自分がどういう人間か探ってみたら、生きてるだけでありがたいということが分かってきた
Posted at 13/10/16 PermaLink» Tweet
【固着した感情を明らかにする】
台風がやってきて去って行った。気温が下がって、かなり着る物の調整が難しくなってきた。まだ冬支度には早いが、早い秋の支度ではもう寒くなってきている。ウールとコットンの境目。午前中はウール、午後からコットンという感じ。
自分はどう言うところがあるのか、というテーマについて深めてみる。世界はどう言うものと認識しているか、ということについても。
考えたことを整理しながら書いていたら、かなり長大になってしまった。エントリを分けることも考えたが、とりあえずひとつのままアップすることにした。
朝起きるころ、私はわりとネガティブな考えに包まれていることが多いのだが、起きて活動をはじめるとわりとすぐに前向きになる。その暗さを抑え込む前向きさというのはまあ習慣の力で身につけているわけだ。
しかしネガティブな部分というのは抑えていればなくなるというものではないから、それがどういう姿をしているのかということは自分で知っておいた方がいい。そういう部分は疲れているときとか物事が自分の思い通りにいかないときなどに顔を出すから、自覚的でないと変なときに爆発したりするし、あとで書くようにそれはマイナスなだけではないからだ。
もともと、私も何度か書いてる『ずっとやりたかったことを、やりなさい』の勧めているモーニングページという方法には、このネガティブな部分の自分、隠されがちな自分を表に出す、というところに本当の意味がある、と思う。ここのところが難しく、隠されがちな自分というより、無理にネガティブに擬態した自分を書こうとしたりするとわけがわからなくなってしまう。
人は生きようとするとやはり前向きの姿勢になるし、それはいいことだし必要なことなのだけど、だけどその裏にはやはりどうしても後ろ向きな部分があって、それを表に出すことで自分を見つけ、創作の種を拾うことが出来るということなのだ。
どんなネガティブな面があるかを次々に書き連ねて見るうちに、私は物語や小説を書くことや、マンガやセンスのいいものが好きなことなど、アート周辺に隠された細かい感情の襞のようなものがあるということに気づいた。その辺は自分の好きなこととか、好みとか、誇りとか、ひるみとか、コンプレックスとか、思いこみとか、断定とか、そういうさまざまなものが集合しているのだ。
なるほど、そういう「固着した感情」みたいなものを明らかにして行くことがまず大事なんだだな、と思う。
ということに気づいてみると、それは『ずっとやりたかったことを、やりなさい』のレッスンの中にあることだということに気づく。6年前は本に書かれた通りに明らかにしようとしていたこと、でもなんだか取り組む意味を見いだせないでいたことが、いま自発的にやることが出来る、というふうになっているのだ。
『ずっとやりたかったことを、やりなさい』、原題「The Artist's way」はよく出来た本なのだが、そういう内容を人に指示されてやる、セッションを受けるというのはどうも私には苦手で、とにかく自分で何とかしたいと思う。「人から言われてやる」というのは、「本に書かれたようにやる」ということも含めて、自分のペースで自分が出しきれるようにやるということが出来ないのだ。そこでうまく乗れなくなって気持ちがついて行かず、正直になりきれない。だから、自分でこのように気がついて行くことが出来るようになるまで、なかなか難しいんだなと思う。
それが出来るようになったのは、つまり自分が自分自身を客観的に見ることが面白くなったからだと思う。自分が客観的に見られるようになったら、自分のネガティブな面も面白いというか、ネガティブな面が出てきたこと、それを見つけ出せた、発見できたことを喜ぶ(こともできる)ようになって来る。
野口整体では風邪をひいたり下痢をしたりすると身体の持つ本来の回復機能がちゃんと働いたと喜ぶのだけど、ネガティブな面に気づくことも心の健康を回復する、あるいは維持する過程なんだという感じがする。
「アーチストウェイ」ではそういうネガティブな自分を見て耐えられなくならないように、ポジティブな自分を強化し、またガードすることを優先していて、その辺の仕組みがややこしい。この辺は本来、コンプレックスのツボが一人一人違うのだから標準化したレッスンはけっこう無理があると思うのだけど、本であれば一通り標準的なやり方をやるしかないということもあり、さまざまな方法が示されている。
ただその中には劇薬的なものもあるので、自分一人でやろうとするとどうしてもブレーキがかかるものもある。自分で自分のことをちゃんと理解し、調整し、発見の喜びを感じながら前に進むことが出来ればそれに越したことはないわけだ。
