時間に追われているというより時間をかき集めている/『くるみ割り人形』を聞いてチャイコフスキーが描きだすロシアの幻想性について考えた
Posted at 13/12/27 PermaLink» Tweet
【時間に追われているというより時間をかき集めている】
少しずつ仕事を片づけながら、少しずつほっとしていく。昨日は大物だと思っていた母(含む私と連名のもの)の年賀状300枚を片付けたので、だいぶ楽になった。私個人の分は100枚ほどなので、その労力はずっと少なくて済む。会社の経理事務の方もどうしてもやらなければならないことは済ませたし、だいぶ気が楽になった。仕事は明日まであるのですべて終わったというわけにはいかないが。
昨日も書いたけれども、私はどうも仕事をしているとその目的とか意義とかいうことよりもとにかくその仕事をこなす、終わらせる、という方に一生懸命になり過ぎるところがあって、分刻みで仕事を詰め込み、それが目論見通りに進まないといらいらする、という感じになってしまう。昨日も仕事をスムースに流すための準備を考えていてそれが上手くいかないのでいらいらしていた時があったのだけど、仕事をスムースに流すための仕事がスムースに流れないことでイライラするなんていうのは考えてみたら滑稽だな、とふと自分で可笑しくなった。仕事中に流れを切るのはあまりよくないけれども、まあ仕事前に準備できなかったらそうしたってそんなにすごく大変になるわけでもないなあと思い、肩の力を抜いた。
ある意味スムースに仕事を流している自分、というものに陶酔しているというか、「仕事を難なくこなせる自分」みたいなものを無意識に理想にしているところがあるんだろう。何のためにそれをするかより、とにかくまず片付けるという。
なるべく、自分のやりたいことを先にやってから、つまりモーニングページやブログやそのほかの文章を書いてから仕事にかかるようにしてはいるのだが、時間が決まっているものもあり(ごみ出しを昼にやるわけにはいかない)どうしてもなるべく多く空き時間を確保するということがいつも考える課題になってしまう。時間があればいいというものではなく、物を書いたり考えたりするには場所も余裕も場合によったら資料もネット環境もさまざまなものが必要になって来るわけだから、細切れのとりあえずの場所と時間で書けるわけでもない。何というか一日中そのための準備に追われているという感じになる。
時間はあればある程書きたいものは書けるわけだから、どうしても常に時間に追われているというより時間をかき集めているという感じになっている。金の亡者ならぬ時間の亡者という感じだが、時は金なりというけれども、金も大事だが時はもっと大事だという感じがする。
書くことがすなわち生活の手段、になればそれらの点はだいぶ解消されると思うので、そのためのトライをいろいろ試しているというのが現状というところだ。
【『くるみ割り人形』を聞いてチャイコフスキーが描きだすロシアの幻想性について考えた】
昨日の夜から雪が降っていた。雪と雨の中間よりやや雪よりという感じの雪で、夜から今朝も零下に下がらずあたたかかったから舗装された道にはほとんど雪は残っていない。家の前は日が当らないので少し残っていた雪を簡単に片付ける程度の雪かきはしたが、場所によっては箒で掃けば済む程度だった。
昨夜は冬用のあたたかいパジャマで寝たら、暖房が暑くて布団をはだけそうになったので、暖房を全部消して寝た。気温が高かったこともあるが、パジャマが暖かかったことは大きいなと思う。そろそろ本格的な真冬の準備というところだなと思う。
7時前に車で家を出たがまだ暗くて、ライトをつけて走った。気温が高いからカーブミラーが曇っていなくて助かる。職場のごみを出して、お城の近くのサークルKに車を走らせ、週刊漫画タイムズを買う。別冊漫画ゴラクを探したがやはりない。どこで売っているのだろう。
チャイコフスキー:バレエ「くるみ割り人形」全曲 | |
アシュケナージ指揮・ロイヤルフィルハーモニー | |
ユニバーサル ミュージック クラシック |
帰って来る途中でFMをつけたら『くるみ割り人形』の「金平糖の踊り」が流れてきた。この曲は曲として聞くというより、バレエの伴奏として耳にする感じなのだけど、こうやってステレオで聞いていると、なんだか懐かしい気持ちになってきた。
モーツァルトに比べて、ベートーベンやチャイコフスキーはある意味ダサい。でもベートーベンはその精神性のどこまで行くんだという凄さみたいなものがあって、やはりベートーベンはベートーベンだなと思うのだけど、チャイコフスキーは敢えて音楽として聴こうという気があまりしないところがある。吉田秀和がプーシキンに始まったロシア文学に対して、音楽がチャイコフスキーで始まったことは何かロシアの音楽が残念なものになる原因になっている、というようなことを書いていて、私自身もそう思っていたのでわが意を得たりという感じだった。
それはつまり、文学にしろ音楽にしろロシアはヨーロッパに遅れて発達した国なわけで、その点は日本と共通したところがあるのは、いわゆる「後進帝国主義国」という歴史学上の概念からも言えるのだけど、日本がヨーロッパとは違う文化伝統を持ち、ヨーロッパの文物が取り入れられてもやはりどんなものにも日本らしさというものが現れてしまうのと同様、ロシアにもそういうところはある。
