教養とは何かについて仕切り直して考えてみる

Posted at 13/11/21

【教養とは何かについて仕切り直して考えてみる】

教養というテーマで何回かブログを書いて、まだ書き足りないことがあると思い、月曜日の朝に続きを書いた。

・学問の目的が教養から専門に変化したことによって、扱われているものも生きるための「知」か生と直接関連性のない「情報」に変化したこと。

・学問というのは本来、人生の指針を与える力を持っているとともに人生をも狂わす魔的な力も持っていたということ。

・自分が卒業後も学問にこだわりを持ち大学院へ生き直したのは自分の生の目的を求めてであったこと。

・学問や教養というものは本来東寺曼荼羅やカトリック教会の内陣のようなゴージャスなものであったはずなのに、なぜ優秀な若者たちがオウム真理教のようなチープでキッチュなトリックにはまってしまったのかということ。

・人間性の内奥に迫る人文系の学問の院生が集まる研究室で、なぜ研究の話題でなく「エヴァンゲリオン」に固執する会話が行われていたのかということ。

・学問や科学技術、あるいは芸術が「生(なま)の人間の生」から切り離されることによって起こる飛躍と堕落について。

・人間の本能としてのイノベーションの欲求とそれを相対化しブレーキをかけ得る教養との相克の問題。

・教養が階級降下に対する下方硬直性を持つということは、言葉を変えて言えば人生の無秩序化を抑止する力を持つということであるということ。

・同様に、教養は世界平和の悪化に対する下方硬直性を持つ、つまり世界平和の無秩序化を抑止する力を持つということ。

・ナチスを生みだした西欧近代教養が暴力性を内包したものだったということ。それは中国古典教養も日本の近代教養も免れられないものであろうこと。

などなど、一つのテーマで書いてもかなり大きなテーマになりうることを一気に書いてしまったのでずいぶんごちゃごちゃになってしまって、収拾がつかなくなってきた。

書けば書くほど混乱する気配が出てきたので一度整理して再度書きなおした方がいいと思い、気になっている論点だけ上に列挙してみた。

と書いている途中でamazonからメールが来て、阿部謹也『「教養」とは何か』(講談社現代新書、1997)が最寄りのローソンに届いているとのことなので、まずはこの本を読んで頭を整理してから上に書いたさまざまな論点について考え直してみることにした。

「教養」とは何か (講談社現代新書)
阿部謹也
講談社

自分にとって、教養というのは生きるために身につけるべきものであると同時に、生きる目的を知るためのものでもあり、あるいはどうも生きる目的であるという気配も漂っているもので、かなり重要な問題なのだということがだんだん認識されてきている。

私は≪耕≫という字を名に持っているのだが、これは父が英語で語源が同じ"Culture"から取ったもので、要は文化の担い手となれ、という願いが込められた名であるわけだ。Cultureは同時に教養も指すわけで、そういう意味では運命づけられ、方向づけられていたのかもしれない、と今書いていて思った。

以前自分の自己認識として「コンテンツ系男子」である、という認識を得たわけだけど、そういう意味では教養とか文化というのは膨大なコンテンツの集積であるとも言える。

教養という言葉にはそれに「人格」とか「品格」というものが伴うわけだ。Wikipediaによれば文化には「適応・超越・自省」の三つの作用を持つとのことで、それはそれぞれ実用主義・理想主義および自己の妥当性・正当性・正統性の自問の三つに言い換えることが出来る。人格や品格は人の持つ理想と自己の正しさの果てのない自問、言葉を変えれば自己に対する厳しさと、他者に対する寛容や尊重、理想や精神性を重んじること、節度、穏やかさ、聡明な理解力、相手の人間性の状況に合わせた過不足のない説得力を持つ発言と言った、さまざまな美徳からもたらされる。書いてみて、自分はそういう人間性を目指しているのだということが改めてわかったけれど、なかなか到達することは難しい。

自分はその中でも、特に「表現」に重点を置いて深めていこうとしているのだなと思った。

と、とりあえず自分の目指すものの全体像として、また自分が書こうとしている内容の見取り図として、書いておくことにする。

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