自分がものを作る時のイメージ

Posted at 13/11/23

【自分がものを作る時のイメージ】

自分がものを作る時のイメージは、と言ってもいつもそうなるというわけではないけど、ひとつの典型的なイメージは、「0が±1になる」というイメージだ。なるべく心を無にする。身体の緊張を抜く。瞑想のイメージ。身体の状態をなるべく自然な感じにする。身体の中から出て来る動き、身体の奥底、心の奥底の中から出てくる言葉、イメージに耳を傾ける。それがふっと面白いと思ったときに、言葉を書きとめる。それは0が揺れて±1になるイメージ。もうずっと以前になるが、『ホーキング宇宙を語る』を読んでいて不確定性原理からゼロはゼロと定めることはできない、という文を読んだ時から、無は有を生む、ゼロはもっとも豊饒なイメージの宝庫への扉なのだという意識を持った。

ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで (ハヤカワ文庫NF)
スティーブン・ホーキング
早川書房

だから意識をニュートラルにするというのは、数直線上の0の点、あるいはガウス平面上の原点に置くということで、そこに意識を置いているとおのずからの揺れが生じ、イメージが広がって有が生まれる。時には、虚の方向へ広がることもあるかもしれない。そうなると意識は、ガウス平面上の半径1の円、±1と±iを通る円のように広がって行くと考えるとより広がりがある感じになる。

原点に自分の意識を置くために、気になっていることの意識を捨てる。引っ掛かりとか意地とか拘りとか囚われとかやらなくちゃとか面倒だなとかそういう意識をとりあえず手放す。身体の具合の悪さもとりあえずカッコに入れる。そうやって限りなく意識をゼロの点に近づけるようにする。

その中で、いろいろな声が聞こえて来る。最初は雑音が多いが、ずっと心を済ませているうちにかきんと何かお告げのようなものが聞こえて来ることがある。それが何を意味するのかは分からない。その方向に動いてみる。すると、何かが形になって行くことがある。あるいは、その行動が自分にとって楽しいことだったということに気がついたりする。

あるいは時にそれが、大きなお話のアイディアとなって降りて来ることがある。それがそのまま作品になることもある。ただ、街へ行こう、というアイデアだったりすることもある。

私は街へは、楽しみのために出かけるということはあまりない。そこで浮きだしたトリップした心を追いかけていくというか、その向かう先に行くことが多い。あるいは、家の中ではニュートラルになりきれなくて、つまりいろいろなものを捨てきれなくて、むしろ群衆の喧噪のなかに自分の捨てきれないものを捨てに行くという感じでニュートラルになる、そのために出かけることが多い。いつの頃からか、あまり楽しみのために出かけることは数が少なくなった。『アーチストウェイ』のアーチストデートを意識して出かけることはあるけれども。

ずっとやりたかったことを、やりなさい。
ジュリア・キャメロン
サンマーク出版

ただ、ときどき強力な「磁場」を求めて動くことがある。何だろうそれは、自分の中に内在する動きが鈍ってきたとき、あるいはもっと引き出したいと思うとき、あるいはその動き方を加速させたいとき、ということだろうか。

先日のポール・マッカートニーの公演は、まさに強力な磁場、超強力な存在感、周りを巻きこんでいくもの凄い力を持った人を実感した時間であり空間だった。そこにポールがいるということの凄さ。この人はすごい、という感覚に不感症になりつつある感じが私はするのだけど、しかし本当にポールは別格だった。行く前からかなりハイに、というかトリップ状態になっていたし、公演中や公演後も叫びだしたり飛び上がったりはしなかったが、たましい的にはもう完全にこの世でないどこかにいた。今でもその感覚は思い出すことができる。あれはとびきりの聖地、聖なる時間だった。

ピアノの森 1 (モーニングKC (1429))
一色まこと
講談社

読めば必ず感動し力が出る本というのも、昨日書いた『ピアノの森』のほかにもいくつかあるのだけど、そう、そう言えば大学生になった頃、私は高野文子『絶対安全剃刀』を聖書にしていた。何度も何度も読み返し、あの感覚を自分のものにしたいと思っていた。

絶対安全剃刀―高野文子作品集
高野文子
白泉社

若いころは多分、そういう心の震えが直接ものを書くこと、物を作ることに結び付いていた。チェルノブイリ事故の衝撃とズラウスキの『狂気の愛』を見た衝撃から『バラ園の私』というひとつの芝居を書いて、それが私にとって形になった最初の作品になった。

映画パンフレット 「狂気の愛」 監督 アンジェイ・ズラウスキ 出演 ソフィー・マルソー/フランシス・ユステール/チェッキー・カリョ/クリスティアーヌ・ジャン/ミッシェル・アルベルティーニ/セルジュ・スピーラ
シネマインク

今はなかなかそんなふうに素直に作品を紡ぎだせなくなっていて盛んに自問自答を繰り返すのだけど、やはり創作的な世界、お話を作ることは、自分で捨てることは出来ないなと思う。やりたいことの範囲が広いためにひとつのものを書き終えた後、次に何をするかを迷うことが多いのだけど、自分が書くべきものを書いて行かないといけないなと思う。

『バラ園の私』のことを思い出して、今書きたいのは、あるいは書くべきなのは、放射能の森の中で展開するメルヘンのようなものかもしれないなと思った。書けるかどうかはともかく、温めておこうと思う。圧倒的な現実に対して、フィクションをどこまで語れるかというのが、一つの高いハードルになるなと思う。

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