『国家の本来の役割と、国家が個人に幻想を与えることでその安定を図っている現状、とか』

Posted at 14/01/25

『国家の本来の役割と、国家が個人に幻想を与えることでその安定を図っている現状、とか』

昨日書いたことを朝の寝床の幽明境中で考えていたら、いろいろ考えついたので、そのことについて軽く。

理想の社会というのはどういうものか、という問いに対して、昨日は「一人一人のやりたいことがやれて幸福である」社会が理想だ、という一応の答えを書いておいた。

そういう考えでいけば、国家は何のためにあるかといえば、その一人一人のやりたいことや幸福を実現するために、あるいは出しゃばりすぎず、あるいはその支援をするというのが、本来の役割のはずだ。

現代の民主主義社会というものは社会契約説が元になって発想されているわけだけど、誰の考え方で説明しても、結局個人が国家というものに何らかの力の行使を委ねるということになる。一人ではやれないことを、多くの人でやる、というのが元々の政治の起源だと考えていいわけだ。

だから、社会契約説では元々人間はどんなものだったかということを考えるわけだけど、ホッブズという人は元々は人間は相争う存在だったと考えたわけだし、ロックという人は自らの幸せを求めて努力する存在だったと考えたわけだ。だから私のイメージは多分ロックに近いのだと思う。ちゃんと読んでないから確信は持てないけど。

そのことでいえば、マルクス主義、共産主義の考え方でも、元々の人間の状態というものを仮定している。原始共産制というものだ。元々人々は差別なく平等に力を合わせて働いていて生きていた、という考え方。それを歴史的事実だと考えてしまい、そこからの発想こそが科学的だと考えたところが彼らの史的唯物論の間違いの始まりなのだけど、ある種の思考実験として「原始共産制」というものを考えるというのにとどめるのであれば、それは別にそんなに害のある考え方でもないだろう。

まあそんなわけで、人というものは何れにしても、小なり大なりの「みんな」の中に加わったり離れたりしながら生きてきた歴史がある、ということは確かだ。その「みんな」がどんどん巨大化して国家になり、それが合理的な権力執行の組織を整備していくことで近代国家になった。

で、何をいいたいかというと、そういう国家というものと個人というものは、非対称なものだということだ。元々原則的には(民主主義を前提とすればの話だが)個人の望みを何らか反映するべき存在であるはずなのだけど、「みんな」が巨大化することによって、その中での発言力の大小や利害の調整によって個人の望みは反映されにくい状態になってしまう、少なくとも現状ではなってしまっているということだ。

で、そうなると当然、個人は国家に対して不満を持つだろう。場合によっては、その国家を打倒しようとするかもしれない。考えてみれば当然のことながら、すべての人を完全に満足させる権力というものは存在したことがないし、存在することはやはりなかなか難しいだろう。

でも一度できてしまった国家というものは、そう簡単に壊れてしまっては困るという人が大勢いる。だから国家そのものは壊さないで、その機構を換骨奪胎しながら新しく生かしていこうということになる。

近代国家以前の段階から近代国家になるためには、完全に国家が破壊されて一から作り直されるということも珍しくはなかった。でも今は、国家が一度つぶれてしまうということが、どんなに悲惨をもたらすかということが、多くの国で認識されるようになっているから、なかなかそこまで望む人は多くの支持を得るのは難しいだろう。

しかしいずれにしても、国家は個人の望みをすべてはかなえられない。だから常に国民は国家に対して不満だ。だから国家は、どの段階からかはそれぞれだけど、この国が何を目指して何を価値とする国なのかを明らかにすることによって国民の賛同を得ようとする。日本の近代国家の曙のときに出されたのが「五箇条の御誓文」だし、アメリカだったら独立宣言。フランスだったら人権宣言だ。その価値を目指す、ということを宣言することで、それが実現するまでは我慢してくれ、協力してくれということになるわけだ。

まあそれは積極的な言い方だけど、やや斜に構えた言い方をしてみれば、つまり国家は個人に対してある幻想を与えることで不満を紛らわす満足を与えようとしているわけで、それによって国家の安寧・社会の繁栄・安定を図っているわけだ。

その幻想ないし価値というのは、自由とか、平等とか、正義とか、安心安全とか、経済的繁栄とか、そういうものだ。

自由という幻想、それには経済的繁栄というものもついてくることが期待されるわけだが、それがアメリカであり、ネオリベラリストとかリバタリアンという人たちもとにかく自由が一番大事だという感じになっている。最近、日本でもその傾向が、必ずしも所得の多くない人の間でも強まっているけれども、それは逆に言えば「自由という幻想」の効果がすごく効いてきている、といってもいいわけだ。

