川上量生『ルールを変える思考法』読了:「ニコニコ動画は近い将来、滅びるはずです」/コンテンツとコンテナ:「楽しいところに人は集まる。響くものがあれば続く」/コンテンツ系男子:コンテンツ愛とコンテナ愛/理想のコンテンツ系男子

Posted at 13/10/28

【川上量生『ルールを変える思考法』読了:「ニコニコ動画は近い将来、滅びるはずです」】

ルールを変える思考法 (角川EPUB選書)
川上量生
KADOKAWA / 中経出版

川上量生『ルールを変える思考法』読了。すでに何回かこのブログでも書いているが、とても面白かった。また読み直してもいいかと思うくらい。

これも何度か書いているけれども、この本において一番重要な言葉は「コンテンツ」だと思う。これについては川上も何度もいろいろな角度から説明している。

コンテンツというと普通は作品、小説や音楽を指すが、彼は「ニコニコ動画」、つまりウェブサービス自身もコンテンツととらえている。

彼は、「コンテンツとは何か」という問いを立て、それに「わかりそうでよくわからないもの」という答えを与えているが、まさに「ニコニコ動画」というのはそういうものだ。何が面白いのか、最初はよくわからない。しかしやっているうちにどんどん面白くなってくるし、そこに膨大な無償の情熱が注ぎ込まれて、どんどん面白くなっていく。

そして川上はその「無償」の部分に疑問符をつけ、ニコ動にコンテンツを提供する人たちがきちんと報酬を得て食べていける仕組みをつくろうとしている、というのもすごいと思った。

僕の仕事は YouTube
HIKAKIN
主婦と生活社

これは、『ぼくの仕事はYouTube』で著者のHIKAKINがクリエイターの立場から「ウェブで面白いことをすることによって食べていく」ことについて書いているけど、ウェブサービスの側からのシステム作りをしているという報告でもあった。

このことは大事なことだ。

もともと貴族社会では自分に財産があるかパトロンがなければ芸術家も著述家も食べていけなかったのが、市民社会の成熟とともに、モーツァルトやプーシキンの時代に自分で作曲料や演奏料を取ったり本の予約を取って回ったりして自活の道を得ることができたのが19世紀の文学や音楽の飛躍的発展に寄与していることは間違いない。そのシステムは19世紀から20世紀にかけて成熟し、それに多くの人が関わる膨大なコンテンツ産業が生まれたわけだけど、逆に言えばコンテンツ産業が提供する「形」や「チャンス」に合わないものは、どんなに面白いものでも形にならないまま葬り去られていただろう。タモリも赤塚不二夫に見いだされたから今日があるわけだし、まったく斬新なものを「これが面白い」と見出す存在が既存の産業側になければその才能が発揮されることはなかった。

しかし、YouTubeやニコ動の試みは、今までなかった面白さを小規模から始めて大きくする可能性を持っている。そのための新しいプラットフォームそのものが、川上にとってのコンテンツ、つまり作品なのだ。

それは当然、多くのクリエイターの人生を変える力を秘めていると思われる。

コンテンツについて、川上が「かばん持ち」をしているスタジオジブリの鈴木敏夫は、「世界を変える力がある。ぼくらはそれを信じている。」と言っている。それは、国民的大ヒットを数々飛ばし、多くの人の人生に大きな影響を与えてきた鈴木の言うことだからこそ、強い説得力を持つ。

そして川上も、「コンテンツの価値は、誰かの人生を変えられるかどうかで決められる」という。つまりこれは、具体的に言えば、「ニコ動でパフォーマンスをすることで食っていける人を一人でも増やすのがニコ動の価値だ」と宣言しているということだろう。

もちろんこれは一般的に言ってもその通りで、「この本を読んで人生を決めた」ということが多い本は、とても価値のあるコンテンツだろう。

もちろんここには「共産党宣言」とか「アラーの大予言」とかも含まれるわけで、それで決まった、動かされてしまった方向が「よかったかどうか」はもちろん問題ではある。しかしとりあえず、そういう力すら持たないコンテンツは、やはり価値が少ないというか、毒にも薬にもならない、ということで終わってしまうし、それはやはり生み出す側としてはあまりうれしくないことだ。

