「教養=生き方としての学問」と「専門=飯の種としての学問」:「塩野七生はなぜ叩かれるのか」再論

Posted at 13/11/18

【「教養=生き方としての学問」と「専門=飯の種としての学問」:「塩野七生はなぜ叩かれるのか」再論】

供述によるとペレイラは… (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
アントニオ・タブッキ
白水社

昨日は『諸星大二郎原画展』を見終って少しトリップした頭で「リブロ」へ行き、本を物色。読みたい本というより、あ、読んでなかったな、と思った本を二冊買った。しかしその両方とも、読み方がわかる本というか、読むコツを知っている本という感じなので、割と気楽に読めそうなもの。アントニオ・タブッキ/須賀敦子訳『供述によるとペレイラは』(白水社Uブックス、2000)と小林秀雄『小林秀雄対談集』(講談社文藝文庫、2005)。リブロというのはこういう本が割と目につくところにある。文芸好きの初心者向けに、わりと探しやすくできている、と言えるのかもしれない。

小林秀雄対話集 (講談社文芸文庫)
講談社

小林秀雄の対談の目次を見ていて、「教養ということ」と題してソクラテス・プラトンの研究者である田中美知太郎と対談しているのを見て、さっとそこを開いてみた。昭和39年6月の対談だから、1964年、東京オリンピックの年だ。田中・小林とも62歳。ただ学年は田中の方が一つ上だ。最近は一つの問題を考え抜くことが億劫になった、と言う小林に対して、田中は「プラトンなんかも60歳くらいで文体がガラッと変わるんですよね」と答える。そうか、この人はプラトンが生きた人生を追体験しようとしてプラトンを読んでいるのだと思う。プラトンを読むということが自分の生きる力になるということを知り、それを前提として読んでいる。そしてそれは多くの人に共有できるものだと思っている。もちろん小林もそう思っているわけで、それは旧制高校的な教養主義の共通理解のようなものだろう。誰もがプラトンを読むわけではないにしても、プラトンを読むのはいかに生きるべきかを知るため、つまり自分自身の根幹をなす教養のために読むのだ、という理解は共通しているのだ。最近あまりこの世代の人たちの文章を読んでいなかったから忘れていたが、彼らには「何のために本を読むか」ということについて、ものすごくはっきりした意識を持っているのだということを改めて認識させられた。

それは逆に言えば、彼ら以降の世代はそうではない、ということになる。

ルネサンスとは何であったのか (新潮文庫)
塩野七生
新潮社

ここで思い出したのが、塩野七生『ルネサンスとはなんであったのか』の巻末の三浦雅士との対談。これに関しては5年前にも書いた(こちら)のだが、彼女がデビューした時は、田中美知太郎や林健太郎、会田雄次ら大先生の世代にはかわいがってもらったが、その下の助教授あたりが学会の主流になると目の敵にされるようになり、番組などで塩野がナビゲーターを務めたりするとルネサンス関係の学者たちが「塩野が出るなら私たちは協力しない」と言って放送局側が苦慮し、塩野が降りる、ということがよくあったのだという。

田中美知太郎の世代にとっては、学問とは教養、すなわち生きることそのものだったのだ。だから誰もが平等に学問に触れ、語る権利を持っていると考える。もちろん本来、学問とはそういうものだろう。しかしその下の世代にとってはどうか。

80年代になると、すでに戦後に教育を受けた世代が中心になってくる。ということは、旧制高校的な学問=教養という概念は、徐々に崩壊していき、学問は万人に許された教養の基盤ではなく、プロのやること、つまり「専門」になって行ったということではないだろうか。「専門」になるということは、「専門外」の人は排除する、ということだ。「専門外」の人は「素人」とされ、「素人」が神聖な「専門」に口を出すことを忌避するようになったのだろう。そんな彼らにとって、アカデミシャンでもない作家=売文業者が自分たちの高貴な専門家としての文章よりももてはやされ、世間で注目され、自分たちは歯牙にもかけない彼女の言説について読者たちから質問されたりすることは地団太を踏みたくなるようなことだったに違いない。「専門」とはつまり「飯の種=生活の手段」のことであり、自らの生存権の侵害である、とさえ思ったのではないか。