とにかく本に書かれ得いる通りにやろうとすると、どこかで無理な解釈をしたりして、時に不自然な自己肯定によってポジティブな自分をガードしようとしたりしてしまうこともある。
でも本当に大事なのは、見せかけのポジティブさで自分を保つことではなく、生きているからにはすべての人が持っているはずの根元的な自然な自己肯定感をしっかり解放しておくということなのだ。
【自分の持つ「心の力」を信頼する】
言い換えれば、自分の持つ「心の力」を信頼するということだ。自分自身を信頼しろ、とよく言うけれども、いったい何を信頼すればいいのかと思うが、自分がくよくよ悩んだり無神経に熟睡したりするそのおおもとの心自身を信頼する、大丈夫だ、と思うことが大事なのだと思う。
身体を信じて身体の自然に任せれば身体は自分の力で自然の力を保ち、自己破壊も自己修復も成長も老衰も自然に行われて行く、というのが野口整体の考え方なわけだけど、同じように自分の心を信頼するということで悩んだりくよくよしたりマイナスにふれ過ぎても自然に元に戻ったり、喜び過ぎて少し変になったりプラスの方に振れ過ぎても元に戻ることができる、普通に明るい、根源的な自己肯定感に戻ることが出来る、という信頼を持つことが大事なのだと思う。
病というのは身体がある状態に固着して動かなくなってしまうことだし、それは心についてもそうだろう。心も身体も、自然に動き、少し無理をしても自然に回復する状態がベストなのだと思う。
身体の方では、野口整体の活元運動というのは健康体操みたいに思われてるけどそんな単純なものでもなく、やっているうちに身体の不都合なところがけっこう分かってくるもので、しっかり活元運動が出れば治るはずだとは言え、自分でさまざまな行法をして直すこともよくある。ただ活元運動の意味は、そうやって常に良くも悪くも自分の身体の本当の状態がわかることにあるのだと思う。
身体はいろいろ見えるし感覚も多様だからそういうところを確認していくのもしやすいが、心に関してそれをして行くのにはモーニングページというのはわりといい方法だと思う。起き抜けで心がまだニュートラルに近いうちに自分の心の問題点とか本当の状態を言葉にして行く。日常的な前向きさが介入する前のその状態の中に、問題点も見つかれば普段なら日常に隠れて見失ってしまうようなキラキラするアイディアが見つかったりする。
私はもう6年もやっているのだけど、私は本当にそういう日常性が強い人間だなとこの頃よく思う。モーニングページにさえネガティブなことが書きにくいという傾向がずっとあった。人に見せるものではないので遠慮せずに書けばいいのだが、なかなか書けないところがあった。
しかし思い切り人の悪口を書いたり、自分の表に出せない欲望みたいなものを書いたりしていると、だんだん自由にそういうことも書けるようになって来る。その辺の自分の解放ということに関しては、本当に時間がかかったなと思う。
泣きごとでも何でも、本当に自分に正直に書くとどうなるか、ということを、自分に嘘のないように書いていくことが大事なのだ。
まあつまり、私がそれをしにくかったのは、私は表面上はともかく、内面は実はすごく激しいところがある人間だということで、しかもそれがなかなか認められなかったということなのだ。このことはまた改めて書きたい。
【自分を肯定するという決意】
自分を信頼するということは、自分のもともとの心の力を肯定するということであり、自分のあるいてきた道、選択してきたことを肯定するということでもある。どんなにひどく見える選択も、自分がしてきたことには違いない。なかったことには出来ないし、それを受け入れ、それを肯定することを選択することなのだと思う。なぜなら、いまの自分はその選択の結果なのだ。その選択を肯定できなければ、今の自分も否定することになってしまう。
しかしそれは大変なことかもしれない。自分が考えてもものすごく悪いことをしてしまったということだって人間にはあるからだ。あるいはそれを避けるために、必死で自分を肯定する理屈を探したり、何かにすがってみたりすることだってあるだろう。精神衛生上、そうするしかないという状況にある場合も決して珍しくはないと思う。
だから自分を肯定するということはひとつの決意なのだろう。それはある意味、自分の抱えている無数の後悔と、いずれは向きあうということでもあるからだ。しかし、まず自分を肯定するという決意をすることが、重要なことなのだと思う。
【後悔という財産】
私自身のことを考えると、自分は凄く後悔にとらわれがちな人間だと思う。でもそれにとらわれてしまうということが、意味のないことだということは理解している。数えきれない後悔が自分の中で眠っているが、それらはまだ今の自分には解決できない課題なのだ。それらは力がついてくれば解決することもあるかもしれないし、ずっと解決できないかもしれない。
結局この「後悔」というものが、「固着した感情」の正体なのだろう。この場合の後悔はだから少し広い概念になるのだけれども、認識の間違いへの不安とかそういうものも含むと考えたい。
