段々畑が冬枯れて/「一流、二流、三流」と「ネットがフラットにした世界」

Posted at 13/11/14

【段々畑が冬枯れて】

火曜日に帰郷してから、諏訪にいる。諏訪は毎日最低気温が氷点下になったりかろうじてプラスになったりしているのだが、今朝はマイナス1.4度だった。

セブンイレブンで『モーニング』を買ってから資源ごみを出すために職場へ行き、ペットボトルの皮を剥いたり瓶のキャップを外したりしていたら、瓶のキャップの開け口で指を切ってしまった。その処置に手間取って時間がかかってしまい、ようやく瓶缶ペットボトルをまとめ使用済みの蛍光灯を抱えて集積所に出しに行ったら凍えてしまった。家に戻ると草刈りの時間があまりなくなっていたが、少しだけでもと思って畑に上って行った。

畑に上る道は、一部にもう霜柱が立っていて、踏むとさく、さく、という。斜面を上って行くと、落葉樹が一斉に葉を散らして、坂道が落ち葉で滑りやすくなっている。それを踏み越えて崖を上って畑に出ると、ほんの少し前まで密林のようだった叢が、冬枯れてべたっと倒れてしまっていた。どちらが刈りやすいかは微妙なところだが、ほんの少しの間に季節がずんずんと進んでしまったのは実感としてわかる。とても高いところになっているために取れない柿の実の姿も、柿の葉が落ちてしまって、木守りのように青空にいくつも浮かんでいる。べたっと倒れてしまうと、この畑が案外幅が広かったのだなということに気づく。斜面に造られた、幅数メートルの段々畑。少し幅が違うと、かなり印象が違う。

【「一流、二流、三流」と「ネットがフラットにした世界」】

寝床の中で、自分のやれること、やれないこと、さまざまなことについて考えた。出来ないことを考えるのではなく、出来ることについて考えるべきだ。出来ることだけでも、かなりのことがやれる。

二流でいこう ~一流の盲点、三流の弱点~
ナガオカケンメイ
集英社クリエイティブ

昨日読んだ、ナガオカケンメイ『二流でいこう』(集英社、2013)について考える。この本は面白かったし、一流や二流、三流についての考え方も面白いと思った。ただ自分の中の「一流」観とはずれる部分があり、どうもそのあたりについて自分にはこの本を正当に評価できないものがあると感じて、昨日から何度ブログを書こうと思っても途中で止まってしまう感じになった。

一流、二流、三流というのはある枠を前提とした、ある分野での話しだろう。これが一流だと言われても、面白いとは思ってもあまりピンとこないというか、たとえばテレビで見てへえっと思っても、その人の本が書店にあったら手に取って読みたいと思うかというとなかなかそうはならない、ということが多い。

だからまあ、あまり無理をすることはないのだと思う。自分に理解できる面白いものがこの世にたくさんあるのに、あまり何がいいか分からないものを一流だからと頑張って身につけようとしても身にあうものにはならないだろう。

自分のめざすべきものというのは、まあ私自身の場合はだが、肩書でもないし、一流と他称されることでもない気がする。もちろん、自分の仕事が評価されるのは嬉しいし、文章ももっと読んでもらえるように評価されるに値する文章を書きたいと思うけれども、やはり自分にしかない視点とか、自分にしかないセンスのようなものが反映していなければ意味がないと思うし、そうなると他者基準で評価されるためにはどうすればいいのかという点においては途方にくれるところがある。

しかしそれを含めて自分らしい文章の模索であるわけだから、下手に他者のニーズに合わせて自分の書きたいものの方向性を曲げない方がいいのだろうと思う。

まあおこがましい言い方をすれば、そういう他者基準の中で一流になりたいとはやはり思ってなくて、ただまあ世の人が皆一歩一歩そういう世界の中で功成り名遂げていくと自分の現状に忸怩たるものがあるわけだけど、自分がなりたいものがあるとしたら、ジャンルの中での一流ではなく、ジャンルを超えた超一流になれればなりたい、と思う。

一流や二流という枠にこだわった方が上手くやれる人というのも当然いるわけで、その人はそれでいいと思うのだけど、私はどうもそういうのが苦手のようだ。

とはいっても、昔は世の中というものはそういうもので、ある分野で一流を目指さなければ、その人の仕事が世に評価されるということは全くありえなかった。もちろん遊軍的な、ジャンル破壊者的な仕事をする人たちや、新しいものを発掘することを面白がって仕事にする人たちもいたけれども、そうでなければ粛々とその枠の中で成長し大成することを目指すのが正しい行き方で、それから外れてやって行くには、日本の外に飛び出すとか、あるいは完全に世の中に背を向けるくらいしかなかったのではないかという気がする。

しかしいつの間にか世の中は変わっていて、今では「一流」とか「二流」とか言う言葉を見ると、逆に「新鮮だ」と思うようになってきた。もちろん、今でもそういう基準で仕事をしている人たちは多いし、ある種の真理を極めて行ったり人間の限界に挑戦していくような業に身をささげていくような人たちは尊敬されるべきだと思うが、特に若い世代を中心に、世の中はどんどん平らな、フラットな世界になってきている。それは言うまでもなく、インターネットの浸透の影響だろう。

インターネットを使って誰でも発言が出来るようになったし(読まれるかどうかはともかく)、興味のある人に向けて発信することで小さな店舗でも特徴のある品を揃えたり特徴のあるサービスを行えば昔ならなかなかなりたたなそうだった業種でもやっていけるようになってきている。であるならば、昔ながらの価値観に従って叩きあげなければ夢が実現できない、ということではなくなっているだろう。

