『進撃の巨人』の破格の凄さはどこから来るのか/気分がぐずぐずしている日は映画を見に行く/『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』を見た

Posted at 13/11/10

【『進撃の巨人』の破格の凄さはどこから来るのか】

まとまったことを書こうとは思うのだが、なかなかそういう心持にならない時もある。時もある、というのは今がそうだということなのだが、ということなのでつらつらと取り留めなくいくつかのことを。

昨日は書くべきことを用意しておいたのだけどなぜか全然書く気にならなくて、結局更新しなかった。どうも昨日から精神的にあまりよくない状態に入ったらしくて、でも確実に、ものをつくるときにはそういう精神状態でものを考えるのが必要な部分があるから、それはそれで置いておいたら、どちらが先なのかはよくわからないけど体調もいまいちになってきた。そういうわけで昨日の上京の特急の中ではあまりポジティブにいろいろやったりツイートしたりする気にもならず、ずっとiPhoneで『自由への進撃』や『進撃の巨人サウンドトラック』を聞いていた。あんまりそういうこうとってないんだけど、そういえば音楽というのはそういうときによく聞くものだったと思った。

Newtype (ニュータイプ) 2013年 12月号 [雑誌]
KADOKAWA

新宿の駅構内の書店で『Newtype』を買い、帰りの車内で読む。『進撃の巨人』特集。荒木哲郎監督のインタビューを読みながら、作者の諌山創さんはやはり天才だなと思う。普通の人だとそれは考えないよなあと思うようなことがたくさん。特にうーんと思ったのが、キャラクターの一人一人が「いいやつ」を書こうとして書いているということ。本当に「いいやつ」が多い。そしてだからこそ、彼らが死んだり苦悩したりすると読者にショックが走るのだ。そう、私たちはなぜか、いい人は生き残り悪人は死ぬ、という物語観に慣れきっていて、その反対のことが起こるとむずむずしてしまう。悪人が生き残るのはムズムズしたり腹立たしくなったりでまだ済むが、「いいやつ」が死ぬとすごくショックがでかいのだ。それを計算して物語展開に衝撃度をくわえるためにキャラをみな「いいやつ」にするというのはまあ人でなしというか、天才だとしか言いようがない。下手をするとものすごく嫌らしくなるはずなんだけど、それがそうならないようにしている。それだけ絶望の深さが際立っているわけで、「いいやつの死」はまたその絶望感をいやおうなく高めるのだ。

もう一つは、性欲という軸を持ち込まないこと。この物語の一つの特徴は男と女の性差が少ない、少なくとも優劣の関係にはなっていないことだ。たとえば明らかに人間としての戦闘力で104期で一番すぐれているのはミカサだし、格闘術では身長154センチのアニだ。ミカサはエレンのことしか眼中になく、ジャンはミカサのことを思っているなど、精神的なレベルのことはあっても男女関係のややこしさみたいなものがなく、ある意味清潔な世界になっている。それは作者の意図的なもので、「性差があることにすると情報量が多くなる」と言っているそうだけど、その複雑さを持ち込まない方が物語がすっきりする、と考えてそういうものを持ち込まなかったのだそうだ。荒木監督は「確信を持って「ない方がいいんだ」と言える人は初めて見ました」と言っているけれども、これは本当に天才だと思った。

物語をつくるということはそういうある種の「世界の基準」みたいなものを示すことでもあって、これを独自なものを根拠を持ってつくるのは、やはり才能と言うしかないものがある。それが成功している作品が一体どれだけあるかと考えると、『進撃の巨人』の破格性がはっきりすると思った。


【気分がぐずぐずしている日は映画を見に行く】

今朝は、そういう人が多かったと思うけど、いきなりの地震で目が覚めた。江東区は震度4で、立てかけてあったものが倒れたり、不安定に置いてあったものが落ちたりした。ちょっとびっくり。でも地震がなければいつまで寝ていたかわからない。『日曜美術館』を見ていたらアートシーンで宮芳平が取り上げられていた。諏訪で活動した画家で、森鴎外のエッセイにも出てくる。サンリツ服部美術館も本阿弥光悦がらみで取り上げられていたし、諏訪関連の情報が不思議に提供されていた。