何というか、川上という人は一筋縄では行かない。この不況が続く世の中を、彼は「ムダなものを切り捨てる価値観」に支配されている、と見た。その価値観に抗うために、と言うだけでなく「人間にはムダなことをすることが好きな面がある」のだから「ムダなこと」にはニーズがある、と見たのだ。それで「ニコニコ超会議」のような「大きなムダ」を実行したのだという。

彼は、「時代を超える普遍性を持ったコンテンツ」は基本的に存在しない、と言う。これはそうだともいえるしそうでないともいえると思うが、ただ「時代性を軽視してはならない」というのは事実だと思う。まあ私の思う普遍性というのは人間はどんな時代でも似たようなところで躓くのだから、それを乗り越えるためのコンテンツはそんなに変わる必要はないかもしれないわけで、そういう意味では普遍性のあるコンテンツはあり得るのではないかと思うのだけど。

「ニコニコ動画は近く滅びるはずだ。その時にこそニコニコ動画の物語は完成する。」

こんな言葉で自分のサービスの終焉を予告する経営者がいるだろうか。いや、IT業界でやっている人たちに取ったらそれは言葉には出さなくても当たり前のことかもしれない。しかしその中で新しい提案と工夫、人を驚かすような行動を起こしていく川上という人からは、これからも目を離せないと思う。

別冊カドカワ 総力特集 ニコニコ動画 62484-77 (カドカワムック 473)
角川マガジンズ(角川グループパブリッシング)

ところで、昨日街を歩いていた時、たまたま入った書店で『別冊カドカワ 総力特集ニコニコ動画』を買った。これは調べてみると発行は今年の一月だったらしい。よくこの書店に残っていたものだと思う。

冒頭に川上量生とロンドンブーツ1号2号の田村淳の対談が載っている。この対談で一番印象に残ったのは、ニコニコ動画で「何をやってよくて何はアウト」という「ガイドラインを明確にすべきじゃない」と言う川上の発現だった。そうすると厳しくなる方向にしか行かないから、というわけだ。それをつくろうとする社員に説教したのだという。それは自然発生的にできるもので押し付けるものではない、というわけだ。それに対し田村も「それがテレビを面白くなくした」と応じていて、これは本当にそうだと思う。昨日映画についてたくさん書いて思ったけれども、現代では作れそうもない映画が昔はたくさんあった。多くの関係者が自分たちの身を守るためにルールやマナーやガイドラインを作り、その結果面白くなる可能性があったものを葬ってきたということはあるのだと思う。

そのほか、まだ読んでないが『ルールを変える思考法』に登場してくるドワンゴのメンバーやクリエイターの人たちがインタビューを受けていたりして、この二冊は合わせて読むと面白さが倍増するのではないかと思った。

いずれにしても、これからの展開がとても楽しみである。


【コンテンツとコンテナ:「楽しいところに人は集まる。響くものがあれば続く」】

そういうわけで、ここのところずっとコンテンツということについて考えていた。川上の言うところに従えば、コンテンツとは「わかりそうで、よくわからないもの」である。だから、たとえば音楽や小説などの作品もそうだけど、川上の言うようにウェブサービスもそうであり、もっと飛躍させれば自然もそうだし人間もそうだし、何より自分自身もわかってるようでよくわからないのだから、最大のコンテンツだと言えるわけだ。

しかしコンテンツはコンテンツとしてだけ存在するかというと、そうではない。小説は普通「本」という形をとって現われるし、音楽は「CD」という形を取って現われる。そういう物理的なものに限らず、たとえば「ある特殊な感情」というコンテンツが「ある小説」というものの中で現れる、ということもある。

コンテンツとは、もともと「中身」という意味だ。だから、それは常に「それを入れて運ぶ入れ物」が必要だということになる。皿がなければ料理にならない、というような意味である。その「入れて運ぶもの」を英語で言えば、「コンテナ」ということになる。コンテンツはコンテナの中身であり、コンテナはコンテンツの容器である。そう考えると、とても分かりやすくなってくる。

