正統と異端の権力関係/日本人と抽象思考

Posted at 14/09/09

正統と異端の権力関係/日本人と抽象思考

少し沈み気味と言うこともあり、アウトプットよりインプットが多めになっている。書こうと思ったことを書かないうちに次のインプットが始まってしまう傾向があり、なかなか書けない。考えていることをまとめて文章にしようとする動きが形を取らないうちに気分転換に出かけて次の対象を見つけてしまうためで、気分がなかなか上がらない時と言うのはそういうことになることが多い。

魔女の世界史 女神信仰からアニメまで (朝日新書)
海野弘
朝日新聞出版

ここ数日読んでいて面白いと思っている本は海野弘『魔女の世界史』(朝日新書、2014)なのだが、昨日からこの本について、またこの本を読んで考えたことを書こうとして書けず、また読み進めようと思ってもここから大事なところだと言うのに何となくかったるくなって次に進めない感じになっていて、沈んでいる時と言うのは頭の働きが鈍くなっていて困るなと思う。

ヨーロッパ思想を読み解く ――何が近代科学を生んだか (ちくま新書)Kindle版
古田博司
筑摩書房

今日夕方出かけて見つけた本が古田博司『ヨーロッパ思想を読み解く』(ちくま新書、2014)。韓国思想が専門(だと私は思っていた)古田さんがヨーロッパ思想を、とへえと思って読み始めたのだが、専門のヨーロッパ哲学者にはない視点でヨーロッパ思想の中核にあって自明の前提になっている「何か」がその叙述の対象であることが分かって、非常に興味を引かれて買ってみた。

どちらの本も、『ヨーロッパ』とか『西欧近代』という「正統」ないし「中核」を違ったサイドから見直してみようという姿勢に共通性を感じた、というか、自分が今まで言葉にならないながらも疑問に思っていたことが上手く説明されているように思った。

魔女の世界史、と言うのは文字通りの中世の魔女イメージについても書いているが、18世紀末からのゴシック小説の流行や歴史家ジュール・ミシュレの魔女研究、19世紀末の世紀末、婦人参政権運動に始まるフェミニズムの潮流や中世の魔女に対する研究の進展など幅広い視点で「魔女」という観念や現象について書いているという印象。ただ、私が目を開かれたと思ったのはそういうことではなくて、19世紀になってなぜ魔女が再び注目されるようになったのか、についての著者の見方だった。

19世紀になって近代化・都市化が進むことによって、表通りの明るさ・華やかさは増して行く。しかしそれは同時に裏通りのほの暗さの魅力が逆に発見されることでもあった、というのだ。そのことを指摘したのがベンヤミンの「パサージュ論」だ、というわけだ。

近代の光(啓蒙とはenlightenmentというけれども、それは文字通り光をともすこと、だ。またルイ15世時代の啓蒙主義の時代をフランスではLe temps des lumières=光の時代と呼ぶ)によって見えなくなったモノを見たいと人は思うようになる、という説明は説得力があると思うし、つまりそうやって正統とオルタナティブというものは生まれたのだなと思う。

人は多くの場合光の側につきたいと思うし、世の正統の側にいたいと思う。その方がより生存が保証され、より安穏に暮らせる可能性が高いからだ。しかしそれはより真実であるとは限らない。光に対する影の側に引かれて行く人たちもいるし、また光の側からふるい落とされて影の側に回る人、また最初から最後まで影の側にしかいられない人もいる。またもちろん、影の側から光の側に出て行く人もいる。

そこに働いているのはある種の力学であって基本的に人は光を望み、光に引かれて行くのだと思うけれども、ひとびとを引きつけるのは力学だけではない。

例えば、人は「何が真実か」「自分は何が正しいと思うか」ということによっても動くわけで、そういう動機で自分の居場所を定めて行く人にとっては、権力関係は何か不思議なものに見える。

私はどちらかと言うとそういうものに鈍感な方だったから、世の中で主流の生き方とかそういうものに動かされる気持ちがほとんどなく、大学4年のときにも就職活動をするという発想がゼロだった。自分としては自分に取っての真実により近い方へ行こうと努力をしてきたのだけど、結果的にどちらかと言うとオルタナティブな側に近いところにいる感じになっていて、どうも世の中の構造があまり良く見えなくなっていたのだけど、この本を読んでいてそうか世の中の人にとって正統と異端(オルタナティブ)という構造とか、多数派か少数派かと言う構造とかは私が思っている以上に重要なのだということが、この本を読んでいて何となく理解できた感じがした。

