挫折の殻と妄想/その人にしか出来ないことを持っている人/危険と遊戯

Posted at 15/03/24

今朝は思ったより寒い。朝、6時過ぎに洗濯物を外に干そうとして外に出たらあまりに寒くて驚いて、とりあえず中に干した。iPhoneのアプリで気温を見ると4℃台。これは寒いなと思い、諏訪の気温を調べるとマイナス2℃台だった。今年は春の声を聞いてからもずっと気温の低めの日が続いたが、先週末にはだいぶ気温が上がったのでこのまま行くと思っていた。しかし今朝は寒い。昨日も少し荒れ目の天気だったし、まだまだ素直に春がきた、とはならないのかもしれない。

いろいろ考えていて、自分が格好を付けているな、と思う。お茶を入れながら、それは自分の挫折体験の裏返しなんだな、と思った。挫折の泥沼から自分を引っ張り上げるよすがに、自分は本当はこんな筈ではないんだ、もっと「かっこいい」筈なんだ、という一念で自分を自分を引っ張り上げた、という面があったんだなと思う。挫折というものは、ケースによってその仕方は違うとは思うけれども、こじらせるとそれによって「自分が一体何者なのか」が分からなくなってしまうというところがあると思う。おかしい、こんな筈じゃない、自分はもっと「○○」だった筈だ、と思う。その「○○」によってそこから立ち上がろうとする方向性が決まる、という面はあるのだろう。それが自分に取ってはおそらく、「かっこいい」筈だったのに、ということだったのではないかなと思う。

挫折した後というのは生命の最後のきらめきのようなもので生命を回復するための自己表現のようなものが次から次へとわいて来ることがあるわけだけど、それと「○○」だった筈だ、といういわば妄想と合体してしまうと表現が不自由になってしまう。とりあえず自分自身を癒したら、自分が「出来ること」を考えなければならない。それはむしろ、「○○」ということとは無関係のところにあったりするわけだから、それをとりあえず仕事にしてみてもその「○○」ということとは結構距離があったりして、何か自分の中で「不本意ながら」という感じでその仕事に取り組み始める、ということになったりする。

まあそういう「挫折の殻」のようなものを引きずっているんだな、と思った。人間、カッコいい方がいいと思うが、「カッコつける」方がいいとは限らない。大体それはいわゆる「若気の至り」のようなものだから、変に気張ると逆に裏が薄いのが透けて見えたりして、あまり格好は良くない。格好良くするためにはカッコつけない方がいい、というそういう逆説が成立したりするわけで、なかなか難しい。

しかしまあこれはかなり年を重ねてからの話で、若者は背伸びをしてカッコつけるのも勉強なので、どんどんカッコつけて無理を自分に課してみるのも悪くないと思う。無理しすぎることはないけど、今までの自分の限界を超えるという意味で、特に若いうちはそのトライが身になりやすい。

挫折の後のトライはもともと心も身体も痛んでいることが多いからあまり無理しない方がいいわけで、心身が充実して来るのをきちんと自分で測りながら、それに応じてトライを増やして行くことが大事だろうと思う。どういうトライが自分に必要なのか、特に「○○」ということがあると本当に大事なことが見えにくかったりするんだな、ということを今書きながら考えていたわけだけど、長い間積み重ねてきたことを形にして行くのは良いことだと思うし、それこそ格好を付けないで滲み出て来るものをきちんと言葉にして伝えることでむしろ本当のかっこうよさが出てくるということなんじゃないかと思った。急がば回れ、というか。

「教える人」というと孔子や孟子、あるいは江戸時代の私塾の先生たちのようなものを思い出す。孔子は理想にこだわる人で、そこがカッコつけてたように見えなくはないのだけどあれはただ本気なだけだった。孟子はカッコつけてるところがあって、そこが稚気があると言うか、ある種の茶目っ気になっている。

何というか、人を教える、伸ばすということにおいて、その現場はほかにはないものがあるし、その個性はそれぞれだ。たとえば松岡修造は「エールを送る」役であって現役のプレイヤーではないけれど、あの「熱さ」は誰にも真似の出来ない。というか、むしろ現役時代よりも彼を知っている人は増えているかもしれない。明らかに彼は彼にしか出来ないことをまさに今やっているわけで、それが「道」なんだろうなと思う。

学ぶ面白さを伝えること。その人の中に眠っている学びへの情熱を呼び起こし、自分で勉強する気持ちの温度を上げて、なるべくそれが冷えないように、また暴走しないようにして、そのあとの方向性を見守り、相談しながら伸びるべき方向に伸ばして行く、クリアすべき条件があるならそれがクリア出来る方向に持って行けるようにする、ということなんだろう。一斉授業形式の大衆教育が始まる前の江戸時代の私塾などは(寺子屋も基本的にはそんなものだろう)多分そんな感じだったんじゃないかなと思う。

カッコいい先生、ってなんだろうか。教えるのが好きで、上手で、生徒の現状をしっかりつかんでいて、その向くべき方向性に付いて意見は持っているが押し付けず、一番必要なときにその見解と意見を用いて生徒自身にその方向性を見つけ出させ、上手にその背中をおしてあげる。自分の世界を持っていて、その言葉の端々にその世界の片鱗が垣間見えてすごいなと思わせ、自分でも自分の世界を広げ、力を向上させようとしている、その先生にしか出来ないことがあって、それがさらに伸びたり増えたりしている、そんな先生だろうか。

そうだ、その人にしか出来ないことを持っている人は、誰でもカッコいい。

そのサークルの中でこれはこの人にしか出来ない、というのはまあそのサークルの中ではカッコいいが、世界中で本当にこの人にしかこれは出来ない、ということがある人はやっぱり文句なしにカッコいい。

その人にしかできないこと、というのはある意味「魔法」みたいなものだな、と思う。

魔法使いは多分、かっこイイのだ。

***

今日の武田双雲さんのメルマガより。「相手を大事にするということと、気を使って自分をすり減らすことをごちゃ混ぜにしないこと。」はっとさせられることが多い。相手を大事にすることは、自分の譲れないことを譲ることではない、と言い換えてもいいだろう。何が自分の譲れないところなのか、というところはいつも検証しいつもはっきりさせておかないと、この世で生きていくということは結構大変だ。

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大河原遁「王様の仕立て屋 サルトリア・ナポレターナ」第9巻。前シリーズでは店舗を持たずに営業していたナポリの凄腕の日本人仕立て屋・織部悠だが、このシリーズではナポリに店舗(サルト)を構えて客の様々な注文に応じている。

第9巻ではテーマを「コート」に絞り、バルマカーン・コート(ステンカラーコート)、トレンチコート、チェスターフィールド・コート、ダッフル・コート、インバネス・コート、ピーコート、ポロコートが取り上げられている。巻ごとにテーマが違うので、一巻読むと紳士服のそのアイテムに付いて、ある程度の知識が得られる、と言う作りになっている。

当然ながら物語の筋立てにもいろいろ工夫が凝らされていて、特に「大人の男」のアイテムを扱っているので、話もそういう方向のものが多くなる。萌え系のキャラや展開を取り入れつつそういう話を扱うというのが斬新なんだろうと思う。

今回印象に残ったのは、52話でニーチェの言葉が引かれていたことだ。

「本物の男は二つのものを求める。それは危険と遊戯である。だから彼は女を最も危険な玩具として求めるのだ」という「ツァラトゥストゥラ」の一節だ。

この言葉は読んだことはないのだけど、「老いた女と若い女」の一節のようだ。危険と遊戯、というのは面白いなと思う。

取り立てて論じるほど考えているわけではないのだけど、印象に残ったので書いておいた。

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