平等という幻想は、社会主義国を成り立たせてきた。本当はノーメンクラツーラの支配する絶対不平等な面が厳然としていたけれども、今でもロシアではブレジネフ時代を、中国では毛沢東時代を懐かしむ人が多いという。社会全体が貧しくても、平等であったという実感をその時代の人々が持っていたということだ。

正義という幻想は、不正義ないし悪の設定が必要になる。これは、逆境にあると自覚された国がそういう幻想に頼って生き抜く、という例が多いように思う。例えば近代における中国とか韓国がそうだろう。「日本帝国主義」という「華々しい不正義」を設定し、それを国民に浸透させ、「日本に懲罰を加える」という幻想的な正義を実行することで、「正義は実現されている」という幻想的満足を与えるわけだ。

まあそれは中国や韓国が「弱い」時代はそれでもそう大した影響が日本にはなかったし、まあ中国や韓国はなんだかんだいって相当長い間「弱かった」わけだ。だから日本でも適当に腰を低くしてつきあっていたわけだが、問題はあまりにも長く弱かったために、日本で中国や韓国が「強く」なったときにどう接していくべきかということがほとんど考えられてこなかったということなんだろうと思う。

今の「ネトウヨ状況」とか「いわゆる右傾化論」とか、「アメリカに頼っておけば何とかなる論」とか、まあ正直言ってどれもこれも冷静に考えてみれば稚拙だと分かりきっているのだが、まあこれらはすべて「中国や韓国が強くなった」という現実に全然日本人の頭の中がついていけてないために起こっている現象なんだと思う。

ただ中国や韓国にしたところで、「弱い」うちは自分の国の中の話ですんでいた、つまり日本の幕末でいえば「尊王攘夷」をいってればすんだわけだけど、諸外国との交際が始まった後もそんな稚拙な反日論によって世界の支持を集められると考えることが元々どうかしているわけで、多分そのこと自体に気がついている政治指導者は本当は少なくないだろう。

ただ国家の基盤がそういう風に作られてしまっているために、反日の看板を下ろすと国家が成り立たなくなるということを恐れて未だにそういう馬鹿げたコストを払い続けているということなのだと思う。

元々「反○○」なんてのを看板に掲げてしまうと「反ユダヤ人」を掲げた集団が20世紀前半にヨーロッパにもたらしたような災厄を現出してしまう危険は常にあるわけで、世界のトップに立ちたいならアンチでない世界が受け入れられるスローガンを掲げなければ無理なのだけど、残念ながらそういうオリジナリティが今のところない。まあそれは日本が偉そうなことを言えるところでもないけれども。

話が変に突っ込んだが、もう一つ大きいのが安心安全という幻想。これは軍事国家、つまり例えば武士という本来は軍事階級が支配した江戸時代がそうだろう。幕府の圧倒的な威光、力が支配することで安定が保証されているかに見えたが、これは黒船来航になす術がなかったことで崩れ去った。

割と、日本という国は今でもこの安心安全という幻想が強い国だと思うし、その安心な「壁の中」から危険な壁の外に出て行きたいという自由への憧れが描かれた『進撃の巨人』があれだけヒットしたということは、そういう幻想に支配されているという幻想(?)がかなり強いということでもあるだろう。

現代において一番大きいのが最後の経済的繁栄という幻想だろうし、だからそれに引っ張られて様々な政治上の不都合も起こっているのだけど、これについてはあんまり考えてないのでとりあえずおいておく。この稿で一応いいたかったことは、自由、平等、正義という理念的な価値観の提唱、特に正義の提唱は権力にとって割合『安価な』手段なのではないかということだ。特に『弱い』うちはそれでもいいのだけど、世界の中でそれなりのコストを負担すべき存在に成長した後もそれでは世界の中の不安定要因にならざるを得ない。もちろんアメリカだって多分にそういう面を持っているのだけど、お互いがそういうものをむき出しにしてしまえば世界の未来はないだろう。

国家が国民に本来与えるべきもの、「一人一人がやりたいことがやれて幸福である」ということが与えられる力をつけてきたのであれば、やはりそれを目指して自らを帰る努力をしていった方がいいだろうと思うし、まあ不十分だとはいえ、少しずつでも日本はそういう方向に進んできたとは思う。進んだり戻ったり激変する現実に追いつけなかったりはもちろんしているのだけど。

これは、現状で十分だ、といっているのではなく、現状でもそれなりにやってきてはいることをそれなりに冷静に認識した方がいいと思っているということだ。

軽く書いたつもりだったんだけど、結局こうなっちゃうんだよなあ。

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