『かぐや姫の物語』は、一言で言えば、「どこまでも味わい尽くしたくなる映画」だった

Posted at 13/12/02

【『かぐや姫の物語』は、一言で言えば、「どこまでも味わい尽くしたくなる映画」だった】

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高畑勲監督『かぐや姫の物語』を見た。見たときから一晩過ぎた今になるまで、この映画についてどう書いたらいいのかずっと迷っていたのだが、一言で言えばこういうことになると思う。「この映画は、味わい尽くしたくなる映画だ」と。

昨日は初めて行った川崎の(川崎駅で降りたのも多分初めてだと思う)東宝シネマズの12時5分からの回を見たのだが、時間ぎりぎりで、駅で降りてiPhoneで場所を見たのだけどよくわからず、結局川崎アゼリア(地下街)の(お年を召した)お姉さんに行き方を聞いて行ったのだった。着いたときにはもう予告編が始まっていて、切符を買って、トイレに行ってから館内に入ったので、本当にぎりぎりだった。席も一番奥の一番画面から見て右端近くだったが、却ってよく見えたのではないかと思う。

なるべく事前に情報を入れないで見ようと思っていたのだが、知っていた方が楽しめる情報もあるし、ここに書くのも何を書いてよくて何がまだ見てない人の邪魔になるかわからないので、あとで少し整理しようと思うが、もちろん何も知らなくても十分楽しめるので、そういう意味では見ていただいてから読んでいただいた方がいいのかもしれない。

私が事前に知っていたのは、ほとんど水彩画で書かれているということ、声優の声がプレスコアリング(プレスコ)という技法で撮られいるということ。日本のアニメは通常画面が出来てからそれに合わせて声を入れる、アフターレコーディング(アフレコ)という方法で撮られているのだが、この映画は逆に先に声優が声を録音して、それに合わせて絵を描くという方法を取っている。これは舞台俳優などにとってはやりやすい方法だと思うが、自分の演技が確立していない若い人にとっては映像という寄る辺がないのでかなり苦労したのではないかと思う。

ただそのおかげで、最も重要な、最も出てくる場面の多い役柄の一つ、(竹取の)翁を演じた地井武男が、昨年6月に亡くなっているにもかかわらずこの映画で元気な声を披露しているという不思議なことが起こった。最もこの世の地位や名誉や栄達に心を惹かれていた翁が、すでに「月の世界」に行ってしまっているというのは、本当に映画というものの不思議なところだと思う。

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それ以上のことはなるべく見ないようにしていて、先日買った『Switch』の特集も『かぐや姫の物語』の部分は読まないようにしていた。テレビで二階堂和美が「いのちの記憶」を歌ったりしているのも、なるべく聞かないようにしていた。

この映画がどういう映画であったか、というのを説明するのは難しい。つまり、こういう映画だったと説明しにくい映画なのだ、という言う意味で、味わい尽くしたくなる映画だ、というのが最もぴったりくる感じがする。

もちろん、ただ訳が分からない映画だったらそうは思わないわけで、ものすごく魅力的な画面が溢れているのに、その全体が把握しきれないから、一言では言えないということで、だからこそもっとこの映画がなんであったのかを知りたい、という気持ちに駆られるということで、昨日からずっと『Switch』の特集を読んだり、パンフレットを読んだり、ウェブ上の感想を読んだりしていた。

絵は、とにかくすごい。動画も、これが動画だったらほかの映画は何なのかというくらい。『進撃の巨人』アニメもつぎ込まれている巨大な情熱や質量は他に類を見ないものであるのだが、まあ映画とテレビアニメという性格も、若い人たちがつくるアニメと「巨匠」が限界を超えた製作費をつぎ込んで作っている映画という背景も全然違うので全然同列で語れるようなものではないのだが、この異様な何もかもやりきった感というか、画面を追っていてなんだか呆れてくる。

プロデューサー見習の川上量生がジブリではアニメとはなんだと考えられているか、という問いに答えて「絵が動くこと」と答えている。これはなんというか当たり前のようでいてものすごく深い、というかつまり「絵」の「動かし方」こそがアニメの「表現」なのだということだ。ストーリーももちろん大事にはされているが、もっと大事なのは絵が動くということそのもの。どういう絵を描くのか、どのように動かすのか、それが徹底的に考えられ、試され、その繰り返しの中で生まれてきたものだから、この映画の完成に8年かかった。(『風立ちぬ』と同時公開という縛りがなかったらもっと遅れたという。同時公開には結局間に合わなかったが)

