昨日の夕方/吾妻ひでお『失踪日記2 アル中病棟』/高度成長期の夕陽:荒野を宝の山に変えるということ

Posted at 13/10/08

【昨日の夕方】

昨日は夕方出かけて、地元の文教堂で本を物色した後、東京駅丸の内口の丸善へ行く。しかし目当ての本がなく、さてどうしたものかと当惑する。神田に出ようかとも思ったが、かなり遅くなっていたのでとりあえず近いところで考えようと思い、先ずもう一つの用事であった靴を探しに八重洲口に出て大丸の7階に上る。ネットで調べたときには扱っているはずだったのだが、実際においてあるのはごくわずかで、これも手に入らず困ったなと思う。

先ずとりあえず近場から問題解決を図ろうと思い、グランルーフの前を通って八重洲南口まで歩いた。空はもう暮れかかり、駅前から発着する高速バスに乗る人の群れも少なくなっていた。「広島行きの新幹線の最終列車です」というアナウンスが聞こえる。もうそんな時間なのだ、とも思うがこれから出発して今日中に広島に行けるというのも考えてみたらすごいことだと思った。

八重洲ブックセンターに着いて、そういえば考えてみたらここはマンガは置かなかったんじゃなかったかとはたと当惑したが、フロアガイドを見たら地下に売り場ができていた。さてどうだろうと思って探すと、あった。


【吾妻ひでお『失踪日記2 アル中病棟』】

失踪日記2 アル中病棟
吾妻ひでお
イースト・プレス

吾妻ひでお『失踪日記2 アル中病棟』。『失踪日記』が出てからもう8年だが、ようやく予告されていたその続編、アル中病棟編が書かれたことになる。前作は鬱が酷くて家出して本当に失踪し、路上生活をしていた時期と、失踪したままガスの配管工になっていた時期の話、それからアル中で入院していた時期の話がそれぞれ描かれていて、すごい話が軽妙なタッチで描かれていて相変わらずの腕の冴えを感じたのだが、今回はアル中病棟に集中して書かれた335ページの大作。今130ページまで読んでいるが、何というか前回よりいろいろ盛り込まれている部分、描き込まれている部分が多く、その分重くなってはいる。ただそれゆえの自虐ギャグがさらに磨きがかかっていて、転んでもただでは起きないというか、転がりすぎて起きたところがどこだかわからないというか、ある意味人間性の極北を一般人にわかりやすく笑えるように説明するギャグマンガ家の業のようなものが更なる迫力を与えていると思った。

目的のものが手に入ったので少し元気が出て、東京駅の構内のブックエクスプレスのカフェでカレーを食べ、総武線で錦糸町に出る。錦糸町駅の一番亀戸よりに階段があって、あそこから出ればリヴィンが近いなと思ったのに、降りてみたら乗換階段だった。結局いつもの階段まで戻り、南口からリヴィンへ行った。

ここの2階にはハッシュパピーズが一定数置いてあるコーナーがあるので、自分の履いているものを見せて同じものを、と言ったらちょうどあった。値段も多分、同じくらい。
買えてよかった。南口の駅前で都バスに乗って帰った。なんだかとても疲れていて、早く休んだ。


【高度成長期の夕陽:荒野を宝の山に変えるということ】

高度成長期は三丁目の夕日的に今より幸せだったと思われているけど、いまより夜景はきれいだっただろうか、とグランルーフの2階から見た八重洲口の夜景を思い出して考えた。おとといの夜、そこで食事をしたとき、窓に面したカウンター席で私の隣に座った年配の婦人は白ワインを手元に夜景を眺めていて、反対側の席にはグラスビールを注文した若い女性が座っていた。高度成長期にそんなふうに普通の女性が一人で夜景を見ていただろうか、と思う。一人一人の生活、生き方はあの頃よりずっと自由になった。あのころの夜景はもっと、「コンクリートジャングル」というにふさわしい眺めだった気がする。

