「理想」と「使命」と「正しさ」と:いかがわしかったり不細工だったりする言葉たちを見直し、自分の思想を立て直してみる
Posted at 13/11/07 PermaLink» Tweet
【「理想」と「使命」と「正しさ」と:いかがわしかったり不細工だったりする言葉たちを見直し、自分の思想を立て直してみる】
言葉にはいろいろな「色」がつく。特に子供の頃から耳にしていた言葉は、ある一定のイメージが本来の意味とは別についてしまう。身近な人に対しては、遠くにいる人と同じように客観的には見られないのと同様、そういう言葉に対しては一定の色のついたイメージを持ってしまい、それを使いにくくしたり、あるいは口にしただけで気恥かしい、と感じる言葉にしてしまったりする。
自分にとって、そういう言葉はいくつかある。たとえば、「正しさ」というのはその一つだ。正しいって一体何だろう。
私は子どものころ、世の中ではいろいろな争い事は起こるけれども、みんなが本気で話し合えば解決して、ひとつの「正しさ」の認識に至る、と思っていた。みんなが方便でいろいろな主張はするけれども、本当はひとつの正しさがあるのだと。
自分は何が正しいとかいうことにそんなに興味がない方だったから、「正しい」行動を求められる時というのはけっこう困った。だから困らないように何が正しいのか、というのを探していたのだけど、結局自分にはよくわからない。しかしもし、いつか争いのない世の中が来るなら、その時にはちゃんと話しあえばひとつの正しさに至るんだろうと思っていた。それは多分、そういうある意味幸福な幻想を回りの大人によって与えられていたのだと思う。
しかし当たり前だが、現実にはある人の言う正しさと別の人の言う正しさは違う。いくつもの正しさの基準=スタンダードが、世の中にはある。そういう意味では社会はダブルスタンダードどころではない。その中のどれを取ればいいのか。それが結局は自分が正しいと思うように生きるしかないならば、そのスタンダードは自分にしかない。しかし実際には状況によってスタンダードを使い分けなければならないときもあり、そうなると本当に正しい基準というものは存在しないということになる。世の中にあるいくつかの基準を、自分の中にある基準に照らし合わせながら使う、つまりはメタなレベルで基準を使い分けつつ、基本的には自分の基準に合わせて行動するしかない、ということになる。というか、少なくとも私はそうやって生きてきた。
これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学 | |
マイケル・サンデル | |
早川書房 |
だから、比較倫理学みたいなものがあるといいと思うのだが、あまり見たことがない。マイケル・サンデルの『これから正義の話をしよう』みたいなのがつまりはそういうものだと思うのだが、そこで展開される議論に賛成できない感触がある。というか自分にとって正しさというのは理性だけではなくかなり感覚に根ざしているところもあるので、生理的に受け入れられるかどうか、という問題もある気がする。そして生理的な問題は理性で納得しても解決はしないために、もっと面倒くさくなる。そこは正直言って、私は理性では割り切りたくない。
そんなふうに考えると、基本的に何が「正しい」というのは難しいことだ。自分の意見としてもこちらの方がベターだ、という言い方はあっても絶対こっちが正しいよ、というようなことを言うことはあまりない。まあ争いごとになると、特に友達などがよく知らない人とのトラブルに関する話をしている時には、この部分は正しいと思う、この部分はあっちの言うこともわかる、というような言い方になる。ただそれはいわばその辺が「世の中の常識とされているもの」に照らし合わせて両者が納得できる、あるいは納得すべきリーズナブルな「落とし所」だろうと思うという感覚であり、まあ言えば裁判官が懲役3年じゃ短いが5年じゃ長いから4年にしとこう、みたいな言わば「相場感」であって、そういうものが「正しさ」と言えるのかはよくわからないところがある。
まあもちろんそういう「絶対的な正しさ」みたいなもの、というものがあるのかどうかはともかく、「それが実行されたら皆が明るい顔になるもの」が正義と言うべきだろうと思うし、であるならばやなせたかしが言うように「飢えた人を減らす」ことくらいしか絶対的な正義はないかもしれない。(私は特定の宗教を持たないので、神の言葉に照らし合わせる習慣がない)
まあ正義というのはそういうふうに難しい問題なのに、子どもの頃からあれが正しいとかこれは間違ってるとか、気軽に脈絡なくいろいろなことを言われて育って来るから、「正しさ」について懐疑的になってしまうところはある。
特に大人がダブルスタンダードを使うと、子どもは正義に信頼を寄せなくなる心配もある。しかし臨機応変ということも教えなければいけないし、それは寛容と確信のバランス、ないしは両立という面もある。いろいろな人のいろいろな正義があると教えることもまた必要だ。
