。

それに対し、「キングダム」は、特に11巻まではあっという間に、息もつかせずにどの巻も「あれ?もう終わり?」と思いながら読んでしまった。

12巻が面白くなかったのではない。12巻が神巻だったのだ。あまりに面白くて何度も読み返したり、ひとつひとつのページを大事に読みたくなって、読むスピードがそれまでに比べて遅くなったのだ。

(もちろん、11巻までがそうだったのは、というのは2巻から40巻までは買いに行く時間も面倒だし本を置くスペースも確保が大変なので全部Kindleで読んだからで、物理的な本ではないので意識しなければいまその巻の中でどのへんを読んでいるのか分からなくなってしまうからだ、ということもある。いい意味でも悪い意味でも電子書籍は作品の読み方を変えている。)

「キングダム」の主人公の「信」も、最初から目標は高い。天下の大将軍になる、という目標を下僕のみでありながら、友の「漂」と持ち、それを実現するためにがんばって行く、という点ではOnePieceのルフィと同じなのだが、ルフィが「自ら冒険に乗り出して行く」と言う、ある意味余裕のあるスタートを切っているのに対し、信は「低いところにいる自分」を自覚している。漂が「政」の身代わりに殺されたとき、「俺達底辺の者たちは王なんかどうだっていいんだ!」と言い切っている。

そして、「下からの目線」が一番生きている、こういう作品なのだと感じさせたのが、「王騎」のように巨大なカリスマ性を持った大将軍と相対した時だ。唖然呆然と王騎を見上げる信の表情は、そこにものすごい大人物がいる、ということを否が応にも読む我々にまざまざと「見せて」いて、「信」および読む私たちの目線をその「巨大さを下から見上げる」ものにしているのだ。

まさに、その目線の力によって目の前にいる人物がただ者ではないことを示している。月をさす指である。

もちろん、「王騎」など「大将軍」の描写は半端ではない。その漂う雰囲気の描写は、凄いものがある。しかし、信の目線を下から見上げるものにすることによって、その凄さを見せると同時に、その見上げた先にその人物だけでなく、「天」とか「光」といった「高み」を見せることに、「キングダム」は成功しているのだ。

OnePieceの強大な敵たちは明らかに巨大だが、しかしルフィの目線が常に高いために、敵たちは皆マンガ世界の中に封じ込められている。「これはマンガなのだ」と皆了解して、その世界を楽しんでいる。もちろんそれはそれでいいのだけど、「我々が生きる現実」とのつながりという点ではそんなにない。もちろん、「少年マンガ」というものはそれでいい、という考え方なのだと思うし、だからこその面白さも十分すぎるほどにある。

しかし、大人になった私たちにどこか居心地の悪いところを感じさせるとしたら、おそらくはそういうところなのだ。そういう意味で、少年マンガは読者層から大人を切っている。

ところが実際にはジャンプを読んでいるのは子どもだけでなく大人も多い、ということは、むしろ大人の側が想定された子どもの読者に自らを押し込めたり、あるいは腐女子の人たちのように別目線で作品を食い尽くそうとしている、ということなのだと思う。

最近のIT企業家とかの人たちや、「思想家」とされる人たちの中にもOnePieceの「頂点を目指す思想」を称揚し、愛読書に上げている人も多いけれども、そんなふうに単純に考えられる人たちはむしろある種の才能がある、あるいは何か大人としてはどこか欠けているところがあるという気もしていたのだけど、それはつまり完全に作品世界に浸れる、夢の世界にいられる、この現実世界を夢世界として生きているという、ある種の才能と欠落(それは無意識的なものなのか意志的なものなのかは別として。もし意識的なものであるならばそれは「欠落」ではなくある種の「断捨離」であるということになるが)を持っているということなのではないか、と「キングダム」と「OnePiece」を比較しながら思ったのだった。

