『「Chikirinの日記」の育て方』は、ネットに関わらず何かを表現していきたい人にとってはとても参考になる本だと思った/「一人歩きする言葉の怖さ」とそれが持つ可能性/「うまいこという」言葉より「えーっ?」と思わせる言葉を
Posted at 13/12/11 PermaLink» Tweet
【『「Chikirinの日記」の育て方』は、ネットに関わらず何かを表現していきたい人にとってはとても参考になる本だと思った】
「Chikirinの日記」の育て方 | |
ちきりん | |
ちきりんブックス |
『「Chikirinの日記」の育て方』を読んだ。これは「社会派ブロガー」として知られているちきりんさんのブログの運営のいきさつやその方針、数十万というpVを得るようになったその過程について書いた、電子書籍だ。この本は執筆はもちろん、ワードで書いてパワポで表紙を書き、ネット上で得られる資源だけを使って独力で全部やって作った本だという。そういう意味でも、電子書籍を出して見たいと思っている人にも参考になるだろう。
私はちきりんさんのブログのファンではない。というか、どちらかというと苦手だ。しかしこの本は、その苦手な部分をほとんど感じない。自分のブログの運営の仕方について、真摯に書かれているという印象。もともとは外資系のキャリアだったというが、そういう戦っている「戦場における価値観」(これが苦手な人には苦手なのだと思う)について書いているのではなく、自分自身が拠って立つ「場」の作り方、育て方について、大変なこと、上手く行ったこと、幸運だったことなどについて客観性を持たせながら、自分自身に突っ込みを入れるというか、「一般的に見たら適当でないだろう」というような自分自身に対して否定的な見方をも交えながら書いていて、とても好感を持てた。
『日記の育て方』という題からもわかるように、ちきりんさんはこの日記という場を愛し、それの持つ可能性をいかに最大限に生かしていくかということに一貫して精力を注いでいる。そういう意味で子育てみたいなものであり、また子育ては自分育てでもあるわけで、そういう意味で万人に共通する営為、普遍性のようなものがあるから毒がなく、嫌味がないのだと思う。逆にいえば、ちきりんさんのブログに感じるある種の「毒」を味わいたい人にはある意味物足りないかもしれない。
なるほどと思ったことのひとつは「ネットで読者を増やそうとしない」ということだ。これから増やせる読者、読んでほしい読者は古くからネットを使っていてネットに精通している人ではなく、今までネットにあまり近寄らなかったけどスマホが主流になってブログなどにも興味を持った人とか、リアルなビジネスの現場にいる人にもっと読んでもらいたいということだった。だからネットスラングを使ったり、ネット上で起こる論争などにもあまりかかわったりしない。つまり、そういう「ネット上だけで盛り上がっている」ブログのひとつだと思われたら、「ああ、自分には関係ないブログだ」と思われてしまうというわけだ。ネットの中で閉じているという印象を極力持たれたくない、社会に対して、世界に対して開いているという姿勢を取り続けたいということだ。
また、有料メルマガなどクローズドな場にして読者を集めた方が稼げる、という提案に対しても、「誰でも読めるオープンな場所」であることを大事にしているので断っているのだという。つまり「文章を書くプロであること」が大事なのではなく、「誰でも読めるオープンな場であることの影響力の大きさ」の方が大事であり、自分の影響力で誰かが世に出たりというようなことが出来る方がいい、というスタンスであるというのもなるほどそういう考え方かと思った。
つまり、オープンな、影響力を持った場の運営者である、ということ自体に価値を見出し、そしてその価値を高めていこうということになる。
これは彼女が「売る」ということが好きだ、「営業という要素がない仕事には興味が持てない」ということとも関係しているのだろう。商品価値を高め、そこから生まれる利益を運用し、利息を最大限有効に使う。だから、「本を書くことが目的なのではなく、本を書くことでより多くの人がブログに関心を持ってくれるから書く」という、「本を出したい」と念願しているような人にとってはコペルニクス的転回のようなことをいうわけだ。まあもちろん、『キレイゴトぬきの農業論』の久松さんが、自分たちの農業への取り組みを知ってもらい、自分を含めて農業への関心を高めることを目的に本を書かれたのとある意味同じことなのだが、本を書くことを自己目的化してしまわないように相対化させてくれる考え方でもあると思った。