後悔というのはネガティブな感情の典型みたいに思われているけれども、しかしそれを「まだ解決されていない課題」なのだととらえると、たくさん後悔を持っているということは、それだけ自分を成長させる可能性をもっているということが出来る。
つまり、ネガティブな面が、できないことがあるからこそ、あるいはあればあるほど、それをどこかで人は認識しているから、成長することが出来るのだ。
そう考えると、ネガティブはすべてポジティブに転換できることになる。
しかし、ネガティブな思いというのはそう簡単に扱えるというわけではない。そういう思いは強烈な否定的エネルギーを持っているから、それを上手に管理することが大事だということになって来る。
私の場合は結局、後悔という「未解決問題リスト」の中にとりあえずペンディングという形で冷温停止状態にしておいて、ときどき引っ張り出しては眺め、解決しそうだったら取り組んでみる、という感じにしてある。基本的には考えない、ということなのだが、わりと自然に生きていると沸騰も起こりにくくなるので、結局は自然に生きようとすることが第一なのかなと思う。
【成長と自意識】
自分にやりたいことに素直に取り組んでいくことが結局は一番自分を成長させることなのだと、今では素直に思うのだけど、若いころはなかなかそれだけでは行かなかった。自分の中身は自分のありたい姿には全然追い付かないからだ。だからどうしても、自分を大きく優れたものに見せようとする。そして、そういうふうに見栄を張ることで成長する、という面も確かにある。
しかし見栄を張るときも、それが本当の自分ではなく虚勢なのだ、ということを自覚しておいた方がいい。虚勢を張って努力して、それに中身を追いつかせるための方便なのだということを理解しておくことは大事なことだ。
しかし、それが分からなくなって、自分も周りも騙してしまう、嘘をついてしまうということになることがある。特に、自分のことがよくわかっていない場合は、自分が本当にそれだけ大きいのではないかという気がしてしまって、自ら騙されようという方向に心が動いたりする。
正直、そういうことは私にも経験がある、というかけっこう長い間そういう状態だったと思うし、そうなると自分のことが本当に分からなくなる。自分というものを客観的に見るというよりも、自意識が先に自分という人間はこういう人間だと規定してしまって、規定された自分を自分だと勘違いしてしまう。そういう自分は幻影に過ぎないわけで、その幻影に問いかけても決して答えが返ってくることはない。今考えると私は、ずいぶん長い間そういう幻影をつかまえようと四苦八苦していたように思われる。
そういうふうになってしまう原因は、もともとは小さな見栄だったり、小さな虚勢だったりするのだが、それがあとに引き返せなくなってしまって一人歩きし、本当の自分の現れる余地をなくしてしまう。
気がついたときには、何もない。何も残っていない。誰もいない。実感が感じられない。もし本当に力になってくれる人がそばに居ても、そのこと自体が分からない。つまり、病んだ状態になっている。
私の場合はそれから脱するために、それまで10年以上も積み上げてきたことを全部投げ出す形でニュートラルに戻すことになったし、そのあとも本当の自分に気がつくというより幻影の断片を自分だと思って追いかけていた時間の方が長かった気がする。でもようやくそういうこと自体にも気がついたし、そういうことがあったから気がつけたこともあったのだと思う。
【同調圧力とそれを破る自立心の種】
人の目にこだわるということは、結局自分がこうだからこうしなければいけないというようなある種の偏見や思い込みにこだわっているということでもある。
そういう心性が同調圧力を生む母体になっているわけだけど、子どもの頃から「みんなそう言ってる」「みんなそうやってる」という理屈で動くことに慣れてしまうと、そういう同調圧力の壁を破れなくなってしまうのだと思う。
私の場合は、そういう部分ももちろんあるのだけど、「自分のしたいことは人のしたいことと違う」という思いが子どもの頃からあったから、正直にそういうものを出すとすぐ叩かれたり、からかわれたりする対象になりやすかった。だから「せめてあまり目立たないようにしたい」という思いから、回りと同じ色に染まりたい、という傾向があったなあと思う。
しかしそれは考えてみると、「魔女狩り」を恐れる気持なのだ。つまり、いじめの磁場の心性に凄く近いのだということに書いていて気がついた。その「恐れ」を見抜く意地の悪い子どもがいたら、それはもっと明確な攻撃となり、いわゆるいじめになっただろう。私には幸い、そこまでのことは起こらなかった。