「キングダム」はもちろんフィクションだし、子ども大人も読めるエンターテイメント作品であることは間違いないのだが、そこにある種の現実がある、リアルが十分にある作品だ。そのリアルの重さに負けないストーリー運びとテンポの良さ、わくわくするようなキャラクターの魅力(特に初期の巨大なフクロウの着ぐるみで現れる河了貂の存在はツボだった)、ツッコミの可笑しさ、決めゴマでの表情の変わり方、はマンガという表現方法の面白さをこれでもかと詰め込んでいる。

つまりそこには、膨大な先行作品の、完膚なきまでの「研究の積み上げ」のようなものがあるのだ。

「OnePiece」や、あるいは「進撃の巨人」はそうではない。こうした作品はいわば、天才の作品だ。もちろん全くの無から生まれたわけではないけれども、「麦わら帽子を被った海賊」が「三刀流の剣士」や「ナイスバディなのに性的なものを感じさせない海賊専門の泥棒」や「臆病でピノキオみたいに長い鼻でウソばかりついている海賊志望の少年」を仲間にして海賊王を目指す、なんて作品を17年以上も連載する、なんて言うのは天才でなければ書けない。「進撃の巨人」にしてもよく絵が下手だといわれるけどそんなのは技術面しか見ていない、マンガの本質が見えてない人の発言であって、あの作品はあの絵だからこそあの独特な恐怖感が出ているのだし、アメコミから構図的なものを引っ張って来ると言う独創性も含めてあんな作品は余人には描けない。もちろんアニメの成功によって巨大なポピュラリティを獲得したということはあるし、原作自体がアニメの影響を受けてある意味進化しているということはあるにしても、それはソフィスティケーションの部分に過ぎない。

しかし「キングダム」は違う。横山光輝の「三国志」を始めとする中国古代史ものや、「西遊妖猿伝」を始めとする諸星大二郎の同じく中国古代もの、私は読んでいないが「蒼天航路」もそうだろうし、鄭問の「東周英雄伝」の描写なども参考にされていると思う。絵柄も背景や主要人物の異様な目の大きさなどは日野日出志的に見えるし、背景の古代中国の描写や服装などの徹底的な調査を含んだ先行作品・先行研究の研究の上に、奇想天外なキャラクターや描写(それもよく見れば何か核になるものの研究の結果という気もするのだが)を放り込んで来る。それこそ決めゴマの「ドン!」という「感じ」はOnePieceの影響も十分に見られるし、何というかそういう「意匠」(小林秀雄的な意味で)を徹底的に研究して使いこなしている、という感じがする。

もちろんそれも類い稀なる才能であることには違いないが、しかし、「普通の人間でも到達出来そうな」境地であるように見えるところが凄い。つまり、平凡な才能しか持っていないと自覚せざるを得ない多くの表現を志すものに取っても、目標になり得る存在だという気がする。キャラクター的に言っても、現実の人間にルフィのように「ゴムゴムの実」を食べてゴム人間になったり「海軍の英雄」の孫で「革命家」の息子であることは不可能だけど、「友と徹底的に技術(信の場合は剣術)を研究」したり、「わずかな光を求めて可能性にチャレンジして行く」ことは、勇気の問題であって不可能ではない。そういう意味で、読んでいて元気が出て来るのはやはり「キングダム」の方であるという人は多いのではないかと思う。

というか、私自身、読む前は何となく気分的な不調を感じていたのだけど、読んでいるうちに気分が上がり明るくなって来て、ひょっと鏡をのぞいたら表情がめちゃくちゃ柔らかくなっていて自分でも驚いた。こんな作品にはそうそう出会えるものではない。このところ「天才の描いた作品」に熱中して来たこともあり、面白いし感動するのだけど自分が身体の底から元気が出て来るわけではない、マンガとは、作品とはそういうものか、という気持ちになりかけていたのだけど、いやそうじゃない、こういう作品もあるんだ、と思えたのは本当にありがたいことだと思った。

総論ばかりで具体的な場面の感想を書くところまではまだいけないのだけど、もう一つ総論的なことを書いておくと、この作品が歴史物だということもとても大きいことだ。歴史物の作品は、歴史上の登場人物、つまり歴史に興味を持ちその時代について多少は読んだことがある人間に取ってはある程度旧知の人物である人たちが出て来る楽しさと、それがどう描かれるかという興味が出て来ると言うメタな部分がとても大きい。なにしろ「大河ドラマ史上で本能寺の変何年ぶり何回目」みたいにネタにされるくらいだから、ある意味私たちは結末もそこに至るストーリーも最初から知っているのだ。

