サブカル的神秘主義論/宇宙論と生命論

Posted at 13/10/11

【サブカル的神秘主義論】

昨日書いた神秘主義についてもう少し考えてみる。

私は、神秘主義というか非合理的なさまざまな話の中でも、まあ最初からインチキだろうとしか思えないものを除いても、面白いと思うものと面白いと思わないものがある、と思った。

どう言うものが面白いかというと、どちらかというと土俗的なもの、個別性のあるもの、キッチュなもの、かわいげのあるものというか、何と言うか追いかけたくなるもので、面白くないのは抽象的・理念的・空想的・SF的なものだと思った。

と、ここまで書いて、あれ?と思う。なぜだろう。私は昔はSFがすごく好きで、SF系の話で神秘的なのはけっこう好きだった。いつからそういうものがあまり好きではなくなったんだろうと考えてみて、その分かれ道がどこにあったのだろうかと思った。私はどこかで、SF的なものでなく土俗的なものを、天文(宇宙の歴史)ではなく(人間の)歴史を選択したのだと

私たちにとって、宇宙というのは故郷かもしれない。まあ科学的に言っても、生命体が地球上で誕生したのか何らかの理由で地球外からもたらされたのかはまだ結論が出ていないけれども、そういう合理的な考え方でなくても、満天の星空を眺めて何か郷愁のようなものを持つことはある。あるいは、それを想像してみると。しかし私たちはそこからやってきたにしても、今この星、つまり地球にいる。そのことを重視したい、という感じなのだろうか。

そんなことを考えているうちに、自分の中でSF的な回路もつながってきた。そういう方向から、神秘主義の中の抽象論的なものも見直してみたらいいのかもしれないと思った。

私は、どこかで土俗的なもの、それはつまり自分の中では諸星大二郎的なものと言い換えてもいいのだが、そういう言わば生命の世界に目覚めた時があって、そこにつながる前はより根本的な宇宙感覚みたいなものにつながっていたのではないかと思った。生命より前に宇宙があったのだ、と思った。

それはまあそんな面倒な話ではなくて、私は小学校1年の時にアポロ11号が月に着陸していて、少年はみんな宇宙飛行士になりたかった、というような話なのだ。私は落書きと言えばロケットと星ばかり、火星の運河の絵とかローウェルが描いたような火星人はいないらしいよとかそういうことが好きで、惑星の名前と距離はもちろん、星座や星の名前を覚えるのが好きだったし、実際に空を見ながら星座の名前を言うことで女の子たちと話が出来た、みたいな少年だった。当然関心は宇宙とか天文とかにかなり傾いていたのだ。

それとともに、宇宙と生命とどちらが先か、という命題がある。これはどちらかというと抽象思考の問題なのだが。

私は宇宙というものと生命というものは、もちろん科学的には違うものであるけれども、イメージとして生命というものが宇宙そのものだという考え方が出来るのではないかと思っていた。それは神道的な考え方というか、『古事記』の最初に「天地初めて発けし時、高天原になりませる神の御名は…」という件に現れる、生命ないし存在というものが誰か(たとえば神)の命令によって現れたのではなく、自ら自然に発生した、という生命論的な考え方が好きだなと思っていた。

しかしむしろ、そうではなくて生命が現れる前から宇宙というものがあり、そこに既にあったものがたとえば天使だとか言われる存在だと考えることもできるなと思ったわけだ。

つまりキリスト教のように神は超時間的に存在し、「光りあれ」と言ったら光が現れる、みたいな存在で、宇宙全体を見ているものの存在があると。

しかしそういう考えが発生したことを人間の側から考えてみると、個人の自我意識とそれを止揚した主体としての生命意識みたいなものがあり、しかし自我意識があるということは自分も他から見られる存在だということを意識するわけだから、自分を客体として見る存在(宇宙意識)が想定されたのではないかと考えることが出来る。まあちゃんと勉強していないから研究史的にはどこまで妥当かは言えないが、そういう生命意識がウパニシャッドで言うアートマンであり、宇宙意識がブラフマンであると言えるのではないかと思った。

そしてその宇宙意識という概念が出来て来ると、そちらが主体であるという考え方が強くなって来る。この辺は唯名論から実体論へという話にもなるが、そうなると宇宙はきれいな秩序の中にあることになり、美しいが変化のない調和した世界になってしまう。それはまさに(いわゆる)西洋中世的なコスモロジーであり、この世で現に不幸なものは神の信仰にすがる以外には絶望しかないということになる。

それを転倒し、人間の側からの思考に戻し、不幸意識のもとになる個人の自我意識について考察を加え、それは空である、と喝破したのが仏教ということになるのだろう。大乗仏教についてはまたコスモロジーが支配的になって行くけれども、原始仏教は生命論の側に思想を取り戻した宗教革命であったのだろうと思う。

まあそれはともかく、宇宙論の世界について、自分のイメージするものを並べてみると、少年チャンピオンであったと思うが連載されていた光瀬龍原作・萩尾望都作画の『百億の昼と千億の夜』の兜率天のイメージ、ギュスターブ・ドレの描くダンテの『神曲』の世界、永井豪『デビルマン』の最終コマのイメージ、というものだなあと思う。

