私と歴史との因縁は、まだ自分で整理しきれてないことに気づく/オスマン帝国の歴史書を巡る日本の気鋭の学者とトルコの西欧化した知識人の評価の落差/修道院という視点から西洋中世史に一本筋を通すこと

Posted at 13/12/14

【私と歴史との因縁は、まだ自分で整理しきれてないことに気づく】

考えてみると私は高校二年の時に世界史に興味を持ち、三年の時の先生の授業をとても面白く感じて歴史を勉強したいと思い、大学では迷ったけれども結局西洋史を専攻して、卒論は17世紀スペインで書いた。その時は大学院には進めなかったが塾でバイト(小中学校の社会、特に歴史が中心)して数年後に公立高校の教員になり、それから10年世界史を中心に教えた。途中で教員を続けながら週一回大学院に3年間通い、フランス革命で修士論文を書いた。教員をやめてから2年後から今度は8年間、短大で非常勤で日本近代史を教えたので、1978年から2008年まで30年間、歴史との縁が続いていたことになる。

まあこのブログに書いているように私の関心は一つのところにとどまらなかったし、大学時代は大学には授業に出るより芝居をしに通っていたようなものなのでいい学生ではなかったが、それでも勤め人としての職業生活や公立学校に通って教育を受けたのは歴史が中心だったことは間違いない。

ただまあ、私の歴史に対する関心が起こったのは、もともとはシルクロードのエキゾチズムだとかビザンチン美術、ギリシャ正教の修道院の様子や古代中国の史書、もっと昔は小学生時代からの歴史好きで、若者向けの歴史入門書みたいなのを何種類も読破していたようなことがきっかけだった。

それが、自分がそれを勉強しようと思ったのは高校3年の時の授業が面白かったことで、歴史を学ぶことでその時代の様子、とくになぜその事件が起こったのか、その背景、経過の劇的な部分、影響、今日に及ぶその意義などといった、いわば教養的な部分にすごく心をひかれたということがあった。

だから自分にとっての歴史の関心の中心は異境趣味(エキゾチズム)と教養主義の合体したもので、実際に大学でやっているような文献主義的な専門に特化した職人的なことがやりたかったわけではなかった。

語学力が不十分だったし先行研究を徹底的にこなすのも苦手だった。私は教養主義的な視点が強いのでそういう方面から書かれたいわゆる実証主義的な歴史学から見て「筋の悪い」本にもひかれるところがあったし、研究対象も細分化され過ぎていてその当時の自分自身のテーマ、「民主主義は正しいのか」というようなところにどうも持って行けず、何をやってるのか分からなくなってしまったところもあった。

と書いてみて思ったが、自分の今までをブログの場を使って認識し直し、ある意味相対化する文章を書いてきたのだけど、「歴史学」という体験はまだ全然相対化できてないなと思った。

歴史というものは、それをネタに話を創作することもできる(歴史小説とか)し、それが本当にどうだったのかを探ることもできるし(歴史学とか)、そこから教訓を得て国家や国民や人間性について考えることもできるし(歴史教育とか)、実際どんなふうにでも料理をすることが出来る。歴史というものは人間が生きてきた記録そのものだから、そこにさまざまな虚構も紛れ込んでいるし、精神的な意味としてはその虚構の方が大事だったりする場合もある。

そういう歴史を巡るさまざまな現象の間で、それぞれの立場からそれぞれに歴史は語られてきているのだけど、それぞれが自分の立場や見解にたてこもって頑なに他の立場からの語りを認めない傾向があるのは残念なことだ。特に歴史学者はそれ以外の歴史にまつわる人間の営為を不純なもの、挟雑物、認識を歪めるものとして排除する傾向がある。それは彼らの立場が「実証主義」であるからで、推測とか仮定とか精神性とか教訓とかエピソードとか虚構とかについて必要以上に排除し無視しようとする傾向がある。

また同じ歴史学の中でもものの見方自体が「日本史」と「東洋史」と「西洋史」とでは違うことが珍しくない。特に日本史はものの見方に主観性が強いように思う。西洋史では国民国家の枠組みを重視し、もちろんそれを相対化しようとする研究も今では多いけれども、ただ全体史としてはその枠組みとどうかかわっていくかが今でも大きな課題になっている。東洋史では民族とか国家とかも言わば「想像の共同体」であるという見方が強く、独自の視点を持った研究者が多いように思うが、いずれにしても歴史学では「国家」という枠組みから逃れられない面があり、今までの歴史観を変更しようとする試みはすぐ政治問題になってしまう。