「次の回本能寺の変らしいよ」「信長もう死ぬのか」「本能寺の変で信長死ぬの?ネタバレしないで!」という倒錯したことさえ起こる現代だから何ともいえない部分はあるが、ヤングジャンプ、すなわち青年誌での連載は、ほとんどの読者が「政」は「秦の始皇帝」として「古代中国を史上初めて統一し単一国家にした」人物であることを知っているということを前提として書かれていると言っていいだろう。ネタバレと言えばそれ以上のネタバレはないわけで、これは歌舞伎の通が一場面のみを見せる通しでない芝居を見てもちゃんとその内容を評価出来るのと同じで、ある意味見巧者向けの作品でもなければならず、もちろんマンガとしての面白さもなければならない、そういう構造を歴史物の作品は持っている。

しかしだからこそ、学校で習った歴史では中国を統一した偉人であると同時に冷酷な独裁者としてのみ描かれることの多い始皇帝と言う人物を、高みを目指す意志強固な青年として、人の本質を光と見なし、欲望と見なす呂不韋をも沈黙させてしまう強いカリスマを持った指導者として描くと言う、その「新しさ」に感動させられるのだ。

きちんとこの時代を調べたわけではないのでどこからどこまでが史実でどこからが史実でないのかはよくわからないのだが、(1巻冒頭で主人公は李信と呼ばれているが、李信は実在の人物だ。しかしそれ以降彼は「信」と名前のみで呼ばれ、伝奇的な要素も強くなっているのでどこまでが本当なのかは判然としない)サイ(草かんむりに最)の防衛に自ら乗り出して民衆を鼓舞して首都を防衛した時に神懸かり的な神々しい「政」の活躍は、これがあったからこそ秦の民衆は中国統一という大事業を支ええたのだなと思わせるものがあり、前半中の白眉だった。(この作品は政と信の出会いから加冠の儀・呂不韋の追放によって政が秦の実権を握るまでが前半、そこから中国統一を成し遂げるまでが後半という構造になっているようだ。41巻でまだ後半に入ったばかりというのは本当に大長編になっているわけだけど)

そして、秦の歴史を知っている人ならたいてい知っているだろう嫪毐(ろうあい)の反乱も、こんな描き方があり得るのかと思われるような感動をもって読んだし、ここで前半を終わらせる構造も物語を本当に深いものにしていると思った。

政にしろ信にしろ、唱える目標はとんでもなく高く、作中の人物は皆絵空事だと思っているのだが、読者はそれが実現することを知っている。つまり歴史物を読むということの快感の一つは、ネタバレを知っていることの快感であるとも言えるわけで、作中の人物たちに対して「オレは知ってんだぜ〜へへ♪」と無意識に思っているところにもあるのではないかと思うが、逆にネタバレを忌み嫌うストーリーの感動至上主義の人にとっては歴史物が嫌いだという理由にもなり得るのだとは思う。しかし、実現することを知っているからこそ、作中の人物たちのセリフに重みを感じ、光を感じ、気高いものを感じることも出来るわけで、それはそういうポジションを取るからこそ生まれて来るものであると思う。

個人的なことでいえば、歴史を専攻した人間として歴史を題材にしてこれだけの作品が描かれたということ自体が嬉しい、歴史の祖述ではなく、また現代人の価値観に歴史を当てはめようとする作品でもない。もちろん作品が過去に書かれたものの上に立ち現代に発表されるものであるという時代的制約は十分受けているので、そういった部分ももちろんゼロではないが、そこからの飛躍と着地の鮮やかさにこそ本質があるのだ。

まだまだカリスマ論とか読みなおしているうちに出てきそうなテーマはいろいろあるけれども、とりあえずは初読の感想として、以上のことを書いておきたいと思う。

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