まあ自分として正しいと思う方を自分で選んで進んでいるうちに、わりとめんどくさいところに出たんだということは、ちょっと自覚した方がいいんだということを理解した、と言ってもいい。

まあそんな位置にいるんだという自覚は多分、世の中を違う面から見てそれを描写する小説というジャンルに取っては必要な、というか意味のあることだと思うし、そんなことからモノを書いて行ってみたいと思う。

私は勉強とかしていてもつい原則もちゃんと理解していないのに例外の方ばかり見てしまうタイプの、そういう意味では勉強の下手なところがあって、それで高校時代、英語の学習に失敗したみたいなところがあるのだけど、その後も正統も理解してないのに異端にばかり引かれるというところはあった。

まあ正統も異端もどちらも人間の考えた思想に過ぎないということを理解してからはむしろ正統を先に理解した方が異端も理解しやすいということに気がついて少しずつ調べるようにはなったのだが。

古田さんの議論はまあいえばプラトンのイデアやアリストテレスの形相というものをどのように理解するか、ということなのだけど、少なくとも西欧人に取ってはイデアや形相は「あの世」のものではなく「この世」のものだが「こちら側」ではなく「あちら側」のものだ、という説明が面白いなと思った。つまりイデアというものは事物のanother sideであってanother worldではない、ということだ。そしてそれをとらえるのは直感や超越による、というのだ。

しかし日本人に取ってはそういうものはあの世のものと一緒くたであり、だから科学でも直感とか超越によって物事の本質を把握しようとすることは嫌われ、地道な実験や観察によってのみ迫り得るものだと考えられてしまうのだ、というわけだ。また日本以外のアジア人に取ってはanother sideもanother worldもなくすべては現実だ、という考えで、このあたりは古田さんの韓国論で語られていることと同じようだ。

物事や事物には現実存在というものと違う側面を持っている、という発想が遺伝の法則などの発想と発見につながった、ということで、そのことは多分唯名論と実体論と言ったところにもつながって行くのだと思うけれども、少なくとも自然科学においてはその考えは一定の成果を上げてきたということはいえると思う。

日本人が抽象思考が下手だ、といわれるのはつまり、そういうanother sideというものの存在が実感できないと言うか、むしろオカルトみたいなものと区別ができない感じでとらえてしまうところがある、ということなんじゃないかと思う。

ただ、西欧人のそういう思考も人文学や政策学的な部分に関しては必ずしも有効でないところがあると思うし、例えばアメリカがアフガニスタンやイラクの占領政策に失敗したのは、あるべき政策のイデアのようなものと現実をどうしても近づけられなかったところにあるのだと思う。また、日本が今でも苦しんでいるのも、アメリカに押し付けられた憲法と日本の現実との埋めがたい空隙のようなものから様々な矛盾が生じてしまったことに起因する部分が多いのだと思う。

ただまあ、例えば桜井章一さんが勝負についていうこととか、甲野善紀さんの古武術の理論のようなものは、another sideを立てれば十分説明原理として成り立つようなところがあるのではないかと思う。日本で現在オルタナティブなポジションにある多くのものも、another side的な認識が多くの日本人にできるようになって行けば変化があるような気がする。こうのさんの古武術理論などを読んでいると「身体の抽象思考」という感じがするし、そういうのって面白いなと思う。

そう、確かに多分、日本人は抽象思考が苦手な人が多いのだと思う。そしてそういう意味での抽象的な議論を始めると怒りだす人が多い。自分の理解できないことを議論されたら頭に来るのはしかたがないのだけど。でも世界的にはどんなに地道な努力をしても全然評価されないし、一発で世界を説明するようなCoolな抽象思考の方が支持されるわけで、その辺りのギャップを感じてる人は多いと思う。

じゃあどうしたらそういう抽象思考が理解できるようになるか、また実践できるようになるかについては考えて行かなければならないが、実はけっこうすでにできるようになっている人もそれぞれの分野のトップクラスの人たちの中にはいるのではないかという気がする。その辺りのこともこれから観察して行けるといいなと思う。

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