私にとってのセゾン文化とその後の私/二項対立の虜:自己定義をやめること/前を向くか内を向くか/囚われるもののない感覚でつかんだものを、フィルターのかからない言葉で書く
Posted at 13/12/05 PermaLink» Tweet
【私にとってのセゾン文化とその後の私】
堤清二さんの死をきっかけに自分が20代の時、それは80年代なのだけど、ヨーロッパ映画を中心に「セゾン文化」にはまっていたことを自覚した。私は芝居をやっていたので、特に映画表現に関しては興味を引かれることが多く、シネヴィヴァン六本木やシネセゾン配給の映画に強く魅かれたのだった。特にアンジェイ・ズラウスキの『狂気の愛』やセルゲイ・パラジャーノフの『ざくろの色』など、東欧系の尖鋭な映画が見られたのはセゾン系映画館のひとつの特徴だっただろう。当時はまだベルリンの壁崩壊前で、東欧はまさに壁の向こう側だったし、どの映画も一党独裁下で知識人や芸術家は何を作れるか、という課題にあらがっていたように思えた。
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しかし、当時の私の教養で、そういうものすべてが「わかって」いたかと言えばあやしい。正直言えば、「分からないけど好きなもの」だった。雰囲気や人間の存在感というものに強く魅かれていたが、それが例えばドストエフスキーが下敷きになっているとか、その表現になにが込められているかというようなところに関心も理解もなかったように思う。孔子の「これを知るものは、これを好むものに如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」という言葉をいいことに、分からなくても楽しんでいればいいのだと思っていた。
それと前後して、というか日程の関係上、セゾン文化について考えようと思って本を読んでいる途中で高畑勲監督の『かぐや姫の物語』を見に行った。これがまた巨大な作品で、その作品世界の広がりに圧倒されるものを感じた。
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以前もどこかで書いたが、私は長い間ジブリ作品を敢えて見て来なかった。それは、「みんなが見ているから」という理由だった。つまり、東ヨーロッパの映画のような、「わかってる人しか見ない」映画の方が自分のフィールドであって、「誰が見てもわかる」映画を敢えて見たいと思わなかったのだ。ジブリ作品を見るようになってすぐ、それが偏見であったことはすぐにわかったのだけど。
やはりあの当時は、きちんと現実が見えていなかったのだと思う。楽しかった20代も、大変だった30代も。40代も後半になって、自分自身を本当に見つめ直そうとし始め、それと並行していままで見て来なかったもの、読んで来なかったもの、聞いて来なかったものを心に大きな抵抗を感じながら見たり読んだり聞いたりし始めて、またようやく無理のない収入源を得たことによって、ようやく現実というものが少しは把握できてきた感じがする。
ただ、自分が、他の人の生きている現実と何かレベルが違うところで生きているような――それはどちらが上とか下とかいうことではなく――感じというのは感じるところがある。それは今でも、言わば地に足がついた現実レベルとはまた違うところで、おそらくは自分にしか理解できない、通用しない世界で生きている、という感じがある。
それはジブリや新しい少年マンガに目を開くことによって、人と共有可能な部分もあるんだなということは思いはするのだけど、自分からの発信がなかなか人に届きにくい、そういう問題がある。
【二項対立の虜:自己定義をやめること】
30代は、目に見える現実世界が――かなり大変な状況に踏み込んだせいもあるが――あまりにも「自分の力では何もできない場所」であったために、そのひどい無力感や挫折感が相当自分を苦しめた。今思えば、理解もできない巨大な、わりと闇が立ちこめたような世界があって、なのにそれを何とかしようとしていたのだなと思う。『ギャングース』などを読んでると、こういう世界ってあるよなあと本当に思うし、ある意味自分とは相当深いところまで水と油の世界だから、手を出すよりも何となく知って行く、というくらいのアプローチというか関わり方しか出来ないと思う。まあそれは心の深い部分に刺さったとげのようなものなのだけど、ある種の原罪、縛めのようなものなのかもしれない。
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挫折体験は人を内面的にする、ということがあるだろう。何かをする時に、より慎重になるだろう。また、無意識のうちにその体験に関連するものを避けるようになるだろう。本当はそうなる前にもっと前向きになるべきだったのかもしれないが、しかし自分にはそれよりもまず内面の安心立命とその充実を図りたいという願望もあって、結局は内面への道を取った。その方法が具体的にあったわけではないのだが。
何かを避ける、という意味では、より大衆的なものを避ける、という方向へ動いた。ヨーロッパ映画への関心が当時、薄れたわけではなかったが、実際問題見て面白そうな気がするものがなかった。やはりセゾングループが解体して行って、映画関係でもやや精彩を欠いていたのかもしれない。時代は急速にスノッブなポストモダニズムからは離れて行ってしまったし、自分も実際に問題を解決してくれそうな政治の方への関心が大きくなって行って、小林よしのりや右派保守派の意見に魅かれていくようになった。
何というか、「二項対立の虜」になっていたんだなと思う。右か左か、どちらかを選択しなければいけない、というような。高踏派か大衆派か、どちらかを選択しなければいけないというような。だから、大衆派で左翼であると感じられた――まあある意味実際そうなんだが――スタジオジブリの作品は当たれば当たるほど避けていくことになった。そういう意味で時代の文化は急速に大衆化、サブカルチャー化、インターネット化の方向へ舵を切りつつあったのだけど、その中で完全に文化的浦島太郎化して行っていたなと思うし、そうである自分というのを全く肯定していた。何かそのあたり変だったなと思う。