また、たとえば衣服はそれ自体がコンテンツであり、楽しみを提供してくれる。しかし同時に、自分の身体を保持する入れ物、コンテナでもある。

当然のことだが、ニコニコ動画もそれ自体が楽しみの源泉になるコンテンツでもあるが、様々な動画を入れるコンテナでもある。

自然も、われわれの存在すべてを包含するコンテナであるとともに、楽しみ、癒され、味わうコンテンツでもある。

そういう意味では、すべてのものがコンテンツであると同時に、コンテナでもあるということになる。

まあそういってしまうと少し先走るけれども、つまりはコンテンツはコンテンツだけで存在するわけではなく、コンテナはコンテナだけで存在しても意味がない。それが一体となった時に初めて意味も力も持つ。

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)
小林秀雄
新潮社

それが小林秀雄の名言、「美しい花がある、花の美しさというものはない」ということの真意なのではないか、と思った。

美しさがコンテンツであり、花がコンテナであるわけだが、それはそれぞれが独立して存在するということはないのだ。

しかし、ここまで不可分でない場合もある。

たとえば、小説とか文芸には色々な「ジャンル」があるが、この場合「ジャンル」がコンテナであり、「個々の作品」がコンテンツであるということになる。

作家はだいたいカテゴライズされてスタートする。怪奇作家だとか、ゴシックホラーだとか、ミステリーだとか、純文学だとか。それらのジャンルは無意味だと言われながら使われ続けているが、それはその「ジャンル」に従って生産や販売が行われているからだろう。

逆に言えば、受け取る側にとってみれば「コンテンツ」さえあればいいわけなのだけど、「ジャンル」は産業に従事する側にとっては重要なものになる。「ジャンル」つまりコンテナには、「人を養う力」があるのである。

そうした「コンテナ」にはお金とか関係性とか利便性とか取引性とか成長性とか教育性とかいろいろなものがくっついてくる。あるいは、ついてこないと「コンテナ」としての役割を果たせない。それは「プラットフォーム」とか「インフラストラクチャー」とか言い換えてもいい。

だから、経済人はコンテナの方に目を奪われすぎるし、クリエイターの側はそれを軽視してしまう傾向がある。

私自身、そういうことを意識すること、特に「ジャンルを選ぶこと」が苦手で、いつもあまりうまくいかない。しかし、そこのところが脆弱だと続けることができないのだ。

茶柱倶楽部 1 (芳文社コミックス)
青木幸子
芳文社

これは以前も書いた、青木幸子『茶柱倶楽部』に出てきた言葉を自分なりにまとめた言葉だけど、「楽しいところに人は集まる。響くものがあれば続く」ということがある。

「楽しい」はコンテンツだが、「ところ」はコンテナだ。「響くもの」はそこで得られる何かだろう。楽しさだけでなく、お金とか、納得とか、期待とか、癒しとか、さまざまなもの。

楽しさも、その場所も、響くものも、生きるためには大事なものだ。コンテンツに関わって生きていくためには、というかすべてのものをコンテンツと考えるならそれから逃れることはできないのだが、その一つ一つをちゃんと意識していきたい。

伝えたいコンテンツがあるなら、どういうコンテナが必要か、考え、選び、つくりだしていく必要があるのだ。


【コンテンツ系男子:コンテンツ愛とコンテナ愛】

実際のところ、私はコンテンツが大好きだ。昨日の映画についてのツイートを振り返っていて、本当にそうだなと思った。もちろんあれはうまく短く説明が思いついたものだけで、見ているのに言及していないものはたくさんあるのだけど、思い出せば出すほどヴィヴィッドにいろいろな作品が思い起こされてくる。

だからそうだよなあ、私は「コンテンツ系男子」なんだよなあ、と思う。世の中には勉強法系男子もいれば、武術系男子もいるし、またコンテンツ系女子だっているけれども、そのどれでもなく、コンテンツ系男子なんだよなあと思う。

わかった。私はコンテンツ系男子なのだ。そして、そのコンテンツを入れるのにふさわしいコンテナを求めて、ずっと彷徨ってきたのだ。職業もうまく決められないし、取り組むジャンルも決められないし、書く文章の方向性もなかなか決められないし、それでいて書きたいこと、言いたいこと、思いばかりがどんどん溢れてくる。まさに思いあまりて言葉足らず、である。良く言い過ぎであるが。