だから私も、とにかくどういう絵が描かれているか、そしてそれがどのように動かされているのか、というところにテーマを置いてみていた。そして、その達成度の大きさに、目を見張らざるを得なかった。

あと以下、ネタバレも満載なので、読んでから見るより見てから読んだ方がいいかな(人によっては鑑賞の邪魔になる場合もあるから)と思うので、どうぞ読むかどうかはご自分で判断してください。

最初はあのラフなタッチ(あれは筆で書かれていると思ったが、実は鉛筆の線なのだそうだ。小さな画用紙に書かれた鉛筆の線を映画の画面にまで拡大すると、筆で書かれたように見えるらしい(『Switch』のインタビューでかぐや姫の声をやった朝倉あきが高畑監督に聞いた話として話していた)が存分に動いていて、あのひょっという感じの少女が悪童たちにはやされて着物を脱いで裸で川に飛び込んだりする場面が、小島功の黄桜の河童のコマーシャル(動画が出ます)を思い出させたが、いま黄桜の動画を見直すとやはりなんだか通じるところがある。もちろん動画の精度は全然違うけど。

あの、木地師の子どもたちと遊んだり走り回ったり川に飛び込んだり畑の売りを盗んで食べたりする描写は、見終ったいま思えば作品のテーマである「いのちの輝き」を最もあらわしている場面だ。

ものすごく今思うとじんとするのだけど、なんというか、この映画はものすごく言いたいことが理路整然と疑問の余地なく配置されている映画で、そういう意味でなんかそこまで理詰めで作っていいんかな、という感じが見終った後もすごく残った。ただ逆に、ものすごく理詰めであるから不必要な場面が一切ない、というものすごく緊密な構成になっている。わからないという印象があるのは理詰めでないからではなく、たぶんあまりに理詰めすぎるということもあるのだろうけど、わざと省略されている、書かれていない部分があるからで、関連資料をあたっていると、そうかそこはそういう設定だったのかというのが割とすぐわかって、空白が寸分の隙もなく埋められていき、息苦しいくらいになる。

この場面について、裸の女の子が水に飛び込んだり、授乳の場面で乳房が描かれていることを、国際基準に照らして問題だと言っているブログがあって、バカじゃないのと思ったが、まあこれは宮崎駿が『風立ちぬ』で何の遠慮もなくたくさんの登場人物がたばこをプカプカふかしているのと同じで、言うべきこと、描写すべきことがあるときにそういう中途半端な政治的配慮はしない、という潔さがいいのだと思うし、また今書いたようにあの場面は生命力が溢れている、いのちが輝いているということの描写のために、日本の昔の子どもたちや母たちの最も自然な状態がそのまま書かれているだけで、逆にそういう価値観を伝えるべきだとすら思う。

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まあこのことは言い出せばきりがないんであって、一度取り締まる決まりが、非難する口実ができるとこの程度の描写も児童ポルノまがいに言い立てるのはどうかと思う。

日本では、子どもが裸で走り回ったり、お母さんが電車の中で授乳したりするのは昭和40年代でさえ珍しくなかった。それを持って野蛮の象徴のようにしたり顔をする人種差別感情もどうかと思うし、それに迎合しようとする植民地的文化人もどうかと思う。一つ目小僧の国で二つ目が差別されても、二つ目が二つ目の文化を譲る必要はないだろう。

……なんだかムキになったが、とはいえ日本でも都会から順番にそういうものを隠す方向へ動いていることは事実ではあるので、ある意味無駄な抵抗かもしれないが、まあだからこそそういう子どもがはしゃいでる裸な姿にいのちの輝きを見せようとする意図が意味あるものに見えるのかもしれない。

そういう場面を経て、かぐや姫と翁と媼は都に出て大きな屋敷に住み、相模という家庭教師をつけ、斎部秋田という学者に「なよ竹のかぐや姫」という名前を付けてもらい、髪上げの儀式が行われ、お披露目が行われる。ここのあれよあれよという展開の中で、かぐや姫の「自然」が奪われ、「文化・社会」の中に押し込められていく。それに抵抗しつつ翁の願いを無礙にもできず庭に田舎の風景を再現するなど、姫はバランスを取りながら順応しようとしていくのだが、自分が御簾の中にいたまま開かれるお披露目の宴会の席で侮辱的な言葉を聞き、我慢しきれなくなった姫が屋敷を抜け出してもと住んでいた田舎の家を訪ねるが、もう誰もいなくなっていて、ぼろぼろの姿で家の前に立った姫の前に施しが置かれる。

