村上春樹さんのデビュー作『風の歌を聴け』(講談社文庫)を読みました。
Posted at 15/10/02 PermaLink» Tweet
村上春樹さんのデビュー作『風の歌を聴け』(講談社文庫)を読みました。
風の歌を聴け (講談社文庫) | |
村上春樹 | |
講談社 |
正直、思っていたよりずっと、面白かったです。何となくイメージとして、難しいことを言ってるんじゃないかとか、あるいは逆にお洒落すぎることを言ってるんじゃないかとか、まあ以前私が村上春樹さんに対して持っていたイメージがあって、特に初期の作品にはあまり手を出していなかったのですね。
私が読んでいるのは長編では『ねじまき取りクロニクル』(1992-95)以降。「アフターダーク」は読んでいません。短編集では『中国行きのスロウ・ボート』、『蛍・納屋を焼く』、『レキシントンの幽霊』、『神の子どもたちは皆踊る』、『東京奇譚集』、『めくらやなぎと眠る女』『女のいない男たち』を読んでいます。それから、数年前に映画化されたのを見たあと、『ノルウェイの森』(1987)も読みました。
ですから、長編の初期の作品がすっぽり抜け落ちていたわけです。
1980年代前半、私が高校から大学に通っているころ、村上春樹という名前はどちらかと言えば「お洒落で車とか乗り回して女の子とデートしている人たち」、が読む作家というイメージでした。同じような傾向の作家と見られていたのは例えば片岡義男さんであり、また今回読んで見て思いましたが、『風の歌を聴け』には沢山のアメリカのミュージシャンや曲の名前が出てきますが、そういう意味で言えばカタログ的で、そういう意味で言うと田中康夫さんの『なんとなく、クリスタル』にも共通するものがあります。『なんクリ』は当時、小説なのにたくさん注がついていて、お菓子屋の名前だとか制服のかわいい女子高の名前だとか、そういうディテールについてすごく詳しくなれるという配慮?がなされていました。当時、マジメ(社会を憂う)系の男子大学生の間では田中康夫さんは蛇蝎のごとく嫌われていましたが、村上春樹さんはそれほどではなくてもやはり自分たちとは縁のない世界、まあ荒井由実さんの音楽などに共通しますが、そんな感じだと思われていました。
私は文学クラスタ(高校で文芸部に入っているような)ではなかったし回りにそういう人はいなかったから、文学をやっている人たちがどういう風に感じていたのかはあまりよくわからないのですが、私の回りはどちらかと言うとそういう「社会科学系」の人が多かったので、ちょっとそういうところに影響されて、村上さんの作品を読もうという感じはありませんでした。
村上さんはその後『ノルウェイの森』でブレイクし、いわば社会現象化しましたが、上下巻で緑と赤と言う単行本の色からも「クリスマスプレゼント向け」というレッテルが貼られていた覚えがあります。ずっとあとになって読んでみて、内容はとてもそんなものではない(笑)と思いましたが、自分の中ですごく長い間固定観念があったのですね。
それが変わったのはもう21世紀になってからのことで、2006年。初めて読んだのが「スプートニクの恋人」でこれはあまりピンと来なかった。感想がこちらに残っています。次に読んだのは『ねじまき鳥クロニクル』で、これは異様な感動を覚えました。特に今でも印象に残っているのは、「井戸に籠る」というモチーフです。「井戸に籠るのもアリなんだ」、というメッセージを自分としては受け取ったように思います。(笑)感想はこちらです。
でも、特に初期の作品に対する「食わず嫌い」は変わらなくて、『ねじまき鳥』以降の作品は読み方がわかった、という感じがあったので基本的には読むようになったのですが、初期の作品は機会がなければ読まない、という感じで、「村上春樹という作家」も「気にはなるけど自分としてはそんなにすごいと思わない」という感じであったわけです。
それが変わったのが、先日読んだ『職業としての小説家』でした。これは本当に感動しまして、特に「小説家は芸術家である前にまず自由でなければならない」という言葉にすごく感銘を受けました。ここのところ「自由」ということについて考え続けていたということもあり、この言葉、というか読み終えたときの「この本は何度も読まなければならない」という感じが、「村上春樹という作家」を「尊敬する作家のひとり」というポジションに持ち上げたわけですね。