コンテンツ系と言っても、オタクとは違う気がする。おたくは一つんジャンルを偏愛するが、私は一つのジャンルに絞れないところが問題なのだ。だからと言ってマルチな才能を持った天才というわけでもない。私は高校生の頃ダヴィンチになりたかったのだが、とてもそんなわけにはいかなかった。ダヴィンチや平賀源内みたいな万能の天才ではなく、ただ「いろいろなことが好き」なだけなのだ。

だから私の言う「コンテンツ系男子」とは、マルチなおたくというか、「いろいろなものが好き」、「好きなものが多い」人なのだ。

私は、たとえば「街歩き」が好きだ。「鉄道」も好きだし、「マンガ」も好きだ。「本」自体が好きだし、身の回りの小道具も好きだし、洋服も好きだ。食べることへの関心がそんなに強いとは言えないけど、好みに合う美味しいものは好きだ。気持ちのいい喫茶店も好きだし、気分のいい道を歩いたり車で走ったりするのも好きだ。都心を歩くのも好きだし、田舎道も好きだ。掃除をしたり服をたたんだりするのも嫌いじゃない。そんなふうに、コンテンツと言い得る多くのものが、私は好きだ。吸収するのも、今書いているように表現するのも。

しかし、それを入れるコンテナが好きかというと、どうもそうでもないことが多い。つまり、コンテンツ愛は強いけれども、コンテナ愛が薄いのだ。

しかし、小説が好きだという人は、個々の作品もそうだけど、小説というコンテナ自体を愛しているように見える。作家の話を聞いても、小説というジャンルを強く愛している人が多い。そういうのを読むと、ちょっと引いてしまう。それに没頭出来て羨ましいとは思うのだが。

しかし、前にも書いたように、コンテンツは単独で存在できるわけではないのだから、コンテナについてもっと知ることによって理解していかなければいけないと思う。

作り手になると、コンテンツを読むときにつくることが優先して考えられてしまって、純粋に楽しむことができないという人がいて、私は純粋に楽しんでいてそれはその方が幸せだとは思ったが、しかしそうなると作るというときにハードルができることも確かだ。

たとえば自分の部屋をつくるときに、楽しさと機能性と両方必要なわけだ。コンテンツとコンテナの両面がうまく組み合わせられないと、楽しさも十分発揮できないし、使いやすい家にもならない。

まあそんなことを考えながら、このコンテンツ愛を入れるためにはどんなコンテナがふさわしいのか、やってみて行こうと思う。

私はブログやツイッターで映画とか本とかいろいろなものを紹介し、感想を書いていくわけだけど、なんで紹介するかと言えば、それを広めたいとかなんとかいうより、同じものを面白がってくれる人、できればそれについて語り合える人が一人でも増えてくれるとうれしい、という単純なことなんだなと思う。

そんなわけでコンテンツ愛を表現できる表現の仕方を見つけていきたいと思う。


【理想のコンテンツ系男子】

菊燈台 ホラー・ドラコニア少女小説集成 (平凡社ライブラリー)
平凡社

理想のコンテンツ系男子は、澁澤龍彦だと思った。彼はヨーロッパのいろいろな文学を紹介し、四谷シモンや金子国義を見出し、そういう文化を日本に普及させる役というところがあったけど、後年にはむしろ自分が実作でコンテンツをつくる方向が強くなって、「菊燈台」とか『高丘親王航海記』を書いたりした。

澁澤がやったことは、人間の神話性・怪物性を劈いていくことだったと思うけど、彼の超ジャンル的な活躍は、やはりコンテナよりもそのコンテンツそのものに心魅かれつづけたのだと思う。彼は、ヨーロッパの文物の輸入を欲する日本の後進性みたいなものをうまく利用して名を成すことができたと思うのだけど、自分はどういうところに活路を見出していけばいいのかなと思っている。

今日、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのルー・リードの訃報に接してみると、先日書いた68年世代とどう向き合うのかというのが一つのテーマとしてはあるなと思う。映画も『旅の重さ』『愛の嵐』『田園に死す』あたりが自分を大きく動かしたコンテンツではあったのだし。

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by Luke Peterson

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