そのほか、ブログを書く上で気をつけたいことなどについても書かれていて、これも参考になる。私のブログのようにアクセスが大したことないブログでは、ちきりんさんのような何千倍もアクセスがある人に言及されると、それだけで「ゲームのバグのように」アクセスが増える。あるいは、『千と千尋の神隠し』の「カオナシ」に言及したエントリや「塩野七生はなぜ批判されるのか」などということに言及したエントリは金曜ロードショーがあったり塩野七生が新刊を出したりするとそれだけでアクセスがぐっと増えたりする。
ちきりんさんは、そういうことがあったら「その翌日のエントリが重要だ」というのである。そこで「ちきりんさんに紹介されてアクセスが増えた!」なんてネタを書いてたら、「なんだ内輪か」ということになってしまい、大変残念なことになる、という。アクセスが増えたら、その翌日はもっと素晴らしいエントリを書く、ということが重要だというわけだ。つまり、「二日続けて面白いエントリが書かれていた」ら、「そのブログは面白い!」ということになり、読者が定着していく可能性が高い、というわけで、それは確かに納得できる。「そのエントリの面白さより、そのブログの面白さ」を高めていくことが大事だということで、それはワイドショーネタに走ったり、短期的にアクセスを稼げそうなネタに走ることが帰ってブログ全体の面白さを損なう、ということを戒めているのだ。
まあ、一時的に面白いネタを使うというのが戦略であるならそれもいいのだけど、アクセス数に振り回されてのことだとやがては続かなくなるというのは確かだと思う。
もうひとつ気をつけるべきこととしてあったのは、「本人が目の前にいたら言わないだろうことは書かない、つぶやかない」ということだ。まあこの辺はバランスが難しいが、辛辣な批判をしたり罵倒をしたりした相手と、将来的につながりを持つということは難しくなるわけで、一時的な満足でそういう可能性を絶ってしまうのか、つながる可能性を考えてより自分の好きなものを好きだと言い、憧れているものを憧れていると言った方がいい、というのは全くその通りだと思った。
全体に、かなりユニークな考え方の部分もあるとは思うが、総体として、「こういう考え方の方なんだな」という納得はできるし、考え方の如何に関わらず応用して行ける、注意して行ける話は多いので、特にネットで何かを発信したいという人、あるいはネットに関わらず何かを表現していきたい人にとってはとても参考になる本だと思う。また、単に読み物としても肩が凝らない感じで読める本ではないかと思った。その辺は趣味の問題ではあるかもしれないが。
【「Chikirinの日記」に感じること】
ということで、この本がとても面白かったので、改めて『Chikirinの日記』を少し読んでみた。……しかし、読む前と印象は変わらなかった。
もちろん、この本を読んだことで考える材料はできたので、なぜ私がこのブログが苦手なのかを少し考えてみた。(目的はこのブログをdisることではなく、ちきりんさんという人がこの社会の中でどう言うポジションなのかということや、自分がこのブログが苦手なのはどういうものを背景としているのかということを考えるのが目的なので、ご勘弁願いたい)
ちきりんさんの日記に私が感じることは、「上から目線の庶民性」ということと、「「戦場での正義」を一般化する傲慢さ」、それと「人を引き込む説得力」ということだった。
「上から目線の庶民性」というのは、たとえば今の「お笑い」芸にもよく感じることなのだけど、「庶民の目」から見た世の中の「変な部分」を「笑っちゃおう」、という姿勢だ。これは例えば落語の世界の「熊さん八つぁん」がやんごとなき際に紛れ込んで右往左往、というのとは違う。落語は江戸明治の明らかな階級社会、身分制社会にあって、「下の者」が「上の者」を笑い飛ばすという心意気のようなものがあった。つまり反体制的な危なさをも持っていたわけだ。
しかし現代において「庶民性」はある意味権威的な正義であり、それによりかかった笑いや笑っちゃおうという姿勢には、反体制的な危なさはない。そして権威性によりかかることによって「上から目線」が生じる。読んでいてなんだかよくわからないけど一方的だな、と思うことが多い。そのあたりのことが、今の「お笑い」に共通するものを感じるのだが、ちきりんさん自身も「お笑いはネットとの親和性が高い」と言っていて、ある意味共通の感覚基盤があるのかなとも思う。
ただ、いまのお笑いにしてもそうだが、こういう表現が受けているということは、そこに「毒」、言い換えれば「言葉の力」があることは確かなので、そのあたりのことはあとでまた考えてみたい。
【「戦場での正義」を一般化する傲慢さ】
「「戦場での正義」を一般化する傲慢さ」というのは、たとえば失脚前の堀江貴文さんなどに感じたものと同じなのだと思う。この本でも書いているが、ちきりんさんは堀江さんの発言にはその通りだと共感することが多いのだそうだ。