なかなかモーニングページも書けず、だいたいツイートすらあまりする気にならない感じで、悶々と時間がたち、体調も気分も上がらない。12時になったので昨日神戸屋で4割引きで買ってきた海鮮リゾットをレンジで温めて食べた。これがおいしくて、少し気分が上がり、じゃあやはり『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』を見に行こうと考えてさてどこに行こうかと思う。

私のうちの近くということで候補を挙げてみると、一つは錦糸町、もう一つは豊洲、三つ目は南船橋ということになった。この映画はなぜか都心の日比谷や銀座で上映してないため、見に行ったついでに街で買い物をするということができない。座席を調べてみると錦糸町はかなり混雑していて午後の切符は取れず、南船橋は空いているがやはり遠すぎる。豊洲はららぽーとの中にあり、そういえばまだららぽーと豊洲に行ったことがないなと思ったし、とにかく行きにくい場所なのだが、調べてみると錦糸町から出るバスが東陽三丁目を通って豊洲へ出ることが分かったので東陽三丁目まで歩くことにした。

久々に東陽町の裏街を歩くと、区役所のはす向かいのラーメン屋がなくなって変な食べ物屋になってたりしてうーんと思ったが、東陽三丁目まで歩き、なぜか客がいるわりには書籍のかなり多くの部分がエロ本で占められている書店で待ち時間を潰して、バスに乗った。

バスは東陽1丁目の旧洲崎遊郭の前を通り過ぎて塩浜に出る。ああここは、私が免許を取った教習所の近くだ、ということを思い出す。94年の夏だった。それから塩浜から枝川、さらに豊洲へと出る間、以前時々そのあたりまで足を伸ばして散歩をしていたことを思い出した。豊洲の半ば近未来的な空間と、なんとなく影が濃い感じの洲崎から枝川にかけての世界の対比。なんとなく、「まど☆マギ」を見に行くのにふさわしい道順な気がした。

バスの中で、そういえば昔は、何をやったらいいか見当がつかず、何も手につかなかったり、体調が悪かったりメンタルがぐずぐずしている日は、よく映画を見に行ったことを思い出した。そうだ、昔はどうしてあんなにしょっちゅう映画を見に行ったんだろうと結構不思議に思っていたのだが、つまりはそういうことだったのだ。そう、映画なんてそういう気楽な気分で見に行けばいいんだ。なんか気合を入れないといけないような気がしていたのはなぜなんだろうと不思議になった。

豊洲駅前で降りたが、先ずどちらがららぽーとかわからない。トイレにも行きたいし困ってしまって、うろうろしながらようやくたどり着いてトイレに駆け込んだ。しかしトイレから出たら今度は映画館がどこにあるかわからない。またうろうろしてようやく3階の奥にあることが分かり、3階まで上がるがどの方向かわからない。ずいぶん探したり走ったりして切符売り場に並んだのは開演15分前だった。

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【『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』を見た】

さて、感想。

一言で言えば、評価に迷っている。いや、面白くなかった、ということではない。

劇団イヌカレーの異空間は相変わらず面白かったし、使い魔や木偶のような人間たちの描写の嫌っぽさも卓越していた。戦闘シーンや物語のどんでん返しの部分も背筋がぞっとするようなところがあったし、決して面白くなかったということはない。

いろいろなことはあるけれども、まだ見に行っていない人に一言忠告しておくとするなら、テレビシリーズか劇場版前後編のどちらかは必ず見てから行った方がいいということだ。私はリアルタイムではなく2011年の9月ごろ、DVDを借りてきて全部見たが、これは相当な衝撃を受けた。

この映画は、このストーリーの続き(ストーリーと言ってもかなり特殊なものなのだが)という形で展開しているので、知らないと戸惑うことが多いし、私も見ながら思い出したことも多かった(何しろ見てからもう2年以上経ってる)ので、先ず予習してから行った方がより楽しめると思う。

前半は不自然ながらサービスタイムというか、なるべくネタバレは避けたいのであいまいな言い方になるが、「まど☆マギ」のファンならばこういう場面が見たかった、と思うだろうなという展開。つまり、二次創作的な展開とでも言えばいいだろうか。それを本職のアニメーターがやっているのだから面白いに決まっている。

後半は、ほむらがこの世界の不自然さに気づき、その謎を解き明かしていこうとすることから物語が動き始めるのだが、私は特にこのあたりの杏子とバスで出かける場面がいいなと思った。行っても言っても目的地に着かない、悪い夢のような世界。そしてそれが本当の悪い夢であったことが明らかになっていき…