しかし自分に関して言えば、「話し合えば理解しあえる」というある意味幸福な誤解を持っていたことは、自分では良かったと思っている。自分の言葉で一生懸命話せばいつかきっとわかってもらえる、という希望を持つことは、もちろん甘いと言えば大変甘いことなのだが、自分をしあわせにすることでもある。不幸せに直面するのは大人になってからでもいい。
いずれにしても、自分がこの「正しい」という言葉を使うときには、自覚的に使わなければいけないなと思う。
「正しさ」と並んで使いにくい言葉のひとつに、「理想」がある。
私が育ってきた環境での文脈では、「理想」という言葉はとても押し付けがましく感じられるものだった。理想社会とはこういうもので、だから皆がその実現に頑張らなければいけない、みたいな。だから、理想というものに関して「インチキくさいもの」というイメージがどうしても付着している。似た言葉に「適正」という言葉があるが、理想とか正しさとかが自分の外部にあってそれを自分も共有しなければならないというような押しつけがましさが若い頃は特に我慢ならなかった。
しかし、月刊『全生』11月号を読んでいて、野口裕介さんがとある会員に対し、「5種の人は「理想」がなくなると一獲千金の話ばかりするようになり、すさんだ印象になる」ということを言い、その言葉に対する説明で、「理想と言ってもそんなに大げさなものではなく、「こういうことをやりたい」というようなことがあると元気になるが、それがなくなると縮こまって濁った感じになって来る」と言っていて、この表現が読んでいて胸にすとんと落ちるものがあった。
そう、つまり「理想」というものはその人がやりたいと思ったこと、その人がなりたいと思ったものであって、外から与えられると言った筋合いのものではない。そして「理想」と言うと話は大きくなるけど、その本質は自分の中に萌(きざ)したそういう「やりたい」「なりたい」という「感じ」に、まあ言えば、過ぎないということなのだ。
主体性は教えられるか (筑摩選書) | |
岩田健太郎 | |
筑摩書房 |
こういう発想が出てきたのは、いま岩田健太郎『主体性は教えられるか』を読んでいることともつながっているのだろう。つまり主体性というのは、「その人が自分なりにこうしよう、ああしようということを持って行動している」ということだから、つまり「主体性とは、その人なりの理想を持っているかどうかだ」というふうに言い換えてもいい、ということになる。
そう考えてみると、いろいろなことがつながってきた。
ずっとやりたかったことを、やりなさい。 | |
ジュリア・キャメロン | |
サンマーク出版 |
以前、何回かジュリア・キャメロン『ずっとやりたかったことを、やりなさい』を読んで自分の中の霧が晴れたような気がしてきたということを書いたけれども、そのことの意味がもうひとつ分からず、もやもやしているところがあった。しかし今回考えて見て、キャメロンの言ってることは、「ずっとやりたかったことをやる、ずっとなりたかったものになるということは、その人の理想を取り戻すこと」で、「だからもう一度やり直してみよう、きっとできるから」と言っているのだということに気がついたのだ。そう考えてみると、この人の言っていること、この『ずっとやりたかったことを、やりなさい』の言っていることは、非常にシンプルなことだということが納得できた。
そうなると、正しいと思うということも、本当はその人が正しいと思っていれば十分だ、ということになる。だから「何が正しいのか分からない」というのも変と言えば変だ。ただ、自分の正しさが世の中で受け入れられるとは限らないわけで、それが受け入れられなければ正しくないとされることもあるだろう。しかしそれは、見解の相違なのだ。自分がそれを本当に正しいと思っているかどうかということの方が、本当はより問題だということになる。
もちろん、そのことによって自分の思想が極めて反社会的であるということがわかるかもしれない。しかしそれならそれで仕方がない。その反社会性が坂本龍馬のそれなら新しい日本を作るかもしれないし、宮崎勤のそれなら極刑に処せられることになるわけだが。あるいはそこまで行かなくても、日本社会で生きるならどうにかして折り合いをつけていくしかない。そういう自由も(ある意味)人間には与えられている。
主体性というのは結局そういう問題なのだ。
自分の中で、「理想」という言葉はもっとも手垢のついた言葉だった。自分として、遠ざけたい言葉だった。理想という言葉を使った表現を考えると、「理想の楽園北朝鮮」くらいしか思いつかない。つまりこれは、社会主義者や共産主義者が使い古してくれたためにどうにもならなくされてしまった言葉でもあるのだろう。
一方、「やりたいことをやる」というような表現は、言いたいことはわかるが、どうもブサイクな感じがする。その不細工さが、自分の主張として言うときにやはり抵抗を感じる言葉ではある。あんまりかっこいいとは思えない。しかし、「やりたいことをやる」ということばと「理想」という言葉が一緒になってみると、そのどちらとも光り輝いて、大きな太陽のようなものに見える。