この『職業としての小説家』の中で、村上さんは「初めて小説を書いたときのこと」をとても詳細に書いています。神宮球場でヤクルト巨人戦を見ている時にふと小説を書こうと思った、という話は以前から知ってはいましたが、そう思ってから実際に書き始め、それを一度全部書き直し、『群像』に投稿し、最終選考に残ったという電話をもらい、鳩を見ながら自分が受賞することととそれから作家としてやって行けるようになるということを直感し確信した、というところまで、何というか一つの作家誕生のストーリーにすごく感銘を受けたのです。
で、ですから、実際にその処女作である『風の歌を聴け』を読んでみたい、という気持ちはありました。この作品、Wikipediaによると投稿時の題は「Happy Birthday and White Christmas」だったそうで、まあ何というかこの方が村上さんらしい題だとは思いますが、今ならうれるとは思うけれどもデビュー当時にこの題名だとどう誤解されるかわからないし売れなかっただろうなとは思います。きっと編集者に言われたか編集者がつけたかした題名なんだろうなと思います。あまり村上さんらしい題名ではない気がします。
まあそれはともかく、読みたいという気持ちはありながら、自分自身が自分の物語を書くのに取りかかっていたりして、読む暇がなかなかない、という感じになってました。しかし昨日(10月1日)ちょっとアイデアを出すのに刺激をもらいたいと思って書店で本を物色して、そうだこの機会に読んでみようと思って読んでみたわけです。数日かけて読むつもりでしたが、結局数時間でぱっと読んでしまいました。とてもよくできた小説だ、というのが第一印象でした。
この物語は、村上さんの原点だな、と思います。処女作にはその作家のすべてが含まれている、と言いますが、村上さんの場合は、実際、一作一作その「進歩」がはっきりと刻まれている、ということはつまり何か達成したい目標があって、そこに向かって確実に一歩ずつ進んで行っている、という感じがあるわけですが、ですが、と言ってもそうですかと思われるかもしれませんがそのことについてはエッセイやインタビューなどで繰り返し答えていますし、今回の「職業としての小説家」でもそのようなことを書かれている部分がありました。
原点というのはつまり、主人公のいる場所が村上さん自身のいる場所からそんなに離れていない、という意味です。そこから一歩一歩離れて行く、自分と主人公の距離を少しずつ遠ざけて行く、つまり主人公のいる場所を少しずつずらして行くことによって、語られ得る物語世界をすこしずつ広げている、という感がすごくあるわけです。
しかし物語世界が広がって行くということは、ある意味その場所の具体性が減少し、抽象度がまし、ある意味ファンタジー性が広がって、ある種の幻想性が強くなる、ということも意味しているように思います。『ねじまき鳥』などはその辺りが典型的で、まあ私はそういうところが好きだったわけですが、『風の歌を聴け』を読んで驚いたのは、その現実的な意味でのリアリティをむせ返るように濃厚に感じた、ということな訳です。
関西の瀟洒な小都市(芦屋でしょう)から東京の大学に行っていて、夏休みの間実家に戻り、行きつけのバーに通って鼠と言われる友人と話したり、指が9本しかない女性と関係を持ったりし、また東京に戻って冬になって帰って来たらその女性は消えていた、という構造も、村上さん自身の出身と学校歴、芦屋と東京の関係、友人との関係、そして書いた時にジャズバーを経営していたという自分自身の仕事までそこには反映されているわけで、自分からそんなに遠くないところの範囲で書かれている。だからディテールがすごく濃厚で、これはある意味処女作にしかないテイストだと思います。
もちろん作家によってはそのディテールを深め、より濃厚な方向に進む人もいますが、村上さんはそういう方向をとらなかった。少しずつ自分から離れて行くとともに、よりある意味抽象的なリアリティといえばいいのか、そういう方向へ行ったわけです。
この作品では、もちろん処女作ですからそこまでは出来ない。だからどうしたかと言うと、意識的にウソ(フィクション)を導入しているのですね。この物語にはデレク・ハートフィールドというアメリカの作家のプロフィールと作品内容が効果的に引用されているわけですが、実はそんな作家は実在しない。これを真に受けた多くの読者がこの作家の本を読もうとして図書館の司書が大いに迷惑した、というエピソードがある位、真に迫ったウソだったわけです。