ここがまた一つ印象に残るのだが、彼女はそれを拒まない。もらってよかったと思っているのか、その握り飯をほおばりながら降りていくと炭焼きをする老人がいて、木地師たちは木を求めて場所を変えて行った(この辺、放浪民を描く網野史学が踏まえられていて、その意味で『もののけ姫』にも通じる世界がある)と姫に教える。雪の中姫は倒れれるが、気がつくと元の御簾の中にいる。この雪の描写と姫が来た衣装の純白の色が重なっているところは、絵で見せるアニメーションだからできることで、それが後に出てくる月の世界の真っ白な(色のない)清らかさに通じていく。

この炭焼きの声が実は仲代達也だ。この「大物がちょっとだけでる」という手法は芝居や映画では、「御馳走」と呼ばれるわけだけど、この映画ではほかに石作の皇子の北の方(まあ平安時代に北の方という呼称はないと思うが)の声を朝丘雪路がやっているというのもある。

朝丘はともかく、仲代もそうだけど、そのほかのキャラクターがみな声優をやった人たちの顔や姿かたちをどことなく思わせる風貌になっているのも、プレスコアリングというこの映画の特性が生かされているから、ということになるだろう。

話はさらに脱線するが、私がこの映画で一番好きなキャラは(まあ主役のかぐや姫をのぞけばということだが)「女の童」(かぐや姫に仕える童女)なのだけど、この声をしている方はずいぶんきりっとした女優さんだ。この役はなんというか、いわゆる「おいしい役」で、まあ、私は芝居をしていた時によくこの種の役を演じていたので、なんだか思い入れを持ちやすいのかもしれないという気もする。ある種のトリックスターだから、構造がしっかりすればするほどその枠に収まりきれないで目立つことができる。印象に残る。

話をストーリーに戻すと、二度と木地師たち(なかでも慕っていた捨丸)に会えないと知ったかぐや姫はおとなしく周りのいうように「高貴な姫」であるという枠に自分をおしこめていくのだが、そのなかで眉毛を抜かれるときに一筋の涙が落ちるのが印象的だ。自由、生命の輝きよりも翁の願い、洗練に身を委ねることを選択し、受け入れること。大人の階段を一つ上るときに感じる何かを失ってしまう哀しみ。それは社会の側、大人の側、文化の側からは「わがまま」だというのだけど、この悲しみ、痛みを描くことがこの映画の一つの眼目であって、それは小さな「死」でもある。一つ一つ大人になっていくということは、一つ一つ死んでいくことでもあるのだ、という見えないテーゼが描かれている。最後にかぐや姫は、地上の「すべてを忘れて」月に帰って行くわけだけど、それはやはり死の隠喩でもあり、『Switch』インタビューで二階堂和美が言うように、「呆け」の隠喩かもしれない。『かぐや姫の物語』が切ないのは、急ぎ足で大人になって、急ぎ足で去っていく、その生の儚さが、生命に満ち溢れた場面がより華やかであるだけに、(特に宣伝ポスターにもなっている桜の花の下でかぐや姫がはしゃいでくるくる回る場面は圧巻だ)より胸に迫る。

その圧倒的な場面のあと、姫にぶつかってきた子供に現実に引き戻されるが、それは竹取の翁たちと暮らしていた家にいてぼろぼろの姫に施しをした女の子どもで、姫に平謝りする姿を見て姫は却って落ち込んでしまう。食べ物を恵まれたときにはいささかの屈辱も感じていないのに、中身は同じ自分がりっぱな着物を着ているだけで平身低頭される事実に心底落ち込んでしまうのだ。