映画評を見ると、この映画はおおむね好評のようで、それは主に、「ファンが見たいものを見せてくれている」ということにあるようだ。それはまあそうなのだが、やはりいい作品というのは、ファンの期待の2倍くらいの意外さで楽しませてくれるものだ、と思うので、そこまで達成できていたかというと、うーん、という感じがあるのだ。

以下ネタバレがあるので注意願います。

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たとえば『進撃の巨人』は、毎回期待の1.5倍以上の面白さをコンスタントに保っている。つまり面白さの拡大再生産が続き、それに従ってどんどんファンが予想した妄想の全体像もどんどん広がっていくのだ。

それに比べると、若干想定の範囲内、という感があった。想定の1.2~1.3倍という感じか。ラストの方に何度も起こるどんでん返しはお家芸という感じではあったし、エンドロールが終わった後に映像が残されていたり(私はトイレに行きたくてエンドロールの途中で出ようかと思ったのだが誰も立つ人がいないしジブリの『魔女の宅急便』でもEDの最後にセリフが残っていたりしたから我慢していたのだが、出なくてよかった)、真っ二つに割れた月などシンボル的な場面や物もあって道具立ての使い方が面白いと思ったのだが、人を思うあまり魂を濁らせて悪にさえなる、というのはアニメでは珍しいかもしれないが文学的にはある種の定番ともいえるし、そんなに意外性は感じなかった。

世界のために、人々のために必死で魔女を退治しようとして傷つき倒れていくTV版の魔法少女の健気さというものが、今回は最初っから最後まで皆が超人ぽくて、思わず肩入れしたりしたくなる感じもなかった。

というか、TV版で見ているときも、なぜほむらはまどかへの愛を暴走させて自分だけのものにしてしまおうとしてしまわないのだろうという感じがどこかでもやもや残っていたので、今回はそれを解消させたという意味である意味本編の起こるべき続編だったのかもしれない。しかしそれだけならこれだけの筋立てが必要だっただろうかとか、余計なことも思う。

だからまあこれは商業演劇で、スター芝居だと思えばいい、ということにもなる。まあこの5人のキャラクター、鹿目まどか、暁美ほむら、佐倉杏子、三木さやか、巴マミという存在は、物語の枠を超えてある意味スターになっているわけだから、(今回も百江なぎさという新キャラが加わったが……そう、この新キャラの正体が魔女としてマミを食べたお菓子の魔女だという設定が凄いとは思ったが違和感はあった)そのそれぞれに存分に見せ場をつくるということ自体は客を喜ばせるためにはよい演出だったのだろう。それを求めて劇場に来た人たちには十分満足させられたはずだ。

ほむらと杏子の旅、ほむらとマミの戦闘、真実を語るさやか、マミを食べたお菓子の魔女の正体のなぎさがペットのべべとなってマミと一緒に暮らしているなど、新たな場面を与えられて張り切って演技をしている感はあるが、物語の高揚を求める方から言えば、そのあたりは「だから何なの」感はある。さやかが真実を知っていることについての説明は納得できたが、マミを食った魔女がマミのペットになってることについてはどうも納得のいく説明がなかった気がする。

ラストは結局、さらに続きがあることを暗示した終わり方になっているのだと思うし、さらに続編をつくろうという前提があるように感じた。

私個人の感想としては、やはり「まど☆マギ」はテレビシリーズの方がいいような気がする。だから今回のストーリーを逆にテレビアニメに落とすとか、そういう考えもあってもいいように思う。

いろいろな面で考えさせられていて結論が出ていないことも多いのだけど、このアニメは2010年代を代表するアニメの一つになるだろう。また更に予想を超えた展開をつくって行ってくれたらなあと思う。

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ネタバレ終わり。


【のんびりした銀座】

まっすぐ帰ろうかと思ったのだが、なんとなく不完全感が残り、銀座に出る。日曜の夜の銀座はのんびりしていてホッとする。教文館が閉まっていたので久々にブックファーストへ行き、本を物色してナガオカケンメイ『二流で行こう』(集英社、2013)を買った。銀座線と東西線を乗り継いで帰宅した。

二流でいこう ~一流の盲点、三流の弱点~
ナガオカケンメイ
集英社クリエイティブ

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by Luke Peterson

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