文学において、プーシキンというのはモーツァルトと同じような天才であって、同じように夭逝している。モーツァルトは病気だがプーシキンは決闘で死ぬというある意味華々しい死に方をしていて、世界的に見ればロシア文学と言えばまずトルストイ・ドストエフスキーなわけだけど、ロシア人自身はプーシキンこそが国民詩人・国民作家とみなしている。スターリンもプーシキンを好んでいるということをことあるごとにアピールしてインテリであり心が豊かであるということを国民に示していたりしたけれども、プーシキンはそういう意味で幸福なロシア文学の一つの象徴=アイコンになっている。
日本でもそうだけど、ロシアでも常にピョートル大帝以来の西欧的近代化を目指すヨーロッパ主義者と、伝統的なロシアに拘泥するロシア主義のようなものが対立して来ていて、プーシキンはヨーロッパ主義者でありながらロシア主義者の心の襞にも入っていけるようなやわらかで繊細な調べを生みだした。そういう意味でプーシキンはロシアの統合の象徴ともなった。
それに比べるとチャイコフスキーの位置づけは曖昧だ。プーシキンは軽やかではあるが軽薄ではない。チャイコフスキーの私のイメージは、その反対だった。
舞姫 1―テレプシコーラ (MFコミックス ダ・ヴィンチシリーズ) | |
山岸凉子 | |
メディアファクトリー |
しかし、『テレプシコーラ』などのバレエマンガを読んだり、それに触発されてバレエの公演を見に行ったりするようになってから、少なくともバレエ音楽としてのチャイコフスキーはよくできていると思うようになった。舞台ではある意味の「あざとさ」とか「ダサさ」とかが必要になって来る。舞台は必ずしも教養があるとは限らない王侯や大衆のものだからだ。分かりやすくするために「くどい」表現も必要になる。上品でさらっとしていなくはなくても、ある意味「これでもか」というところが必要になる。
今朝『くるみ割り人形』を聞いてなんだか懐かしさを覚えたのは、そういうバレエをよく見に行っていた頃のことを思い出したからで、また『テレプシコーラ』の中で主人公の一人千花(チカ)がけがをする場面を、六花(ユキ)がとにかく何とかその舞台をこなした場面を思い出して、なんだかうるっとくるものがあった。チャイコフスキーで感動する、というのはただその作品のアーティスティックな、技術的な、品の有無という点で感心し感動するということよりも、もっとエモーショナルな、つっかえつっかえ躓きながら歩いて行く人生というものに対する共感と感動、みたいなものがあるのかもしれないし、「金平糖の踊り」に込められたある種の祈り、祈りと呪いのどちらか自分でもわからないような情念、と言ったものに対する感動であるように思った。
吉岡徳仁 クリスタライズ | |
青幻舎 |
その時ふと先日行った「クリスタライズ展」で『白鳥の湖』の曲を流しながら結晶させると曲想によって結晶の仕方が変わってくる、という展示があったことを思い出した。
「白鳥の湖」の曲は、あのバレエの場面に非常にふさわしく、というかあの曲がなければあのバレエは成立しないが、そぎ落とされた白鳥の衣裳が薄暗い青い照明の中で映えている。あの音楽が、その世界を成立させている。
あの世界はとても幻想的なのだけど、あの幻想性はもちろんヨーロッパ的な幻想性でもあるけれども、その根にあるのはむしろロシア的な幻想性なのだと思った。ヨーロッパのバレエは基本的にもっと近代的で、もっと明るい。あの作品がボリショイの十八番だというのは理由のないことではない。
それはロシアの、ヨーロッパに比べれば「遅れている」からこその、生き残った幻想性なのだと思った。シェークスピアまでさかのぼればイギリスの舞台芸術も十分に幻想性を残しているけれども、骨の髄まで近代精神を叩きこまれた欧米の役者には「テンペスト」などの幻想的な舞台を演じる力、というか素質がない、だから日本やアフリカなどの非西欧世界の役者を使う、と「テンペスト」を舞台化した演出家が行っていたけれども、「白鳥の湖」というドイツを舞台にした幻想的なストーリーを舞台化できたのはロシアのいい意味での後進性、つまり霊的・魔的なものを感じる感性がまだ社会的に生き残っていたということが大きいのではないかと思った。
そういうふうに考えてみると、プーシキンはスマートだけれども、チャイコフスキーにはプーシキンには十分にあるとは言えないロシアの土俗性みたいなものが良く現れているととらえることが出来るわけで、まあたとえば現在の「白鳥の湖」の演出はプティバによってフランス的な洗練されたセンスが加えられてはいるけれども、それでもスピリチュアルなものへの志向は研ぎ澄まされている。
バレエというもの自体、まるで重力がないかのように踊るあの生体「立体機動装置」のような肉体そのものがある種幻想的だ。
チャイコフスキーには、私に見えていない魅力があったということを確認して、少し幸福な気持ちになったのだった。
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