「戦場での正義」というのは例えば「生き残るためには手段は選ぶな」というようなことで、これは確かに「戦場では正義」だが平和な秩序の保たれている場所に持ち込まれたら混乱することは間違いない。堀江さんもちきりんさんも国際資本主義経済の一線で活躍した人たちだから、そこでのルールというか正義というか倫理のようなものを身にしみて感じているのだろうし、それに比べて世の言論界や経済界官界などの年配の指導者層は生ぬるいと感じ、過剰で過激な言葉によってまだ既成秩序に染まっていない若者層を中心に新しい方向へ向かって走り出せと煽っているという印象を受ける、ということだ。
基本的に「戦場」というのは孤独な場所だ。国際資本主義の一線もそうだろうし、また例えば「いじめの現場」もある種の戦場だろう。そこで生き残るためには、自分がいじめられないためには誰かをいじめなければいけない、というような力学が働いたりするが、その場の歪んだ力を正す力がなければ、生き残るためにそうせざるをえなかったりするようなことが起こったりする。そういう「戦場」は、見える人には見えているし、抜け出せなくて苦しんでいる人、ないしは国際資本主義の戦場のように自ら飛び込んでいく人もいるけれども、そういうことが分からない人には全然見えないものだ。
だから、「戦場で起こっていること」自体を「見えてない人」に伝えることはある種の啓蒙であり、警告であり、必要ないことではない。「戦場の正義」を一般化して声高にいうこともある種の啓蒙であり警告ではある、というか堀江さんなどはそういうつもりでやっていたのだとは思うが、それは既成秩序に生きている人には存在自体を脅かされるものでもあるから、堀江さんは「スキャンダル」という全く伝統的な「伝家の宝刀」によって寄ってたかってつぶされた。
それでも出所後も堀江さん基本的に変わってないが、ずいぶん丁寧に説明するようになったし、また社会の側も資本主義の現実が身に沁みてわかった人が増えてきて、雰囲気もだいぶ変わってきたことによって堀江さんの言動もより客観的に受け入れられるようになってきているように思う。
【「一人歩きする言葉」の怖さとそれが持つ可能性】
その堀江さんとちきりんさんの主張は基本的に同じ方向だと思うが、違うのは堀江さんが自分の人間そのものをオープンにして自分自身をひとつのアイコンとして主張を展開しているのに対し、ちきりんさんは自分の実態というものはクローズドにしているということだ。もちろんこの本を読むと彼女がそうしている理由というのが縷々書かれていてそれはそれで納得できるし、またこの本によって彼女の人間像がよりわかったということもある。なぜそれが大事かというと、「刺激的な発言」を聞いたとき、人はまずそれを「誰が言ったのか」を確認し、「ああ、こういう人ならこういうふうにいうことは納得できる」と落ち着かせることが出来るからだ。世の中にはこういう人もいる、と相対化することで理解を安定化することが出来る。
しかし、匿名の発言では一体だれが言ったのか、その背景に何があるのか分からず、不安になる。その人の発言の社会的背景が分からないまま、その匿名の発言だけが取り上げられ拡散していくことによって、「言葉が一人歩き」していく。
私はそれを好まない。
そしてこの文を書くことによって、「私は」それを好まないのだ、ということを理解した。
2ちゃんねるの運営者である「ひろゆき」さんがインタビューで、「情報や発言は誰が言ったかは関係ない、だから匿名でいい、いや匿名であるべきだ」というようなことを言っていて、「たまげたなあ、ついて行けないなあ」と思ったのだけど、今考えてみるとむしろひろゆきさんは、その「『言葉の一人歩き』の持つ破壊力」みたいなものにむしろ可能性を感じているのではないかと思った。
その「言葉の無名性、匿名性」に魅力を感じるのは、理系の感性、技術者の感性かもしれない。火をおこす技術の発明者が分からないように、果実を発酵させたらアルコールが出来るという事実の発見者が分からないように、「科学や技術というものは、本質的に匿名のもの」だからだ。
しかし、文系の「われわれ」はそうはいかない。たぶん「われわれ」の祖先は、神々から火を盗みだしたプロメテウスを、酩酊する酒の神バッカスを創造して、その科学や技術に「名前=人格」をつけて語ってきたのだ。
一人歩きする言葉には、人格という「尻尾」がない。ネットにはそういう「尻尾のない幽霊みたいな言葉」が無数に飛び交っている。その「言葉の尻尾」である「発言者の人格」によって保証され、安心化され、ある意味無害化されていない、たとえて言うならば雑霊みたいな言葉たちだ。
そういう無数の言葉たち、形を結ばないものたちを学問の中に居場所を与え、分からないものを分かろうとしてきたのが「文系の学問」だったのだと思う。最初は思考とか信仰とかそういうものについて考え始め、古くは国学、明治以降は民俗学、現代では文化人類学や現代言語学や心理学、ないしは社会史=アナル派の歴史学によって、そういう浮遊霊のような人間現象にさまざまな解釈が与えられてきた。