宇宙には、多くの光るものがあって、その光によって弱く照らされているというイメージだ。あの光はハイヤーセルフとか天使とかというものなのではないかと思うし、仏教的に言えば諸天諸仏、つまり曼陀羅のイメージということになる。胎蔵界曼荼羅や金剛界曼荼羅の諸仏が宇宙大に配置され、それぞれが光を発している。それは仏の姿に描かれているが、もともとは単なる光なのかもしれない。仏がさまざまな功徳を持っているように、その光が天使であるとするならば、その天使たちもそれぞれ人間を救済する手段を持っている。そんなイメージが浮かんできた。

そんな私の中で宇宙論を代表する存在が星野之宣の描く世界であり、生命論を代表するのが諸星大二郎の描く世界なのだ。この二人は同じ時期、私の小学生時代に少年ジャンプの『手塚賞』から現れたマンガ家なのだが、星野がシャープな線と達者な描写で審査員を驚かせる存在である一方で、諸星はもっさりした独特の線ながらその描きだす世界の深さに圧倒される、そういう作家だった。二人はお互いに(とくに星野が諸星によって)影響し、されあった存在で、二人とも宇宙もの・SFものも描けば考古学・民族学的なものも描いていたので、どちらとは単純に言い切れるものではないのだけど、そのシャープなイラストレーション的な描写で私の中では星野が宇宙的なイメージがあり、鳥獣戯画の流れを引くような描線で描かれた諸星の作品が生命論的なものととらえられているのはまあ必然的な帰結ではないかと思う。

彼らが出てきて活躍した70年代末から80年代のマンガのサブカル的な意味での黄金時代の中で、私は諸星大二郎の生命論的な世界に耽溺することを選んだ。それが人生を決定したのかもしれないと思う。

まあそれだけ、諸星の方が確信的に自分の作品を書いていて、その強さに魅かれたという面はあるんじゃないかとは思うが。


【宇宙論と生命論】

宇宙論的な力と生命論的な力、ということで考えていくと、気功やヨガで語られる「気」というものは生命論的な力、と考えていいと思う。そういうふうに考えると、宋学で言う理気二元論の「理」の方は、宇宙論的な力、と考えてもいいように思った。ゾロアスター教で言うアフラ・マズダとアーりマンも善悪二元論になってしまっているが、もともとはそういうものなのではないかとも思う。

集合としてはアートマンであるわれわれ生命が、対話相手として想定したのがブラフマンであるとすると、つまり対話相手としての神、というものが想定される。確かに、いろいろな宗教や神話で、神は実体はよくわからないが、対話相手ではある。もともと、そういう対話相手であることが重要なのかもしれない。

生命より以前に宇宙があった、ということになると、思い出すのは『荘子』に出て来る「混沌」という存在だ。これは諸星大二郎の『無面目』という作品が荘子のこのくだりを元ネタに描かれていてその中に出て来る話なのだが、混沌はもともと宇宙の純粋な「知」の一部であった、ということになっている。宇宙のすべての知が記録されているアカシックレコードというものがあるという考え方があるのだが、混沌という存在はそれを思い起こさせる。

今まで書いたことを整理すると、宇宙とは純粋な知(混沌・アカシックレコード)を属性として持ち、光(天使・諸仏・曼陀羅)であり、意思(ハイヤーセルフ、ブラフマン、宇宙意志、神)である、ということになる。

それが意思=神であると見えるのは、対話相手としての必要性からであり、知であると見えるのは、人間がさまざまなことを知って行くことへの原初的な不安、無知への恐れと同時に反知性主義的な心性を持つことを反映していて、光であると見るのは人間が根本的に闇=死を恐れ、光=希望を求める存在であるからであろう。たぶん宇宙とはそういうものに限定される存在ではないのだが、人間が明確に必要としてきたのがそういうものであったということなのだと思う。

先の中世西欧の例と同じことなのだが、宇宙論(ないし静的秩序への好み)と生命論(ないし人間主義)は時代によって消長をくりかえして来ているように思う。

私自身は、いつか意識せずに生命論的なものを選択したのだと思うけれども、もともとは動物より植物に、植物より鉱物に惹かれるところがあるし、鳥と花と星だったら星の名前を最初に覚えた人間だから、生命論を選びはしたが、本当は宇宙の方が性質にはあっているのかもしれないと思う。

私が無意識に生命論的なものを選択したのは、たぶん時代がそうだったからなんじゃないかと思う。1950年代から60年代は宇宙論的なものが強く、68年革命から徐々に生命論的なものに転換していき、80年代は少なくとも私のまわりでは生命論的な好みが強かったように思う。しかしいつの頃からだろうか、やはり1995年の阪神大震災とオウム真理教事件がきっかけだった気がするが、そのあたりから生命論的な好みは後退し、宇宙論的なものの方が強くなってきた感じがする。私自身は何となく時代の雰囲気の中でおいて行かれているような部分を感じはするのだが、もう一度宇宙論的な方向にも目を向け直せば、生命論的なものを前提とした新たなコスモロジーを描き直すこともできるかもしれないと思う。

人間は秩序も必要とするけれども、意思も必要とする。『進撃の巨人』が感動するのは、圧倒的な秩序(人類は巨人に勝てない)の中で意思の力でそれを乗り越えていこうとする、そういう物語なのだからだと思う。宇宙論の時代の中での、もっとも強力な生命論なのだ。

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