しかし、私がそういう目に遭わなかったのは、一つの理由があったのかもしれない。私は、回りに合わせようとはしていたが、合わせている時には常に不機嫌だった、と今にして思う。いやいや合わせているということが常に一目瞭然だったと思うし、いやだということを今考えてみるとわりと率直に言っていた。だから考えてみるとけっこう喧嘩もした。まあ勝負として勝つということはあまりなかったけど。まあそういう人間には、あまり人は近付かない。いじめるというよりは、関わりたくないと思われていたのだろうと思う。(これは今書いていて思ったが、ある意味『進撃の巨人』のエレンに似ている。私にはミカサもアルミンもいなかったが)まあ一時的に登校拒否もやっているし、中学時代は本当にいやな時代だったとずっと思っていたけれども、考えてみれば本当に回りにとっては面倒くさい奴だったんだなと思う。3年間我慢して、必要以上に回りに染まらずに切り抜けたのだから考えてみたらすごいことだ。
私は弱い人間だとずっと思ってきたのだけど、考えてみれば「私はそれを望まない」ということを常に態度で表わしてきたのだから、そういう意味ではずいぶん強い、回りから扱いにくい人間だっただろう。それが消極的抵抗に過ぎなかったから、自分は弱いなあといつも思っていたのだけど、不機嫌な態度というのは考えてみれば立派な自立心の種なのだなと思う。まわりから見れば面倒くさいけれども、それを解放し、もっとポジティブな自己確立に向かえば、回りも明確にそういう人間だと意識するようになるから、回りも認めるしかなくなり、面倒も少なくなる。
【悪意と敵意と殺意と攻撃心】
しかし、そういうものに対して、明確な悪意を持つ人間を除いては、という話だ。
私はこの、「明確な悪意を持つ人間」というものに対する警戒心とか恐怖心というものをかなり強く持っている。それがなぜなのかということを考えてみるのだけど、小さいころのトラウマというものもあるのかもしれないが、成長の過程の中でそういう人間にぶつかって、うまく対処できないで来た、ということがあるのだろうと思う。
そしてもうひとつは、自分の中にもそういう明確な悪意とか、敵意とか、殺意とか、攻撃心のようなものがあるからなんだろうと思う。『進撃の巨人』もそうだが、『山月記』とか、そういう自分の中に猛獣を飼ってる感じの物語に共感するのは、そういうところがあるからだろうと思う。
恐怖心があるから殺意があるのか、殺意があるから恐怖心があるのか。
しかしこれも考えようによっては、ポジティブにもとらえられる。
恐怖心というのは大きな壁、大きな敵のようなものだ。そういう壁、そういう敵があるからこそ、「殺意」という「全力でそれを倒そう」という意志が、気違いじみたスーパーパワーが引き出せるのだ、ともいえる。だからこういう攻撃心とか敵意のようなものも、一概に否定すべきではないのだと思う。その表現の仕方に問題はあるのだが。
どうしてもそれに勝ちたい、敵を倒したい、という気持ちは大事なのだと思う。しかし気持ちだけでは勝てないこともまた事実であり、だからこそ「敵を知り己を知り地の利を知り時の運を知れば百戦危うからず」という言葉が重要になって来る。
相手の強みと弱点を知り、自分の弱さと強さを知り、適切な状況判断が出来れば、勝てると判断して起こした戦いは必ず勝つことが出来るだろう。君子は争わず、しかし戦えば必ず勝つという。争わないから勝てるのではなく、勝てるから争わないのだ。
つまり私がしてきた数々の失敗は、結局何かの判断に不適切なところがあったからなのだ、と思う。
【己を知ることの難しさと生きてることの有り難さ】
結局、一番判断に問題があったのは、自分自身がそういう攻撃的な部分が強くある人間だということをきちんと自覚できていなかったということで、そういう人間でありながら、保守的で楽な仕事を選ぼうとする傾向があったということだと思う。これは本当に自分のことが分かっていなかったと思う。そう性向を見極めたうえで、自分のしたいことは何か、自分の出来ることは何か、と考えられたらよかったのにと思う。
しかし、私という人間は本当に能力的な面でアンバランスな人間だと思う。つまり、いろいろな意味で鍛えられていない。出来ることと出来ないことの差が大きく、出来るはずなのに出来なくてプライドが邪魔してそれを表に出せないこととか、わけがわかってないのになぜか出来てしまうこととか、そういうものがアンバランスに同居していて、本当に自分でもよくわからない、把握しにくい人間なのだ。
だから、私の人生、でかい失敗がいくつもあったけれども、たぶん何をどうやっても、どんなに上手く振る舞っても、一度や二度は大失敗をしていたに違いないと思う。
そう思うと、とりあえず今こうやって生きているというだけで、儲けものなんだなと思う。生きてるということ自体が、本当にありがたいことなのだ。
というわけで、自分は本当に生きてるだけでありがたいというところがある人間なんだなということがわかったわけだ。有り難いことだ。
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