文系の方法論でいえば、そういう雑霊みたいな無数の発言、漂っている言葉たちに対して、その言葉の背景を探っていくことで紐をつけ、理由・原因・背景を探り、その時代背景という共通理解に縛り付けて行き、それを相対的に構造化して描いて行くことで、その時代そのものを再現しようということになる。
つまり、「言葉の一人歩き」を肯定することは、その文系の方法論を真っ向から否定するものなのだ。
「言葉の一人歩き」を肯定するという立場は、つまり一つ一つの「言葉」というものに対してその瞬間瞬間で切った張ったをして行くべきだという考え方であり、その言葉の本質をその場で喝破して対応していかなければならないという立場だということになる。
逆にいえば、文系的方法論とは、その言葉の持つ力・毒性・魔力に正面から向き合うのではなく、その背後に回ってその毒性を抜き、正体を明らかにして無力化するという「ワザ」だ、ということになる。
ただし、このワザを歴史的事象ではなく現代に起こる事象に適用しようとすると、当然のことながら既存の社会理解の枠組みを前提とすることになるわけで、そうなると「突き刺さる言葉」の毒を抜いて分析していくことは、既存の秩序を維持し強化するものになることは否定できない。
「一人歩きする言葉」は怖い。堀江さんが2004年の時点で恐れられたことの本質は、そういう社会をぶっ壊しかねないと感じられた「一人歩きする言葉」(金で手に入らないものはない、とか)を確信犯的に使い続けていたからだろう。そういう強力な「魔」を操る「魔術師」に対して、既存勢力の側がゼウスの稲妻を投下したのだ。
【「えーっ?」と思わせる言葉が時代を切り開く】
21世紀に入って、0年代と10年代を含めた現代という時代は、私が若いころの80年代とは違って、「本質を言い当てたような言葉」=「うまいこという」ようなことばより、どんどん一人歩きして行ってしまう言葉、「えーっ???」と思うような言葉を評価する時代になってきているように感じる。少なくともネットの世界ではそうだろう。
私はどちらかというと「うまいこという」言葉、つまり「批評の言葉」、言葉の背景にあるその思いの背景を探りあてることによってその言葉を浄化し、位置を与え、知の体系に居場所を与える、というようなことをやってきた感じがする。つまり、「えーっ?」と思うような言葉を生みだしていくことにはあまり重点を置いていなかったなあと思う。
しかし、世の中を切り開いて行くのは、そういう世の中の体系をメンテナンスするような作業、言葉の探り方ではなくて、「えーっ!!」と思うような言葉なのだろう。
堀江さんやちきりんさんの「えーっ??」と思う言葉は、現代資本主義という戦場にあって出てくる言葉であって、そういう意味では現代資本主義自体がその言葉を生みだすクリエイティビティの源泉になっているわけだ。多くの日本人はそういうものに慣れていないのでどうしても「えーっ??」と思ってしまうし、だからこそ破壊力も想像力もあるのだ。
ちきりんさんはこの本の中で「私の文章をおもしろがれるのは資本主義を信じている人」だ、と言っているのだけど、それはそういうことなんだと思う。
資本主義的な価値観、倫理――弱肉強食こそが正しい、ないしそうなるのは仕方ない――という価値観を、日本人は本当のところで受け入れていない。しかしビジネスの現場にいる人たちはそれを肌で感じているだろう。そしてその「感じ」が、社会であまりにも語られていない、自分たちの感じていることを代弁してくれる人がいないという不満を感じてきたのだと思う。堀江さんの発言やちきりんさんのブログが爆発的に受け入れられた背景には、そういう素地があったのではないかと思う。
【ちきりんさんの日記と本から学べること】
私がちきりんさんのブログが読みにくいのは、そういう意味では「歩んでいる道が違う」からで、ちきりんさんのブログが何百万PVを獲得したところでたぶん私が面白いと思うようになることはないし、当然マネをすることもできない。
ただ学べることは何かというと、「うまいこという」言葉だけではなく、「えーっ??」と思われるような言葉を確信犯的に使っていくことがブログの価値を高める上では重要だということだ。
それは、諫山創さんが「読者のトラウマになるような表現」を書きたい、そのトラウマが財産になる、と言っていることと重なって来る。そういう「トラウマになるような言葉」=頭をがんと殴られたような感じがし、なかなか頭から去ってくれない言葉、そういう意味で「魔力のある言葉」を操れるようになることこそが、文章を書いて行く上で大事なことだと改めて思ったのだった。
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