生きている気がするように生きること

Posted at 14/02/05

生きている気がするように生きること。

いろいろなことを考えていて、自分の考えたことをどんな風に書けばいいのかずっと考えていたのだけど、つまり私のしたいことは何かと言えば、「生きている気がするように生きる」ということなのだ、ということが分かった。

これは、ブログのアクセスをあげるために、アクセスが多かった時期のブログを読み返していて目に入った言葉だ。

『日出処の天子』:生きている気がするように生きること

これは物語終盤、毛人を失った厩戸皇子の、「私はこの国を自分の思い通りに動かしてみせる。別に志があってのことではない…何か、何かしていないと…生きている気が…しないから。」という言葉から来ている。人はなぜ生きるのか。生きている気がするために。生きている気がするとは、どういうことだろうか?

日出処の天子 〈完全版〉/第7巻 (MFコミックス ダ・ヴィンチシリーズ)
山岸凉子
メディアファクトリー

結局、生きている気がするとは、困難にチャレンジするということ以外にないのだろう。生きること自体が大変な人にとってはまず生きおおせることがその最大の目標になるわけだが、何となく今の自分はぬるま湯の状態だなと感じている人にとって、あえて大きなチャレンジをするしか、生きている気はしないのではないだろうか。

それは生きるのに必死な人からすれば贅沢な話なのだけど、なんとかその状態から脱した人にとって、ただ生きるだけでは生きていないのと同じに感じられてしまう。そして生きていることを感じられるためにチャレンジをする時間は、そんなにあるわけではない。

若い頃なら、好奇心もあるだろう。見えない鎖を憎み、それを引きちぎることで『生きている気』がすることもあるだろう。夢や希望が、またその反対の反抗やロックが、若者のためのものであるのは、そこにヴィヴィッドな生そのものがあるからだ。

もちろん年を取っても、そういうものがなくならない人もいる。ただ、なくならなくても経験は積んできているから、ある意味先は見える。子供のような好奇心や反抗心だけでなく、人というものがどういうものかとか、今生が限りあるものであるとかいうことは、実感としてひしひし感じざるを得ない。

そうなっても『生きている気がする』にはどうすればいいか。それはチャレンジするしかないのだろう。自分の限界を十分に知っているからこそ、自分の限界を超えるために手を尽くしてチャレンジする。若い頃よりも世界が見えているのだから、その世界にどうやったら手が届くかということも、若い頃よりは知っているはずだ。

若い者がチャレンジしていかなければ世の中は変わらない、と言うけれども、チャレンジしなければならないのは若者だけではないだろう。世の中に生きていながら、十分に『生きている気がしない』大人はたくさんいるはずなのだ。

そのために、チャレンジしていこう。大事なのは、「生きている気がする」ことなのだ。

大事な人を守るために戦うことが生きている気がするならそれでもいい。でも大事な人ーー例えば子供ーーはいつまでも自分に守られる存在ではない。その空虚は埋めなければ、生きている気はしないだろう。

どんなチャレンジかは人それぞれだろう。自分が今まで積み上げてきたことを社会に還元することで生きている気がする、という生き方は賢明だ。今までやりたくてもできなかったことにチャレンジするというのもまたいいだろう。

子供のような好奇心を持ち続けている人は、それを十分働かせて新しい分野に乗り出していくのもいい。でもどのケースに当てはまらなくても、空虚を抱えている人はいるはずだと思う。

若者がチャレンジすることが、この社会を新しく生まれ変わらせていくことは確かなのだが、それは若者だけの力でできることではないのだと思う。若者が多い社会ならそれも可能だが、日本のような社会では若者だけではなく、大人もチャレンジしていかなければ変わらないだろう。

より多くの大人が本気でチャレンジしていく社会になったら、世の中はどんなに変わるだろうかと思う。

そのための第一歩は、自分から踏み出すべきだろう。

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