いつの間にか学問というものは、専門家たちが恣(ほしいまま)に壟断するべきものになってしまった。教養としての学問は形骸化し、専門家の飯の種と化してしまった。学問が痩せ細っていくのも無理もないだろうと思う。

言うまでもないけれども、学問というのは本来、専門家に独占されるべきものではなく、市井に生きる一般人が生きる糧=教養として身につけるべきものだったはずだ。人生の折に触れてプラトンを読み返す人生は、思索に満ちた人間的なものだろう。訓詁学も必要だが、訓詁学がすべてではない。

三浦雅士は「マルクス主義が影響力を持つ時代が終わってしまって、学者としてのアイデンティティが研究方法の次元で問われる時代に突入した。結局、そのアイデンティティは研究のディテールに認めるほかなくなってしまった。だから、研究対象をなるべく細分化して、他の領域には手を出さないという、一言で言ってしまえば、タコツボ型がはびこったということだ」として、「専門」=「学者としてのアイデンティティ」と言っているけれども、ここはやはり「教養」という視点を考慮に入れるべきだと、小林と田中の会談をちらっと読んで思ったのだった。

実際、知識の輸入業としての文系学問の役割は、インターネットの普及とともにその根幹を揺るがされてきている。もっとオリジナルな研究がなされるべきだし、それは自らの生の根幹から浮かび上がる問いかけのようなものからなされなければならないと思う。つまりは教養を基盤とした問いかけということである。

そしてまた、自分たちの研究成果も、ネット上の放言に近い情報も、味噌も糞も一緒にされて検索結果に上がってくる時代だということは理解されるべきだし、であれば自分たちの研究成果がなぜ意義深いものであるかをもっと明確に発言していかなければならないはずだ。

歴女が歴史ブームを支えているように、専門学問的でない立場から歴史に関心を持つ人たちの方が実際にはずっと多い。またその中から歴史研究を志す人も多いはずで、そういう人はそういう人なりの強い関心、ある意味生の根幹にかかわる関心から研究に携わろうとするわけだから、決して侮ることはできない。

アカデミズムの世界に自閉していくことは、誰にとっても得策ではない。歴史研究の成果からやはり人間とはどういうものか、われわれはその知見をどう生かしていくべきか、という教養的な価値をもっと積極的に見出していくべきだと思う。

ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)
阿部勤也
筑摩書房

思い出されるのは西洋中世史の泰斗、阿部勤也のことだ。『ハーメルンの笛吹き男』など、アナール学派的な社会構造の大きな動きという視点を日本に導入した先学の一人であったが、1995年に『世間とは何か』という本を出したときには学界は一様に戸惑い、ほぼ黙殺されることになる。「論壇」では一定の話題にはなったが、彼の教養というもの=人生を生きるためのすべとしての知に対する思いは、十分には理解されなかったように思う。それは一橋大学における彼の師である上原専禄から学んだものだったのではないかと思う。上原は1960年、安保反対運動の挫折と同時に突如教職を辞職し、晩年は宇治に隠棲して日蓮の研究に没頭したという。彼にとって学問は、人生生くべきかという問いかけとその答えを求め、後進に伝えるべきものであったに違いない。

「世間」とは何か (講談社現代新書)
阿部勤也
講談社

90年代の学問の「知の技法」化=「情報処理能力」化全盛の時代に、阿部先生は歴史の拠って立つ社会そのもの、そのとらえ方の彼我の違いというものをどうしても明らかにしなければならなかったのだと思う。

ネットによる知の水準のフラット化、研究タイムラグの最小化の進展によって、職業としての学問の世界に求められるものは単なる理論的に厳密な情報処理だけではなく、専門的研究の世界から抽出される教養としての生きる心得や知恵のようなものにもまた、なっていくべきだと思うし、また必然的にそうなっていくのではないかとも思う。

この視点では論じ残したことがかなりあるので、明日にでもまた改めて論じたい。

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