とにかく、自分はこうなんだ、と自己定義せずにはいられなかった。逆にいえばそれまでは――今またそういう感じになってきているけど――なるべく自己定義なんてしないで済めばしない、というスタンスだった。それがそうなってしまったのは、「教員」という仕事をしたせいだったと思う。教員は常に生徒との間には線を引かなければならないし、生徒のためにを考えなければならないし、また変な饐えた慣行のようなものに精神を麻痺させられるところがある。いい加減な教員が多かったこともあって、自分が教員らしくしなければと柄にもないことをやった副作用何だろうと思う。常に自分の立場を明らかにしなければものを言ってはいけないような気持ちになっていた。
今では、実際、何が正しいとか、何が妥当だとかいうことは、何事においてもなかなか分からないことなんだな、と思う。自分が当事者であることに関しては出来る範囲で最もいいと考えられるような落ち着き方をするように努力はするけれども、自分が当事者でないことに対して分からないのにあまり口を出すのは妥当ではないと思うようになってきている。
自己定義をやめること。内面の世界に降りていくことは、結局はそういうことなのではないかと思う。その時その時でこういうことかな、と思うことをその時なりの言葉でまとめることはあるし、このブログも結局そういう内容なのだけど、言葉にした瞬間から既に変化は始まっている。
【前を向くか内を向くか】
前を向くか内を向くか。それは常に選択としてある。前向きが良いことで、内向きが悪いこと、ということはない。後ろ向きな人はあまり好きではないし、外向き、自分の中をお留守にして外側で起こってることばかり追いかけている人も自分にはあまり縁のない人だなと思う。
まあこれも選択する必要もない、というかフェーズとしてどちらもあるということなんだろうと思うが、そういう意味では自分は「前向きで内向きな人」なんだと思う。
ただ前向きになるときに困るのは、そういう姿勢で行く時は自分がどういう人間か、というのを示さなければいけないので、少なくとも外向きの看板として「自分はこういう人間です」という自己定義が必要になる。
それはなるべく変化しつつある内面の自分からあまり遠く離れないものでありたいのだけど、なかなか難しい。ただ思うのは、いまこの世界に必要なものを少しでも書いて発信して残せていけたらいい、ということだけだ。
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『セゾン文化は何を夢見た』という本は、いまの自分をずいぶん相対化させてくれたと思う。自分はその時代そのものはただ楽しんでいただけだったけど、自分が辛くなったときに「高踏的なものだけが自分だ」という自己定義のよすがに使ってしまったのだなあと思う。そんなふうに、自分という人間が昔どうで、今どうかということを明らかにしてくれたところが大きい。
結局、私は内面を選択したんだなと思う。大衆的なものはもとより、高踏的なものも、政治的なものも、自分の内面の底からそれを求めていると思えないものは全部切り捨てて、自分の本当の声に耳を済ませるようになった。そこで一度、社会との通路が遮断されてしまったんだろうと思う。その中で自分のやりたいこと、書きたいものを膨らませてきたから、外の社会の進化とは少し違う、つまり私の内面でガラパゴス的な変化をして、だから自分の書いていることが人にとって伝わりにくい文章になってしまっているのではないかと思った。
特に語彙や固有名詞において、昔なら普通に通じたものが今では相当説明が必要で、またそれの解釈がおそらくはあまり一般的でない。人がこうあってほしいという感覚もたぶん相当一般とはずれているし、たぶんそれを説明しようという気があまりない、というかいわゆる一般と自分とがどういう感覚のずれがあるのか自体があまりよくわからないのだろうと思う。
【囚われるもののない感覚でつかんだものを、フィルターのかからない言葉で書く】
そういう意味で凄いなと思うのは、糸井重里さんだ。80年代、90年代、それぞれの時代に光って尖っていた人たちの中で、2010年代の今になってもその人にしかない尖り方、光り方をしている人は稀有だと思う。それはつまり、糸井さんが不易の真実をつかんでいるから、というふうにも考えられるし、その時代に求められることや、今起こっていることの本質を誤ることなくつかんでいる、ということかもしれない。というか、その二つが出来るというのは結局は同じことなのかもしれないのだが。
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彼はごく初期の頃から、自分の「感覚」を信じられる人だったのだと思う。昔の彼はやってることはかっこよくは見えるけど、何をやってるのかは私にはよくわからない人だった。今「ほぼ日」でやってるようなことはやはりいま必要な、と彼が考えていることをやっているんだろうなあと思うし、いまKindleで読みかけている『インターネット的』という本は、本質的な、何というか人の心の柔らかい部分を立脚点にして、今インターネットで起こっていること、これから起こる可能性のあることについて書いていて、それはホリエモンやらネット上の気鋭な論考家やらなんやらかんやらがPひゃらどんどんと笛太鼓で宣伝していることをさらっともう12年前に書いている。
彼は自分の感覚を信じ、その信じたことをそのままさっと実行している。コピーライティングというのは言いたいことの本質をまとめればいいだけでなく、そこから的確にずらさなければいけない。ずらすことによって目指すべき方向性を言葉に与える。そのあたりのカンどころの押さえ方は、野口整体の急所の押さえ方の、言葉による実例を見せてもらっている感じだ。
それはもちろん、彼が内面にたてこもることなく、常に社会の全面でさまざまな現実と切り結んできたからだろう。彼はセゾングループのイメージ戦略の象徴的存在だっただけではなく、スタジオジブリにも深く関わり、『となりのトトロ』のお父さんの声までやっている。
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内向きという方向性で、一番理想的なのは、囚われるもののない自分の感覚でとらえたことを、自分にとってフィルターのかからない言葉で整理して、それに自信を持って社会の現実と切り結んでいく、ということだろう。前向きというのも社会で起こっていることを曇りない目でとらえて、今自分がやりたいと思うこと、を躊躇なく実行していくことだろう。
自分の中でごちゃごちゃしていたことを、そんなふうに整理してみたら、すこしはきれいに霧が晴れてきた感じはする。
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