免許証/石臼の氷/元気を回復する呪文/盆栽という魔法

Posted at 15/03/25

昨日帰郷。月曜日、銀座を歩いていて財布の中を見たら免許証が入っていないことに気がついた。財布を持ち歩くのが面倒なとき、免許だけコートやジャケットのポケットに入れて運転するときがときどきあり、おそらくそのせいで忘れてしまったのだろうということは思い当たったのだが、それにしても免許を紛失してしまったら面倒なことになる。運転も出来ないし、再発行のためには東京に戻らなければならないが、そんな時間はなかなかとれない。確認するすべもなく、昨日帰郷してから思い当たるコートのポケットをいくつか探ったら、でてきた。それだけのことだが、そんなことが丸一日心にのしかかっていて重かったので、だいぶ楽になった。気をつけないといけないと思う。

今朝はまた寒い。朝、iPhoneのアプリで気温を見たら-3.2℃だった。3月の下旬になってこの気温というのは、そんなにあったかなと思う。家の玄関の前の庭のところに石臼を出してあって、(手水鉢にしているとかそんな洒落たものではなく)そこに雨水が溜まってしまうのだが、その水に氷が張っていた。池の鯉たちも、今朝は餌の食いつきが悪かった。寒いのだろう。

今朝は、昨日いいことがあったということもあって、だいぶ元気が出てきた感じ。細々した問題は沢山あるのだけど、それは良くなる過程で解決して行かなければならないことなのだろうと、元気のあるときは思える。

元気がある、ないというのはコントロールが難しい問題なのだけど、直接関係のない話だが昨日「易経」を読んでいてこういうときには警戒が必要、みたいな言葉がでてきた。で、これは面白いなと思った。

というのは、不安に思ったり怯えた気持ちがあったりすると元気がでないわけだけど、そういうときにそのことについて「不安に思う」のではなく「警戒する」と思ってみると、自分の立場が受け身から主体に転換するのだ。で、主体性がでてくると、元気が出てくる。あんまりネガティブなことに主体性を持たない方がいいと言う面はあるだろうからあれだけど、「警戒する」ことによって「怯えてられない」、「不安がっていられない」感じがでてきて、つまりは元気が出てくる、ということになるんだ、と思った。

そういうことって、多分あるんじゃないかな。主体性の大切さというのは、そういう元気というエネルギーが自分の心にちゃんと供給されるか否か、というところにあるんじゃないだろうか。消防の水のホースの繋ぎ手の部分のように、そこからエネルギーが漏れないようにしてエネルギーを伝える。そういう働きなんじゃないかと思ったのだった。

多分、同じように感情的な言葉を主体的な言葉に転換することによって、やる気も元気も出てくるということはあるのではないかなと思った。呪文みたいなものかもしれない。

朝のNHK FMのニュースで外国人に盆栽人気が高まっている、というのをやっていたのだけど、確かに鉢植えの500年生きてる松とか、もう魔法みたいなもんだなと思ったのだった。

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by Luke Peterson

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