で、話の中にも効果的に「ウソ」に対するエピソードが含まれている。でもこの実際に出てくる「ウソ」は鼠に関するそれも九本指の女性に関するそれも、読者を惑わそうと言う企みというよりは、必要とされているウソ、身を守るためのウソ、それが悲しい意味なのか身勝手な意味なのかは別として、という感じで描かれている。
ウソというものは、真実を相対化して無力化してしまう力を持っている。だから読者もはっとして、ここに書かれていることは本当のことなんだろうか、と思わず思ってしまう。まあフィクションなんだから本当もウソもないんだけど、それがウソなら本当はなんなんだろう、とつい思ってしまう、で書かれていない部分に本当を探そうとして、それを見つけたという気持ちになったりもするのだけど、結局袋小路に入ってしまう、みたいな感じになるわけですね。でそこに、ある種の幻想性が生まれる。まあ、煙に巻かれた、とも言えるわけですが。
印象に残ったことの一つは、主人公が高校時代に「僕は心に思ったことの半分しか口に出すまい」と決心したというくだり。そしてある日彼は、「心に思ったことの半分しか語ることの出来ない人間になっていることを発見した」というわけ。こういうことにはすごくリアリティがあって、でもこれを言葉遊びとしか読めない人もいて、だから村上さんの評価はそういう人にとっては低いんだろうと思います。
で、こういうリアリティの方向に、村上さんの作品はどんどん伸びていると思うし、私が「ねじまき鳥」で感動したのは主にそういう方向のリアリティだったように思います。また、デレク・ハートフィールドの引用の中には火星の地下に深くて長い井戸があり、ハートフィールドの主人公がそこに潜って歩き続け、地上に出て来たら15億年経っていて太陽は既に赤色巨星になっていてあと25万年で爆発する、という状態になっていた、なんて話は、浦島太郎や神人同士の囲碁を見ているうちに斧の柄が腐った中国の説話や、諸星大二郎さんのある種の物語にも共通するモチーフで、このへんはすごく好きだったのですが、しかし「ねじまき鳥」で重要なモチーフである井戸が既に処女作で登場していたのには驚きました。
もう一つ印象に残った、と言うかテーマと言ってもいいしまたその回りをうろうろする話だ、と言ってもいいのが「人間は生まれつき不公平に作られている」というケネディの言葉。これはどうやら”Life is unfair.”という言葉で、ベトナムへの予備役の招集に抗議する予備役兵のハンストについて聞かれたケネディが「ベトナムで死んだり傷ついたりする人もいれば、一生サンフランシスコからでない人もいる。人生は不公平なものだ」と「哲学的」に答えて、おそらくはケネディのリベラルなイメージと違ったために、ブーイングされた言葉として記憶されているようです。
この村上さんの引用の文脈では、おそらくはケネディに対する幻滅とかある種の侮蔑のようなものもその元にはいかほどか含まれているこの言葉を引用し、でもまあ人生が不公平であることはある意味誰の目にも明らかなわけで、まあその不公平な例がいろいろ語られているわけですね。鼠は金持ちのうちに生まれたけどその境遇を、金持ち自体を憎んでいる。というのは、鼠の親が金持ちになったのが決して誉められるような事業によってではなかったから、ということがあるわけですが、そんなことは受け入れてそれを乗り越えられるようにがんばるしかないという主人公に鼠が「本当にそんなことを思っているのか?ウソだと言ってくれないか?」というところが面白いなと思います。
また九本指の女性についても、その指を失った事件や、そうやって生きて来てそのあとひどい目にばかりあって来たこと、指を失わなかった双子の姉妹の存在、その他のことについて彼女の人生にいわば闖入して来た主人公と話すところがまあやはりこの物語のメインストーリーだと思うわけですが、まあ、そういうことを含めて彼女の不幸の語られ方がちょっとステロタイプかな、と思わせるところがあります。たぶんそこは、後年の村上さんだったらもっと巧妙にそういう人間を持ち出すリアリティを構築すると思うのですが、その「事実の重さ」みたいなものに頼っているのではないか、と思われる部分はありますね。でもまあそういうところが処女作だと感じさせる部分でもあるし、このキャラクターの設定のしかたを少しずつずらして行って後年の何だか不思議な登場人物たちに進化、ないしは成長させて行ったんだろうなと思いました。
