アイデンティティとか自我関与とか

Posted at 14/09/04

人間のアイデンティティとか自我とかいうものは、結局その人間がそれまでしてきた経験・行為・思考そのものなのだな、ということを思った。

自分は日本人だ、とか男だ、というような客観的な事実、というか誰が見ても分かる事実、というようなものは、もちろん分かりやすい部分でアイデンティティになってはいるだろうけど、「自分がどんな人間か」というのを考えたときに、そういう自明の事実というのはあまり大きな意味をなさない。もちろん他者と話していてそういうことに自覚的になることはあるだろうけれども、男だからこうする、とか日本人だからこうする、というような行動に結びつく次元では、必ずしもそう強くはないだろう。

自分にとって「自分が自分であること」の上で重要なのは、日々自分が経験していること、行為していること、思考していることであり、場合によっては「思い知らされていること」であるのだろうと思う。だから、思い知らせることが多い人にとっては、「女性であること」が意識の上でアイデンティティに強く関わって来ることもあるだろうとは思う。

例えば、自分が「都会人である」のか「田舎者である」のかということは、実はあんまり意味がないだろう。言葉として意識することはあっても、都会人だからこう行動する、と思って行動することはあまりないに違いない。こう行動したのは自分が都会人だからだな、とあとで思うことはあるかもしれないが。つまり、そういうことは帰納的に感じることに過ぎないのだろうと思う。

しかし自分が「お洒落である」ということにアイデンティティを置いているのだとしたら、それは「お洒落でありたい」という意志の問題であって、つまり普段から「どのような服装をし、どのように振る舞い、どのように発言すればお洒落なのか」について考えていて、それを実践しているからだ、ということになる。それは漠然と日本人であることとか男であることとかとは違うレベルのことだと思う。

そんなことを考えたのは、今朝起きて「モーニング」と「One Piece」75巻を買いに行こうと思った時、その前にちょっと家の周りの草刈りをしようと思って作業していたら、ハチが出たからだ。今年は雨の多い年で、ということはつまりあまりめちゃくちゃ暑い日というのはそうは多くなかった。去年はめちゃくちゃ暑くて、なんだかそこら中でハチが大発生した印象があったのだが、今年はそうでもないのにでも涼しい今日になってハチが出たから、暑くなかったのになあとかそういうことを考えていたのだ。

夏が暑いとハチが多いとか、雨が多いとそれほどでもない、というのは、基本的には経験しなければ分からないことだ。それを思った時、ああ、こういうちょっとした気づき、ちょっとした経験、ちょっとした知識を積み重ねて行くことで、人は「その土地の人間」になって行くのだな、と思ったのだ。

その場にいる、ということはその場に関わる、ということだ。そしてそのことにより主体的であればあるほど、「自我関与 ego-involvement」が強くなる、ということになる。将棋が強くなり、棋士として生活するようになれば、人は「将棋」が自分のアイデンティティの一部を形成するようになって行くだろう。自分が何にどのような形で自我関与していくかが、アイデンティティーというものの基盤になっているのではないか、ということを考えたわけだ。

私はそういうものを客観的に見る癖がついていて、というか子供の頃からそういう傾向はあったし、なんというか「客観的に見なければならない」ということにむしろ「こだわり」があった、ところがある。ここ数年は逆に、自分でも主観的にも見られるんだ、ということにむしろこだわるようにしていたところがあるのだけど、やはり三つ子の魂的なことで言えば、自分自身を客観的に見る癖のようなものは抜けずにあるように思う。

もちろんそれは悪いことではない、はずなのだけど、客観的にということを思いすぎると、自我関与自体を避ける傾向が出て来る。まあこれはある意味若者っぽい短絡なのだけど、どうせ何々ならはじめから何々しなければいい、というパターンの思考にはまってしまうということだ。これは突き詰めればどうせ死ぬんだから最初から生きなければいい、という話になってしまうので、まあそこまでいけば間違いには気がつくわけだけど、そのパターンにはつかまりそうになることはある。

しかし実際には、私の場合「生きたい」というのは本当はけっこう強いなと思うし、今日にしても朝からもう「One Piece」の75巻や「ピアノの森」の新しい回を読みたくてしかたがなかった。そういう自分であるということは大切なことなのだけど、そういう自分の形自体を整えて行くことで、より良く生きることができる、ということなのだろうと思った。

閑話休題。

上達の法則 効率のよい努力を科学する (PHP新書)
岡本浩一
PHP研究所


最近、岡本浩一『上達の法則』(PHP新書、2002)という本を読んで、「自我関与」という言葉を知り、自分にとってこの言葉はかなりキーになる言葉なのだなと思ったのだった。

自分がどう言う人間なのか、ということは、自分が何に関与感を感じているか、特に肯定的な関与感を感じているかということと関わりがある、と思ったからだ。

上に述べたように、私はこの自我関与感に対して、否定的なスタンスを取りがちなのだ。だから逆に言えば、本当に肯定できる自我関与感を持てるということが、自分にとって大事なことなのではないかと思うのだ。

そういう意味で、自分が結局何にもっともそれを感じるかと言えば、書くこと、特にフィクションを書くことなのだなと思う。フィクションを書いていると、また自分なりに満足した形でフィクションが書けたら、幸せ感があるし、生きているという実感が一番強い。そして、自分の書いた物の評価がすごく気になることが少し前には強くあった。また新しい長い物を書いたら、それがまた強くなるということはあるかもしれない。

これは自分にそういう才能があるかどうかということとは、また別の問題なのだ。生きているということを楽しむ、そのために必要なことだと言えばいいだろうか。また、クリエイティブであるということは楽しいことだけではないのも当然だけど、そういうことともまた違う。そこに生まれる手ごたえというものが、やはり他の行為とは全然違うということなのだと思う。

うーん。どうも今いち書きたいこととフィットしている感じではないのだけど、手掛かりくらいにはなるだろうか。

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