『吾妻ひでお原画展』:迷走する天才の独自性の深まり/行動記録および収穫物

Posted at 13/11/26

【行動記録および収穫物】

行動記録および収穫物。一昨日は夜、錦糸町の東宝シネマズでスタジオジブリを取り上げた砂田麻美監督のドキュメンタリー映画『夢と狂気の王国』を見たことは昨日お伝えした通り。その際、映画プログラムを購入。600円という大変良心的な値段。最近、映画ビジネスもこういうところで稼ごうという姿勢があるが、良心的なビジネスを展開した方がまたみたいという気持ちにさせてくれる。正直、もう二、三回見てもいい感じなのだが、忙しいのでいつになることか。

昨日はお昼頃池袋の西武ギャラリーで『吾妻ひでお原画展』を見た。その時買ったのがトートバッグとクリアファイル。私は吾妻さんの美少女キャラ自体のファンではないのでそういうものではなく不条理ギャグ系(すでにギャグかどうかすら怪しいものも多いが)のものを好むのだが、このトートバッグの『静かな湖畔』の輪唱に連れて人間がダブルトリプルになっていくと言うネタはマンガでないと書けないし、こういうの「マンガ独自の表現」(笑)はかなり好きだ。もう一つはクリアファイルだが、自然描写の中に吾妻的美少女と超越的なよくわからない存在が併存して、そこに透き通った巨大な物体?生物?が現れようとしているところ、だと思う。ああそうだな、この「出現」(!)というテーマが吾妻さんの重要なテーマの一つじゃないかな。鬱病やアルコール依存症による幻影もそこに絡んできているとは思うけど、マグリットとかシュールレアリズム系のアートに通じるテーマ。

聲の形(1) (少年マガジンコミックス)
大今 良時
講談社

それからなんだかおもしろそうで買った少年マンガと少女漫画の単行本。かなり話題になっていた『聲の形』と『とりかえ・ばや』。面白そうだというだけで買ったのでまだ感想は書けない。


とりかえ・ばや 1 (フラワーコミックスアルファ)
さいとう ちほ
小学館

それから昨日、池袋の毒を出すために行った銀座の教文館で買った晴佐久昌英『星言葉』(女子パウロ会、1997)。カトリックの神父さんの50の動詞をテーマにしたエッセイだが、現在もう24刷になっている。立ち読みした感じで買ったので、これもまた感想は後で。

星言葉
晴佐久昌英
女子パウロ会

そして、送っていただいた島田奈都子『からだの夕暮れ』(七月堂、2013)。島田さんは私がネットで詩を書いていた頃、盛んにやり取りをしていた方で、長野文学賞などの賞を受けられ、「ユリイカ」の新人にも選ばれている。哀しみや思いを肉体から掬い出す言葉の紡ぎ方が、潔く正確だといつも思う。まだちゃんと読んでないのだけど、いずれ感想を書きたいと思う。

【『吾妻ひでお原画展』:迷走する天才の独自性の深まり】

昨日の昼ごろに見に行って、なんだか言葉にならない感じがいろいろあって、昨日は感想を書けなかったのだけど、今日になっていろいろ言葉になってきたので少し書こうと思う。

吾妻ひでおというマンガ家は、ファンを耽溺させる作家なのだと思う。思う、というのは、私ははまらなかったからだ。彼の描く美少女は、たぶん癖になる人は癖になる。そして彼女らは実に自由に、気まま勝手に動き回る。それはある意味、重たい現実に縛り付けられている日本人の自らに対する呪詛のように、そのネガとしてハチャメチャな行動をする。あるいはとんでもない能力を発揮する。そのあたり凄く日本的で、もっと言えば土俗的な感じがする。

そして今朝突然気がついたのだが、吾妻さんの絵はものすごく手塚治虫の影響を受けているのだ。というか、そんなものは客観的に見ればすぐわかることだが、あまりにも当たり前すぎて、というか同時代に見ていると手塚さんは手塚さん、吾妻さんは吾妻さんなので言うまでもないという感じだった。

あの美少女達も、手塚さんの世界から抜け出してきたものが吾妻さんの妄想で手塚さんにはできない行動力・ないし非現実的なハチャメチャ振りを発揮させたものだなあと思う。私も手塚治虫の『不思議なメルモ』は好きだったが、美少女の顔というより体型はウランちゃんとかメルモちゃんの体型で、それをより肉感的にしたものだなと思う。あの時代のマンガ家たちはデッサンとか何とかよりも、先ずマンガが好きで、マンガを見て漫画を描いてるみたいなところがあった気がする。『ベルばら』の池田理代子さんもそうだが、作家としてある程度の実績を上げてからデッサン教室に通ったりするのは、やはり絵画的な基礎が美大出身が多い新しいマンガ家たちに比べて弱いことに引け目を感じたりするからなんだろうなと思う。

吾妻さんのキャラはなぜみんな可愛いのにぽかんと口をあいているのかと思っていたが、あれは手塚キャラ以来の日本の伝統なんじゃないかと思う。あの非現実的な空間とか、非現実的な生物とか、ああいうものというのは手塚マンガのある意味パロディみたいなところがあって、だから手塚さんが亡くなったということは、どこにも書いてないから(というかきちんと読んでるわけではないのだけど)憶測にすぎないのだけど、ものすごく大きな衝撃だったのではないだろうか。

誰でもそうだけど、ある種の目標にしていたものを失った時、迷走が始まる。それは多分自分でもそうだったので、勝手にそう思ってるだけなのかもしれないけど、そんな気がした。鬱病とかアルコール依存症も、そういう迷走の中の一コマなのかもしれないと思う。

ふたりと5人 【コミックセット】
吾妻ひでお
主婦と生活社

私は吾妻さんが好きだったのはチャンピオンに連載されていた『ふたりと五人』で、あれに出てくるセンパイのセリフが好きだったのだけど、実はそれは編集者が勝手に書いていたということを『失踪日記』で暴露していて、ああそれで私が吾妻さんに求めていたものとその後の吾妻さんの方向性が全然違うんだということがようやく分かった。

失踪日記
吾妻ひでお
イースト・プレス

『失踪日記』や『アル中病棟』で自分を取り巻く悲惨で重い現実をなるべく笑えるように書くという(それでもとくに『アル中病棟』は十分重いところが多いけど)手法はすごく魅力的で、それから吾妻ひでおという作家について考えるようになったのだけど、昔に比べるとすごく絵が「マンガから絵になってきている」というか、普通の意味で絵画的に技量が向上していると思う。空白の数十年を超えて、また新たな独自性の深まりをこれから見せていただけるのではないかという期待がすごくある。

失踪日記2 アル中病棟
吾妻ひでお
イースト・プレス

この文章の題を「迷走する天才の独自性の深まり」としたけれども、もちろん「迷走することに天才」と言う意味ではなく(そうかもしれないが)天才が故に迷走してしまうという世によく見られる現象の一つを吾妻さんも生きていて、その暗黒をサバイバルしてここまで戻ってきたことにより、他に誰にもかけない独自の世界を作り出しつつあるんじゃないかと思った。ジャンクアートなんかもすごくよかったが、あれは売ったりしないのだろうか。

何というか私は、むかしの「暗いものを隠して躁狂的」な作品よりも、今の「暗いものは暗いけどそれはそれとして表に出すけど好きなものは好き」と割り切った感じの今の作風の方が好きだなと思う。原画展で展示されていた自伝(的な)マンガが面白そうで買おうと思ったのだけどグッズ販売のところにはなかったのが残念。また発売されるような機会があったら読みたいと思う。

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