「フリック入力」と「人はなぜ新しいものにトライすることをやめてしまうのか」
Posted at 13/11/20 PermaLink» Tweet
【「フリック入力」と「人はなぜ新しいものにトライすることをやめてしまうのか」】
月曜日、ポール・マッカートニーの公演に出かける前に書いていた教養についての文章をブログにアップしようと思っていたのだけど、今打ち直して見ると論旨があまりにもあっちこっちに言っていてまとまっておらず、とりあえず内容を考え直してみることにした。で、ブログとしてアップする文章がなくて困ってしまった。
毎日モーニングページを書いているので、今朝書いた文章もあるのだが、これを読んでみるとなんだかすごくトリップしている系の文章になっていて、前提なしでアップ出来ないなと思う世界になっている。
で、それなら今日は、ここ数日書こうと思って書いてなかった、iPhone(やスマホやタブレット)のフリック入力について書いてみようと思った。
フリック入力というのは、知っている人には常識であることだと思うが、私は全然認識していなくて、こちらのブログ(『隠居系男子』)で読んで初めて認識したのだが、タッチまたはスライド(フリック)によって入力する方式のことである。
これはじつは以前教えて頂いたことがあったことをあとで思いだしたのだが、その時には自分には無理だと思ってトライすら最初からしなかったのだった。
しかし今回鳥井さんの記事を読み、Wikipediaで調べて入力方法を理解してみたら、慣れるまでに時間はかかったが、実に合理的な入力方法だということが良くわかった。
ローマ字入力では子音と母音の二回タッチが必要だし、ガラケー式の連打方式だと「お段」の音は5回打たなければならない。それがフリック入力では一音一タッチ、ないし一スライドで済む。だからたとえ慣れなくてあまり早く打てなくても、指にかかる負担は圧倒的に軽い、優れた入力方式だ。
しかし『隠居系男子』を読まなければ、この入力方式にトライしようとは思わなかっただろう。この記事の中で鳥井さんが力説されているのを読んで、私も「自分を技術の進化の方向へ柔軟に合わせていくべきであって、そうでないと後で取り返しがつかなくなる」というのは事実だと思ったのだ。実際のところ、iPadにキーボードをつないだり、いまだに一太郎以外のワープロソフトが使えなかったりするということは、確かにそれで業務はこなせるとは思うが、最高のパフォーマンスを得られるかというとどうだろうかと思うし、それよりもそれに固執する姿勢そのものにやはり疑問を感じるのは正直なところだ。
しかし、人のことばかりは言えない。このあたりのことは私にとっても耳の痛い話で、自分も昔に比べると新しいガジェットやソフトウェアを消化吸収する能力は確実に落ちているし、しり込みする気持ちも人に劣らずあることは確かなのだ。
実際のところ、iPhoneの入力をフリックでするようになって4日たつが、もちろんまだPCでキーボードを打つ方がずっと早い。しかし、慣れてくればもっとスピードが上がるだろうし、併用しているガラケーで連打入力するのは、やはりだいぶ不合理に感じてきた。実際には使いなれているものとしばらく併用していくことにはなると思うけど、やはり新しいものを手にし、それを積極的に使いこなしていくということは、それだけで世界が広がるものがあるというのは大事なことだと思う。
それでは、なぜ人は新しいものにトライするのをやめてしまうのだろうか、と考えてみる。
一つには、新しい技術を取り入れることそのものが面倒だということがある。
確かに手間がかかることだし、その間は作業能率も下がる。しかしそれはある意味必要経費だろう。どうこう言っても、人間は生活する上で技術というものを避けては通れないし、なんだかんだ言っても新しい技術を身につけなければならない場面は少なからずあるのだ。
夏の終わりと秋の初めの間の頃から、私は実家にいるときは毎朝草刈りをしている。また、柿がなったらその柿を取るために、高枝切りばさみを買って柿を取ったりしていた。そんなことでも、新たに習熟しなければならない技術はある。実際身体の使い方一つにとっても、どうやれば腰痛が起きにくいとか、どうやればより安全に斜面の草を刈れるかとか、毎日工夫しているし、秋から冬になるに従って草や灌木が枯れて来ると、もっさりして来て切りにくいものもあれば、乾燥して来て折れやすくなり、わりと太めの灌木が簡単に刈り取れたりするようになったりもする。それが理解できるとそれならこうやった方が効率がいいとか、さまざまに工夫し技術的に深めていくことになるわけで、実際のところ何をやるにしても技術的進歩というものから逃れることはできないのだ。