『竹取物語』で一番印象的な、五人の貴公子の求婚とかぐや姫の拒絶、そして貴公子たちの涙ぐましい努力とその失敗がこんなに効果的なかたちで物語構造に組み込まれるというのも予想外だった。五人が出てくる順序は原典とは異なっているが、最初に宝物を捏造した車持の皇子が出て、エピソードは原典と同じくコミカルに展開するかと思ったら、次に出てくる阿部の右大臣は全財産をつぎ込んだ鼠の皮衣が焼けてしまい、龍に挑んだ大伴の大納言は遭難しかけ、純粋さを装って口説こうとした石作の皇子に心を動かされたかぐや姫はその女たらし振りを北の方に暴露されて却って大きなショックを受け、最後に宝物を手に入れようとした石上の中納言は墜落死したことを知って、自分が縁談を断るために言った口実が皆を不幸にしたことを知りさらに大きなショックを受ける。

姫は箱庭を破壊して「自分は偽物だ」と嗚咽する。自分のありたかった姿と、今ある自分の大きなギャップ。偽物としか言えない自分の姿に苦しむ。あまりにも純粋でありすぎるけれども、これはつまりは「大人であることの苦さ」だろう。自分は自由に生きたいだけなのに、周りを苦しめ、しまいには死に至らしめてしまう。その戸惑いは、多かれ少なかれ多くの人が感じることがあるのではないか。

帝の場面から後、それをきっかけに月の世界に助けを呼んでしまった姫は、月に帰らなければならないという事実を知る。そして自分がなぜ地上に憧れたのか、という事実も。

パンフレットの「プロダクションノート」に「大空に憧れた少年を通し、どんな時も力を尽くして生きることの大切さを伝えようとした『風立ちぬ』。一方、大地に憧れた少女を通し、辛いことや大変なことがあってもやってみなければならない、自らの”生”を力いっぱい生きることの大切さを伝えようとする『かぐや姫の物語』。「この世は生きるに値する」。もしかしたら二人は同じことを伝えようとしたのかもしれない。」とあるが、大地への憧れ、生の喜びへの憧憬こそがいわば堕天の罪であった、というのは、ある意味「原罪としての生きること」と解釈もできるが、それはキリスト教的な強迫的なものではなく、むしろ「この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我はなりなむ」(大伴旅人)という現世の生を力強く肯定する思想が表現されているというべきだろう。

月への帰還を前に、都を抜け出した姫は田舎の懐かしい道をたどるが、思いがけずそこで大人になった捨丸に再会する。捨丸に「あなたと生きることができたら」と言う姫と捨丸が空を飛ぶ場面。ここまでリアルに作られてきた構成が突然『千と千尋の神隠し』の千尋とハクが空を飛ぶ場面になったのには驚いた。見た瞬間にはかなり否定的にとらえたのだけど、これを「ジブリだから」と安易に受け入れても意味がないし、何というかかなり多くのことを緻密に踏まえたうえで作られている映画だから、むしろその意味を考えたほうがいいかもしれない。

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月の世界の住人であることを自覚した姫は、帝の前で姿を消したり表したりすることができる超自然的な能力を手に入れている。だから捨丸とのくだりも、それを考えれば不自然ではないかもしれないともいえるが、すでに多くの求婚を断っているかぐや姫は子どもではないのであり、子どもの淡い思いを描いた『千と千尋』とは違う。これはむしろ、「子供向きの映画では描けないこと」、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』にはなかった場面がオリビア・ハッセー主演の映画では描かれていた、ということを思い起こすべきなのかもしれない。インド映画で、カップルがいいムードになると踊りの場面になってしまうような。

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この世のものならぬかぐや姫とこの世のものそのものである捨丸の位置は、この世のものである千尋とこの世のものならぬハクとの位置が入れ替わっている。千と千尋のオリジナル性とかぐや姫の物語の古層性。大人になる前の世界のある種の完成である千と千尋と、大人になってしまう、そしてこの世にいつまでもいられない哀しみを描くかぐや姫。様々な意味でこの場面は千と千尋との対照性を思わずにはいられなかったので、最初はそれを書こうとして、「『かぐや姫の物語』は「『千と千尋』の裏返し」だった」という題にしようと思っていたのだが、書いているうちにそんなキャッチ―なフレーズはどうでもいいような気になってきてしまった。まったく脱線してしまった、元に戻ろう。

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十五夜の、月の使いが迎えに来る場面は見ていていろいろ混乱した。月の光を浴びると姫がスーッと自動人形のようにひきつけられていってしまうのもなんだか変だと思ったし(理屈で考えれば演出意図は分かるのだが)、迎えに来た仏像みたいな月の王が着ている服もなんだかマツコデラックスみたいだと思った。またあのアジアンな感じの音楽も『平成狸合戦ぽんぽこ』みたいだと思ってすごく違和感があったのだが、「アストラル界の音楽のようだ」という人がいて、なるほどそういうふうに聞くのかと思った。