そういう意味で歴史というものはその相貌とは違い実に不自由な営為であり、結局そういうものに関わり続けることは自分には無理だったというところはある。

ただ一傍観者として、というかこの人類の歴史のある瞬間にこの地に生きるものとしての教養あるいは興味として歴史というものの研究動向がときどきふと気になることがある。とはいえそんなに熱心にいろいろ読んでいるわけではないのだが、歴史の教師をやっていた関係上、今でも送られて来る雑誌のひとつに山川出版社の『歴史と地理』があり、この669号(世界史の研究237号)を読んでいて興味をひかれるレポートがいくつかあったのでそのことについて書いてみたい。


【オスマン帝国の歴史書を巡る日本の気鋭の学者とトルコの西欧化した知識人の評価の落差】

ひとつは「史料紹介」の小笠原弘幸「オスマン帝国の歴史書」。オスマン帝国というのはビザンツ帝国を滅ぼした強国という印象があり、その最大の建築物スレイマニエモスクにしてもアヤソフィア大聖堂のコピー的な印象があるし、教科書のイスラム文化のページでもほとんどページを割かれていないこともあって、武力には優れているが文化的にはあまり特筆すべきものがないという印象がある。政治史・軍事史的には重要な国であっても文化史的にはあまり取り上げられてこなかった。

そのオスマン帝国で「歴史」というものがどう語られてきたか、ということは初めて読む内容だったので、大変興味が引かれた。実はすでに建国直後に歴史叙述自体は始まっていたのだが、チムールに大打撃を与えられたアンカラの戦いによって黎明期の作品は失われたのだろうと著者は推測している。最初期の叙述はトルコ遊牧民が口伝していた武勲詩、英雄伝に近いものだったと彼はみているが、15世紀末に成立した『オスマン王家の歴史』は伝承を利用して原初的な年代記の性格をもち、遊牧民的なオスマン集団が略奪をくりかえしつつ、国家としての形を整えていくさまが語られているという。

このあたりのことは、たとえばヤマトタケルの武勲をうたった『古事記』の叙述を思わせるし、徳川家の祖先が猛々しい武士、というよりは野武士集団だった時代をうたった『三河物語』を思わせる。あるいはトロイを下したホメロスの詩編や、ヴェルギリウスの『ローマ建国史』も同様だろう。そういうものは歴史的信憑性はともかく、民族の精神的よりどころとして非常に重視されるものであることは洋の東西を問わない。

歴史叙述の転機になったのがバヤズィト1世(位1481-1512)の時期に書かれた『八天国』『オスマン王家の歴史』が美文体で書かれ、オスマン王家の『系譜図』(人類の祖アダムから最後の預言者ムハンマドを経て現王家に至る系譜を図示したもの)も作られて、美術史的にも文学史的にもイスラム世界のほかの諸王朝に劣らないものがつくられたと筆者はいう。

ムラト3世(位1574-95)の時代には「王の書詠み」という官職が定着し、ペルシャ語で書かれた『王の書』を詠むだけでなく、オスマン王家の事績を扱ったオリジナルの韻文や散文の史書を「詠む」という伝統が作られた。またこの時代は「世界史」の編集が行われ、「諸時代の鏡」や「集史」「ジュナービー史」などが書かれたという。

17世紀になるとヨーロッパに軍事的に押されるようになり、ヨーロッパの情報を取り入れるようになったが、それは「必要な知識や技術を文化圏や宗教を問わず取り入れるプラグマティズム」から来たもので、おとった自分たちが西洋の近代を取り入れようとするものではなかった、と著者はいう。

まあこのあたりは微妙なのだが、江戸幕府がこうしたプラグマティズムをもっと持ち続けたら、オスマン帝国と同じくらいは生き伸びた可能性があるかもしれないという気もするし、もしそうなってたら日本近代史はもっと大変なことになってたかもしれないとも思う。