だから、より新しい技術がよりよいとは限らないが、それは新しい技術を使いこなしてから言えばいいことだ、と割り切った方が全体が見えてきやすいと思う。いま手持ちの技術に安住することはあまり得策とは言えない。面倒がらずにトライしていくことは、自分自身を更新しリフレッシュしていくことに大変役に立つ。
しかしもうひとつの理由は、そのことそのものにある。新しい技術を受け入れることは、自分が変化することを意味するということだ。
実際のところ、私は自動車を運転するようになって(かなり前に免許は取ったのだが、実際に乗り始めたのはここ数年だ)かなり世界が変わった。ある気で行ける範囲に比べて、気軽に行ける範囲が比較にならないほど増えた。しかし、実際のところ、歩いて行ける所でも車で行くようになり、歩く範囲は酷く減少した。そして、歩いていた時には気がついた自然の変化に気がつきにくくなってしまった。
ある技術を身につけることは、その技術を身につける前の自分を捨てることでもある。今でこそブラインドタッチでキーボードを打つことはほとんど誰でもできる技術になってしまったが、以前はけっこう褒められた技術だった。それをそれなりの努力をして身につけたものとしては、その努力の成果を捨て去って新しい入力方式をまた一から身につけていくことに理不尽なものを感じるのはよくわかる。
そういうことと関係があるのか、それともある程度の年齢になると起こる現象なのか、性格などによるのかは分からないが、あるときにふとあらゆる変化というものに対して抵抗したいという気持ちが出て来ることがある。
それは価値観の問題だと自分を正当化できるタイプのことなので、ついその考えに安住してしまいやすくなる。そろそろ変化に疲れたと感じる人はやはり常に一定数いるので、自分に賛同してくれる人たちには事欠かない。分野によってはIT化そのものに反発することが正義だと思い込んでいる人が多かったりもする。そういうふうに内にこもってしまうと、それはそれで居心地がいいために安住してしまいやすくなる。
まあなんというか、変化に疲れた時は無理して変わろうとしないで自分の英気を養ってからもう一度トライするという手もある。しかし完全にドロップアウトしてしまうと、確かにほとんど浦島太郎になってしまうのが現代という時代の怖さではある。情報弱者とかデジタルディバイドという言葉は既にあまり見られなくなっているが、以前に比べてこの問題は本当ははるかに深刻になっているだろう。
もちろん、すべてを拒絶して生きるというのも一つの方法ではあるから、生きにくくてもそういう方法を取るということはあり得ないことではない。それは人間の自由の領域の話だ。
自分も実際のところ、社会生活や職業生活に疲れ、また一方で自分の本当に好きなこと、やりたいことから気がつかないうちに自分を切り離してしまって、変化に対する耐性を失ってしまったとき、変化について行くことや、世の中で評価されているものに触れることを、俗物のやることと切り捨てていた時期があった。
しかし今思うと、変化を受け入れられるようになるというのは、人間としての許容力の問題なのだと思う。自分自身に対して揺るぎない自信のようなものがあれば、もっと柔軟にさまざまなことに対処できる余裕が生まれる。自分自身に対する不安、自分自身の中から出て来る雑音のようなものに耳をふさごうとして、世界に対しても耳をふさいでしまうということはよくある、というか自分の場合はそうだったと思う。
新しいものがいろいろ出てきて、いろいろ勧められても、自分のいま持っているものに固執して、新しいものを受け入れられないというのは珍しいことではないし、だからどう対処しなければならないということもない。それは自分がどう考えるか、どう考えられるかの問題だ。しかしもし新しいものをやはり受け入れなければならないと思うのだったら、そこを点検していくことで何かが見つかるかもしれない。自分の問題点を見つけることが出来るかもしれないし、また思わぬ発見をして急に前に進めるようになることもあるかもしれない。
もともと世の中というものは、変化していくものだ。それを前提として、自分がその中でどうやったら一番生き生きと生きられるのかを見つけて行けばいいのだと思う。
新しいものを受け入れても、古いものを愛するならば、愛して行けばいいのだと思う。どんなに新しいメディアが出てもがんとして真空管アンプを愛用していく方がより豊かである、というようなことも世の中にはあるのだから。