理想という言葉を、再び自分のもとに取り戻さなければならない。正しさという言葉も。それを結び付けるのが主体性、ということになるのだ。
「理想」というものを失ったとき、私は一獲千金を狙おうとは思わなかったが、一発芥川賞を取るような小説を書くとか、準備もないのにそういうことを考える傾向はあった。それはお金の一攫千金ではないけれども、たとえば名誉や権勢の一攫千金を狙おうという心の荒みの表れだったんだろうなあと思う。
理想というものは、一足飛びに実現できるとは限らないが、それに向けて一歩一歩努力して行けば必ず近づけるものであるし、その近づいて行く過程自体が楽しいものであるとは言える。社会主義の理想の楽園にしてみても、その理想が信じられている間は人々は楽しかっただろうと思う。
「理想」と似たような、つまり人が持った方がいいものとして、「使命感」ないし「使命」という言葉がある。この言葉はかっこいいのだが、どうも私には重いものに感じていた。でも人として使命感を持たなければいけないんじゃないかという気持ちになっていて、何かイヤだなと思っていたのだが、その理由もここにきてはっきりした。使命というのは、どうしても与えられたもの、という意味になる。自分に必要なのはそれではないのだと思う。自分に必要なのは理想なのだ。
使命はミッションであり、仕事であり、命じられたもので、果たすべきものだ。孔子も「五十にして天命を知る」と言っているが、それは運命であり、自分の果たすべきこと、というニュアンスは微妙だ。
与えられた仕事を果たす、というふうに考えた方が自分がやりやすい人はそう思えばいいのだと思うが、私はやはりそうは思わない。私は基本的にすごくわがままな人間なので、誰かに、それがたとえ天であろうとも、命じられて何かをやるというのはやはり納得できない。
自分が最も理想とすること、もっとも望ましいと思う状態を考えるということは、主体性そのものだ。自分がどうなりたいか、どう言う勉強をしたいか、どう言うふうに自分および世界を回したいか、ということが理想なのだ。その理想を共有=シェアしてくれる人がいればもっといいし広がるが、シェアしてくれる人がなくても、そっちへ進めばいい。
言葉を換えて言うと、「使命」というのは究極の受け身で、「理想」というものは究極の主体性であり、究極のポジティブなのだと思う。だから常に理想を持ち、理想を追い求めることが、少なくとも私にとっては望ましい生き方なのだと思う。
あるいはこうも言えるかもしれない。「使命」というのをもとにした生き方はあの世とか神とかいうものを想定した生き方で、「理想」というものをもとにした生き方は人間中心の生き方だと。もちろん、見える範囲の違いだけに還元することはできないが、「理想」はやはり自分の力、人間の力を信じてその実現に向けて努力する現世主義的な方向性の思想だと思う。「使命」はこの世で果たすべき役割を向こう側で与えられてこちらにやってきた、という感がある。私も、「自分がやらないとこれをやる人はいないから俺がやるか」と思うことはあるが、それは「仕方ないから」やることであって、それが自分の使命だとは思わないし、自分以外にそれをやる人がいれば喜んでそれは譲る。何かを使命だと思ってやる人も、その中で何かを良くすることを考えるとき、どうしたら一番いいか、理想について考えることは当然あるだろう。だからどっちがどっちだけということもない。
また違う面から見ると、理想とは思想に引っ張られること、理念に引っ張られて行動することであり、使命とは必要性に迫られること、自分の不可欠性、役割性に依拠して行動することだと言える。自分の居場所がほしいタイプは後者の方が考えやすいだろうし、自分の自由が欲しい人は前者の方が考えやすいだろう。
自分が主体的に自分の理想を追い求め、やりたいことをやって作りたいものを実現していくことが自由ということなのだと思う。そして思いがけず自分がやらなければならないことを自覚して、自分の存在感を意識し、自分の役割を果たしていくことに喜びを感じることを使命というのだろうと思う。
人はどちらもやる必要があるとは思うし、自分なりに後者の側もやっては来たけれども、結局自分の肌には合わないところはある。理想というのは主体性であり、創造性のことなのだと気がついたことが自分にとっては一番大きいし、そのように生きたい。
しかし「やりたい」と思うこと、それを「理想」だと思うこと自体が、天から与えられたもの、すなわち「使命」でもあったということになるとすべてがつながる。
しかしまあ、私としてはそんなふうに悟りたいとは思わない。まずは自分のやりたいことをやりたいようにやりたい。
自分がやらなければならないことがあるとしたら、自分のいのちを燃焼しつくすまで燃焼させ尽くしてから、ことんと死ぬことだと今は思っている。
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