つまり、あの場面は違和感を感じるべきなのだ。

天国とか月の世界とか、「清浄な世界」はこの地上の汚いかもしれないが「生命に溢れた世界」とは違うのだ、ということ。こちらの高畑監督と音楽担当の久石譲さんとの対談で、あの場面に対して監督は「(阿弥陀来迎図では)打楽器もいっぱい使っているし、天人たちはきっと、悩みのないリズムで愉快に、能天気な音楽を鳴らしながら降りてくるはずだと。最初の発想はサンバでした。」という指定を考えたのだという。悩みがないってなさすぎだろ、という感じだが、それを聞いた久石さんもさすがに衝撃を受けて、「ああ、この映画どこまでいくんだろう」と思ったそうだが、その結果「ケルティック・ハープやアフリカの太鼓、南米の弦楽器チャランゴなどをシンプルなフレーズでどんどん入れる」ということになったのだそうだ。アジアンどころではなかった。

清浄な月の世界、天界に、人は単純に憧れるけれども、本当はどうなんだろうか。それに憧れるよりも、この世界を力を尽くして生き、それを味わい尽くすことの方が大事なのではないか。受け取ってもらいたいメッセージは、そういうことなのだろう。

映画が終わり、クレジットが流れる中、二階堂和美の『いのちの記憶』が流れる。この曲は、まるでこの映画を長い長い歌、長歌であるとすると、その反歌のような曲だ。「あなたに触れた喜びが」で始まる歌詞は、先ず私が思い起こしたのは捨丸とかぐや姫の場面だが、『Switch』の二階堂和美インタビューによれば、その時妊娠中だった彼女は翁と媼が初めてかぐや姫を抱いたときの喜びから発想したのだという。

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この映画は全体にそうなのだが、描かれているのが特殊性のない、誰にでも通じる、すごくイメージ喚起力のある、普遍的なものが描かれていることをたびたび思い知らされるのだが、その「触れる喜び」というものが持つ普遍性というものがこれだけ思い知らされる映画も、歌もないように思った。

語り始めると本当に饒舌になってしまうのだが、この映画は本当に埋め込まれたそれぞれのことがそれぞれ底なしに深くて、高畑監督の底なしの世界の広がりが、教養面もそうだし、思考面もそうだし、違和感を恐れない(それは興行的には必ずしもプラスではないだろう)制作態度も、いまの日本でこれだけのことをやってのけられる監督はほかにいないだろうと思わされた。炭焼きで出ている仲代達也がどこかの本で「日本の劇映画は今ジブリ作品に完全に負けている」と自らを含む映画界の奮起を促していたが、これだけのことができる人がいま日本にいるということは、それだけで素晴らしいことなのだとは思った。

ジブリの映画、特に宮崎監督の映画に出てくる登場人物たちはみな「今の自分を超えて行こう」とする人たちなのだが、高畑監督の登場人物はそうではない。今回のかぐや姫も、ある意味そういう前向きな人たちではない。運命を楽しみ、運命に抗い、激しく抗議し、受け入れ、そして本当の運命を知って、この世に生きることを肯定し、それを強い言葉で述べようとしたときに月の世界の衣を着せられて、「清浄な世界」へと還って行く。『Switch』の対談で川上量生はプロデューサーの西村義明にこれは「女性視点の物語だ」と言い、「(僕の)彼女のわがままは受け入れて上げなきゃだめだな」と思ったのだそうだ。私自身はいつの間にかかぐや姫に一人称の思い入れをして見ていたので女性視点とかなんとかいうことは思いつかなかったが、むしろ「こうやって世の中のルールを受け入れて行かなきゃいけないんだよなー、辛いよな、生きるのは」みたいに見ていた。だからむしろ、「自分のわがままは自分が受け入れなければいけないな」ということなんだと思った。

まだまだ言いたいことは進化中で、たぶん書けば書くほど書きたいことは増えるしまた変化していくので、今の段階での感想という形でこのような形にしておこうと思う。

そんなふうに、『かぐや姫の物語』はどこまでも味わい尽くしたくなる映画だった。鍋のあとにご飯を入れておじやにしても、何度でも食べられそうな感じなのだ。

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