カテゴリ
- Bookstore Review (17)
- からだ (237)
- ご報告 (2)
- アニメーション (211)
- アンジェラ・アキ (15)
- アート (431)
- イベント (7)
- コミュニケーション (2)
- テレビ番組など (70)
- ネット、ウェブ (139)
- ファッション (55)
- マンガ (840)
- 創作ノート (669)
- 大人 (53)
- 女性 (23)
- 小説習作 (4)
- 少年 (29)
- 散歩・街歩き (297)
- 文学 (262)
- 映画 (105)
- 時事・国内 (365)
- 時事・海外 (218)
- 歴史諸々 (254)
- 民話・神話・伝説 (31)
- 生け花 (27)
- 男性 (32)
- 私の考えていること (1052)
- 舞台・ステージ (54)
- 詩 (82)
- 読みたい言葉、書きたい言葉 (6)
- 読書ノート (1582)
- 野球 (36)
- 雑記 (2225)
- 音楽 (205)
月別アーカイブ
- 2023年09月 (19)
- 2023年08月 (31)
- 2023年07月 (32)
- 2023年06月 (31)
- 2023年05月 (31)
- 2023年04月 (29)
- 2023年03月 (30)
- 2023年02月 (28)
- 2023年01月 (31)
- 2022年12月 (32)
- 2022年11月 (30)
- 2022年10月 (32)
- 2022年09月 (31)
- 2022年08月 (32)
- 2022年07月 (31)
- 2022年06月 (30)
- 2022年05月 (31)
- 2022年04月 (31)
- 2022年03月 (31)
- 2022年02月 (27)
- 2022年01月 (30)
- 2021年12月 (30)
- 2021年11月 (29)
- 2021年10月 (15)
- 2021年09月 (12)
- 2021年08月 (9)
- 2021年07月 (18)
- 2021年06月 (18)
- 2021年05月 (20)
- 2021年04月 (16)
- 2021年03月 (25)
- 2021年02月 (24)
- 2021年01月 (23)
- 2020年12月 (20)
- 2020年11月 (12)
- 2020年10月 (13)
- 2020年09月 (17)
- 2020年08月 (15)
- 2020年07月 (27)
- 2020年06月 (31)
- 2020年05月 (22)
- 2020年03月 (4)
- 2020年02月 (1)
- 2020年01月 (1)
- 2019年12月 (3)
- 2019年11月 (24)
- 2019年10月 (28)
- 2019年09月 (24)
- 2019年08月 (17)
- 2019年07月 (18)
- 2019年06月 (27)
- 2019年05月 (32)
- 2019年04月 (33)
- 2019年03月 (32)
- 2019年02月 (29)
- 2019年01月 (18)
- 2018年12月 (12)
- 2018年11月 (13)
- 2018年10月 (13)
- 2018年07月 (27)
- 2018年06月 (8)
- 2018年05月 (12)
- 2018年04月 (7)
- 2018年03月 (3)
- 2018年02月 (6)
- 2018年01月 (12)
- 2017年12月 (26)
- 2017年11月 (1)
- 2017年10月 (5)
- 2017年09月 (14)
- 2017年08月 (9)
- 2017年07月 (6)
- 2017年06月 (15)
- 2017年05月 (12)
- 2017年04月 (10)
- 2017年03月 (2)
- 2017年01月 (3)
- 2016年12月 (2)
- 2016年11月 (1)
- 2016年08月 (9)
- 2016年07月 (25)
- 2016年06月 (17)
- 2016年04月 (4)
- 2016年03月 (2)
- 2016年02月 (5)
- 2016年01月 (2)
- 2015年10月 (1)
- 2015年08月 (1)
- 2015年06月 (3)
- 2015年05月 (2)
- 2015年04月 (2)