もちろん、人に倍するアイディアがなければそれだけで注目されることは出来ないし、だからこそ逆にきちんと一から修業しようという若者もまた増えているとは言える。フラットな世界で目立つためには、人にないものを持たなければならない。修業して身につける技は、もちろんそれに値する。

しかしそれは、昔と同じようなランク付け、格付けの世界ではない。ネットの世界でもこれからまたもっと信頼性のあるランク付けが生まれていく可能性はあるが、現在のところネットの格付けは正直むちゃくちゃ、というかまだこれがより汎用性のある評価である、という評価基準は生まれていないと言った方がいいだろう。

そういう意味では、評価基準の形成こそが今イノベーションがいちばん待たれる分野なのかもしれない。イノベーションというのは必ずしも自動化ではなく、人力でいちいちきちんと評価していくそういう方法論の深化であるかもしれないが。今行われていることでいえば佐々木俊尚さんをはじめとするツイッター上でのキュレーションが一番おもしろいと思う。それを行う人々の個性がよく現れているし、その真剣勝負の度合いがこれからの信頼性の形成に大きな意味をもつだろう。

しかし、そういう中でも新しい面白さ、いままで注目されてなかったものを発見することに熱心な人々は多く、昔なら雑誌記者が面白いものを求めて取材していたことを、ネットの範囲に限られるけれども、やる気さえあれば誰でもできるということは、それをうまく発信すればその網に引っ掛かる可能性も高いということを意味している。

もちろん、仕事になると人は失敗が怖いので、一番無理のないところに注文することが多い。一流と言われる人に頼めば高くても上手くいく確率は高いし何より社内で周りを説得しやすい。あるいは二流三流でもコストが安ければそれなりの説得力を持つだろう。ネットでググっただけでこれで行こうという提案では、やはり安易と思われても仕方ないが、信頼できるネットキュレーターが勧めているとか、こういう評価をネットでは得ているというような基準がもっと形成されて行けば、現在よりはより動的な観点からの評価がされるようになると思う。

逆に言えばそれは「一流の地位」に安住することが出来なくなるということでもあるので、激しい競争に晒されて、たとえば「日本のデザイン界の方向性を真剣に考える」というような「一流ならではの義務」=ノブレスオブリージュに専念しにくくなるという弊害もまた起こるかもしれない。

しかし、現代美術界では村上隆さんが血を流しながら後進を育てるための試みをしていたり、また動画を手段としてさまざまな表現手段でやって行こうとする若者を育てようとしている川上量生さんのニコニコ動画の試みもあるし、新たなノブレスオブリージュの形も試み続けられていて、それらはネットで確実に広がり、浸透していくし、リアルタイムにその動きを知ることが出来るネットの世界ではその事情実情をより体感的に把握もできて、そういう形でそういう試みを次の世代につなげていくこともできるかもしれないと思う。

というわけで、本についての感想を書こうとして思わずネットとそれが社会に与える影響の未来像みたいなものを語ることになったけれども、『二流で行こう』という本が面白くなかったということでは決してない。この本で書かれているナガオカさんの試みは、ナガオカさんでなければできないだろうなあと思うことばかりだし、一流の人たちにくらいついて行って今の業績を上げていった過程は文句なしに面白いと思う。

ナガオカさんも、この本を書いた動機として、「世界がフラットになって行ってしまうことへの危機感」からこの本を書いたと言っているし、認識は共通している。で、もちろん彼の言う危機感も私は同じ時代を生きてきているから(私より3歳下なのでほぼ同世代)よくわかるのだけど、私はむしろそちらの方に希望を覚える面が強いということなのだろう。その面では私は自分より6歳下の川上量生さんの方向性の方に魅かれるものがあるということなのだと思う。

(以下、あとでつけたしました)

それは私が既存の一流・二流・三流の枠に上手く適合できず、自分の道を探して彷徨い続けたから現代のフラット化の傾向に希望を持っているということはあるだろう。ただもしそうだとしても、上に述べたような意味でのフラット化は進んでいくだろうし、既存の枠はどんどん廃れて行ってしまうだろう。枠がはっきりしない中で面白いものは面白いというような、形の定まらないどう言う枠に収めたらいいか分からないものが増えていくに違いないと思う。

たとえば、それは過去の日本の近代小説の歴史を考えてみると分かりやすいかもしれない。小説ははじめ、自然主義というある理論に沿って書かれたもの、明星派、白樺派や新思潮派のように、ある雑誌の同人になった人たち、新戯作派のようにある傾向を持った人たちという形でグループ分けがなされていたが、第三の新人の頃から作品内容が多様化し、グループ分けも出来ない感じになってきた。それと同じように、これからはあるジャンルに属するとは言いにくいものが増えていくのではないかということだ。

その中で、既存のある分野を極めることによって自分のカラーをしっかり出して行くということは当然あると思う。現代美術の分野でも、過去は必須だった画力が必ずしも要求されない状況になってきて、帰ってアイディア倒れと思われる作品が多い中でしっかりした画力を基礎に書かれた作品が光を放つということもあるわけで、それもまた一つの方向性ということになるのではないかと思う。

そうなると今度は、出てきた作品のどこが面白いのか、それを解説するキュレーションがまた重要になって来るだろう。新しい面白さは新しいとらえ方を必要とするから、多くの新しいものが出て来る時代には、多くのネットキュレーターを必要とするに違いない。

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by Luke Peterson

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