18世紀になると国家の公式の歴史官「修史官」の制度が出来、帝国各地からの情報を集積し同時代の歴史を編纂したのだという。これは古代中国の史官を思わせるが、「軍人の帝国」から「官僚の帝国」への変容を象徴している、と著者はいう。

この時期に書かれた『ナイーマー史』はオスマン帝国の断代史だが、イブン・ハルドゥーンの『歴史序説』の影響を受けて社会を有機体になぞらえつつ国家の盛衰を論じているのだという。この意味でオスマン帝国の歴史家たちこそが、イブン・ハルドゥーンの後継者であると著者は論じている。

これらのことは初めて知ったことばかりなのでその記述をどう評価していいのかはよくわからないのだけど、興味深いことは確かだ。著者が「オスマン歴史叙述の世界は、オスマン帝国史研究のフロンティア」だ、というのも説得力があるように感じた。

わたしの名は「紅」
オルハン・パムク
藤原書店

私にとってオスマン帝国世界のことについて一番イメージが描けるのはノーベル賞作家であるオルハン・パムクの『わたしの名は「紅」』なのだが、パムクはオスマン文化についてやや悲観的な書き方をしているけれども、小笠原はそれをもっと評価していくべきだ、という視点で見ている。「トルコという国の西欧化された知識人」としての哀しみを持つパムクと、「日本という国でオスマン帝国の正当な評価を確立することに意欲を燃やす気鋭の学者」である小笠原という取り合わせを考えると、その書き方のイメージの落差にもいろいろと考えさせられるところがあるのだが、そういうわけでいろいろと興味を刺激される文章だった。


【修道院という視点から西洋中世史に一本筋を通すこと】

もうひとつは「読書案内」として大貫俊夫「西洋中世における修道院・修道制」。著者は西洋中世史における修道院・修道制の重要性を認識するよう喚起しつつ、高校世界史の教科書での扱われ方に注文をつけながら、本を紹介していく。

修道院文化史事典
八坂書房

概説書として新しい研究動向を収めたフランシスコ会士が書いたフランク『修道院の歴史』や杉崎泰一郎『ヨーロッパ中世の修道院文化』が紹介されていて、これは興味深いと思った。またハンドブックとしてディンツェルバッハー『修道院文化史事典』が紹介されているのも良かった。

それからそれぞれの時期の修道院を巡るトピックごとに邦訳書・研究書が紹介されているが、西欧世界にとどまらず地中海世界全体を視野に入れた初期修道制の成立について書いた戸田聡『キリスト教修道制の成立』、修道制の一つのエポックであるクリュニー改革からフランス革命時の廃止まで書かれた関口武彦『クリュニー修道制の研究』、中世盛期=12世紀の修道院文化を担ったシトー会を取り上げたレッカイ『シトー会修道院』などを取り上げている。13世紀以降の托鉢修道会については日本語で読める概説書がないらしく、ジャック・ルゴフの『アッシジの聖フランチェスコ』だけがあげられている。

それから中世の人間の意識・価値観の歴史を解き明かした心性史のアナール派第三世代の研究としてジャック・ルゴフ『煉獄の誕生』などがあげられている。

煉獄の誕生 (叢書・ウニベルシタス)
法政大学出版局

確かに「修道院」という形で西欧しに一本筋を通した理解を図ろうという整理をしたことはなく、ここにあげられた書籍もほとんどが21世紀になってから、すなわち私が西洋史から離れてからのものでどれも読んでいないのだけど、中世史の研究者の名前は懐かしい方が何人かいて、頑張っておられるのだなと思う。

個人的にはフランス革命の時のカトリックの廃止、宣誓僧の問題、クリュニー修道院の破壊などのテーマには興味は多少ある。政治と宗教の対立がいまでも『世俗性原則』を巡る問題として続いているフランスの現状や、民主主義=啓蒙思想にとって宗教とは何かという問題、政治と個人の思想の解決することのない相克などは考えてもいいテーマだという感じがしないこともない。ただ、今すぐに取り組みたいテーマではない。でもこのブログにわざわざ取り上げているのだから私自身にとってもまだ解決していない何かと関連しているのだろうと思う。

というわけで、今すぐに修道院について考えようと思うわけではないのだけど、そういう気になった時のブックガイドとしては、ここにあげたような本からまず読んでみるのもいいかもしれないと思った。

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