- 2015年03月 (5)
- 2014年12月 (5)
- 2014年11月 (1)
- 2014年10月 (1)
- 2014年09月 (6)
- 2014年08月 (2)
- 2014年07月 (9)
- 2014年06月 (3)
- 2014年05月 (11)
- 2014年04月 (12)
- 2014年03月 (34)
- 2014年02月 (35)
- 2014年01月 (36)
- 2013年12月 (28)
- 2013年11月 (25)
- 2013年10月 (28)
- 2013年09月 (23)
- 2013年08月 (21)
- 2013年07月 (29)
- 2013年06月 (18)
- 2013年05月 (10)
- 2013年04月 (16)
- 2013年03月 (21)
- 2013年02月 (21)
- 2013年01月 (21)
- 2012年12月 (17)
- 2012年11月 (21)
- 2012年10月 (23)
- 2012年09月 (16)
- 2012年08月 (26)
- 2012年07月 (26)
- 2012年06月 (19)
- 2012年05月 (13)
- 2012年04月 (19)
- 2012年03月 (28)
- 2012年02月 (25)
- 2012年01月 (21)
- 2011年12月 (31)
- 2011年11月 (28)
- 2011年10月 (29)
- 2011年09月 (25)
- 2011年08月 (30)
- 2011年07月 (31)
- 2011年06月 (29)
- 2011年05月 (32)
- 2011年04月 (27)
- 2011年03月 (22)
- 2011年02月 (25)
- 2011年01月 (32)
- 2010年12月 (33)
- 2010年11月 (29)
- 2010年10月 (30)
- 2010年09月 (30)
- 2010年08月 (28)
- 2010年07月 (24)
- 2010年06月 (26)
- 2010年05月 (30)
- 2010年04月 (30)
- 2010年03月 (30)
- 2010年02月 (29)
- 2010年01月 (30)
- 2009年12月 (27)
- 2009年11月 (28)
- 2009年10月 (31)
- 2009年09月 (31)
- 2009年08月 (31)
- 2009年07月 (28)
- 2009年06月 (28)
- 2009年05月 (32)
- 2009年04月 (28)
- 2009年03月 (31)
- 2009年02月 (28)
- 2009年01月 (32)
- 2008年12月 (31)
- 2008年11月 (29)
- 2008年10月 (30)
- 2008年09月 (31)
- 2008年08月 (27)
- 2008年07月 (33)
- 2008年06月 (30)
- 2008年05月 (32)
- 2008年04月 (29)
- 2008年03月 (30)
- 2008年02月 (26)
- 2008年01月 (24)
- 2007年12月 (23)
- 2007年11月 (25)
- 2007年10月 (30)
- 2007年09月 (35)
- 2007年08月 (37)
- 2007年07月 (42)
- 2007年06月 (36)
- 2007年05月 (45)
- 2007年04月 (40)
- 2007年03月 (41)
- 2007年02月 (37)
- 2007年01月 (32)
- 2006年12月 (43)
- 2006年11月 (36)
- 2006年10月 (43)
- 2006年09月 (42)
- 2006年08月 (32)
- 2006年07月 (40)
- 2006年06月 (43)
- 2006年05月 (30)
- 2006年04月 (32)
- 2006年03月 (40)
- 2006年02月 (33)
- 2006年01月 (40)
- 2005年12月 (37)
- 2005年11月 (40)
- 2005年10月 (34)
- 2005年09月 (39)
- 2005年08月 (46)
- 2005年07月 (49)
- 2005年06月 (21)
フィード
Powered by Movable Type
Template by MTテンプレートDB
Supported by Movable Type入門