トルストイは「アンナ・カレーニナ」冒頭で「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」と言ってますが、「不幸な人」というのはそれぞれの理由で不幸なので、ひとりひとり「変わった人」になりやすい、ということもあるのだろうと思います。そんなふうにして村上さんが”Life is unfair.”という人生のある意味の真実と登場人物たちがどんなふうに付き合っているか、「救い」のように見えるものとどう対しているのか、そんなことについて描いていて、読む側ではそれを「人生の理不尽とどんなふうに付き合って行けばいいのか」「何が救いになるのか」と読み替えて読んでいることが多いのではないかと思います。
それはまあ、社会を変革して平等で公正な社会を実現しようと言う70年代までに語られていた、そして当時は色褪せつつあった正義の立場から見れば微温的でブルジョア的な問いであることは確かで、まあそれは「社会を変えようとする社会科学」「社会にはコミットせずに自分の心のもち方を変えれば何とかなると考える心理学」みたいな構図に回収されてしまっていたところがあって、まあだから私自身も村上さんの作品にあまり興味を持てなかったところがあるわけですが、社会がそんな二項対立とは違うところでどんどん変化して行って、その対立の意味も内容もまた変化して行き、むしろ村上さんがある形で社会の方にコミットして行こうと言う姿勢さえ出て来たり(そういえば田中康夫さんも県知事になったりして現実政治にコミットしようとしましたね)また変化しているとは思います。
ちょっと話を大きくし過ぎましたが、まあこの問題は戦前のオールドリベラリストの系譜と左翼改革派の系譜の対立から続いていると言えば続いている問題なので、村上春樹という存在もまたあとの時代から見れば現在我々が見ているのとは違った存在に見えるんだろうと思います。
まあそんなことはそれとして、一番印象に残った、というか好きだったのは35章と36章の九本指の彼女と港の見えるレストランで食事をしたあと、波止場を歩いている情景描写でした。
「倉庫のひとつひとつはかなり古びていて、煉瓦と煉瓦の間には深い緑色の滑らかな苔がしっかりと貼りついている。高く暗い窓には頑丈そうな鉄格子がはめられ、重く錆び付いた扉のそれぞれには貿易会社の表札がかかっていた。はっきりとした海の香りが感じられるあたりで倉庫街は途切れ、柳の並木も歯が抜けたように終わっていた。僕たちはそのまま草の茂った港湾鉄道の軌道を越え、人気のない突堤の倉庫の石段に腰を下ろし、海を眺めた。
正面には造船会社のドックの灯がともり、その隣には荷物を下ろして吃水線の上がったギリシャ籍の貨物船がまるで見捨てられたように浮かんでいる。デッキの白いペンキは潮風で赤く錆び付き、その脇腹には病人のかさぶたのように貝殻がびっしりとこびりついている。
僕たちは随分長い間口をつぐんだまま海と空と船をずっと眺めていた。夕暮れの風が海を渡り草を揺らせる間に、夕闇がゆっくりと淡い夜に変わり、いくつかの星がドックの上に瞬き始めた。」
ここは、いわば二人の沈黙の描写、沈黙の情景を描いているわけですが、ここはすごく上手いな、というか美味しいと言えばいいのか、いい描写だなと思います。
特に好きなのは「荷物を下ろして吃水線の上がったギリシャ籍の貨物船」というくだりで、ポンと物理的な浮力のイメージがそこに投げ込まれているのは私はすごく好きでした。「病人のかさぶたのように」というイメージの投げ込み方はちょっといやですが、まあそれはしょっちゅうやってますよね、村上さんは。(笑)
まあ、”Life is unfair.”というのは、ある意味物理法則のように変えられないことで、まあそれに付き合って行かなければいけない人間というものを、ある意味静かな気持ちで眺めている。この冷静さの感触と言うのがいやな人にはいやだろうし、その気づきが必要な人には評価される、という感じがします。
全ての人に受け入れられる作品は駄作だ、という話から言えば、この作品は読む人を選り好みする。数百万部売れるようになっても、多分村上さんの作品を嫌いな人は嫌いだし読む気にならない人は読む気にならないだろうなと思います。
ただまあ、私のように「食わず嫌い」で、状況に左右されて来て本当は好きだったかもしれない、ということもあるかもしれないし、まあそんな人がこのレビューを読んで村上春樹を読んでみようというきっかけになったら、まあ私としてはちょっと役に立てたかな、という気がするなあと思います。
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