あれから40年以上かけて、日本はそんなふうに洗練されたのだ。その中で失われてしまったものもあることは確かだ。でもあのころの方が今より幸せだったというのは本当かどうかわからない。今、失われてしまったものは、あのころからすでに失われ始めていたと思うし、今ないことに注目が集まっているものは、あのころはもっと忘れられていた気がする。街はもっと美しくなったし、自然はより失われた。私の目に入っていない酷い風景は、もちろんいくらでもあるんだろう。

人間関係も、日本近代をがむしゃらに作ってきた明治生まれが姿を消して、古い規範はなくなり、昭和二ケタ以上の価値観が支配するようになった。

家庭が今どうなっているのか、私にはよくわからない。心の中に地獄を抱えている子供たちは、増えているのだろうか。自然という逃げ場を失ったことで、子どもたちは電脳空間に逃げ出しているのだろうか。本当のところは、私にはわからない。

人間の生きる環境が、より人工的に、より洗練されて、より優しさと暴力が紙一重のものになっているのは確かだろう。高度成長期の人たちの方がもっと無愛想だった。今の人たちのように如才なく接客できたわけではなかった。

人はずっと大人として、同じ場所に生きているわけではないから、この変化がいいことなのかどうかは、本当には分からない。ただ、あのころ少数派だった人たちの生き方は、あの頃より確実に生きやすくなってはいる。

そういう感じ方が、近代主義に毒されていることなのかどうか、私にはわからない。自分が自分らしく生きようと足掻いて、いま、ここにいる。日本も自分が自分らしくあろうと足掻いて、いまこうなっているのだろう。そのこと自体は肯定も否定もできない。ただ厳然とした事実があるだけだ。

世界は社会主義が崩壊し、資本主義が伝統社会に復讐を受け、日本では信じてきた近代科学技術に裏切られ、でも厳然として日本はあるし世界もある。社会主義も資本主義も科学技術も人間の自然に、伝統に、自然の自然に破られた。それぞれの近代は、一度敗れた。今、追求されているものは何だろう?伝統の復活か?近代の徹底か?第三の道か?

ただそれらが敵対するのではなく、協力し合えるような道筋を私たちは見出していくべきではないか。どの時代にも人間は住み、人間の幸福というものを、人間がより人間らしく生きるためにはどうしたらいいかを、追求してきた。今混在し、敵対しているかに見える、大きく分けて三つの流れは、もともとは一つだったはずなのだ。

世界が今より良くなる。人々がそう考えれば、どうよくなるのかはわからないし、悪くなるところだけが目立つこともあるかもしれない。『もののけ姫』のラストを絶望と感じる人もいるだろう。『マッドメン』のラストも。

一旦大自然が、伝統や近代に破れたように見えるが、そこには第三の道が提案されている。それはアシタカとサンの絆であり、コドワとナミコの夢だ。新たに生きようとする者たち自身の中に、第三の道はある。

自然も伝統も近代も、あるいは第三の道、オルタナティブも、いいも悪いもなく流れに身をゆだね、自ら生きようとすることなく流されるならば、この世は地獄なのだ。

流されることなく、自ら生きようという意志のみが、荒野を宝の山に変える。

生き方がよくわからないうちは闘わざるを得ない。敗れて傷つき、死んでしまうことだってある。敵は常に強大だ。でも私たちの壁外調査の要諦は、『進撃の巨人』の世界と同じく、「生きて帰ってくること」なのだ。荒れ地で生きるすべを身につけ、そして荒れ地でおもうように生きられるようになって、自分の生活基盤を築き、世界を自分の方向に向けられるようになって初めて、人は自由になる。

戦うもののたましいのみが美しいと小林よしのりは『ゴーマニズム宣言』で言ったが、自ら生きようとして生きるためには、戦わざるを得ないのだ。

柔軟な頭と発想力、溢れる肉体的エネルギーとを、思うように生きたいという根源的な欲を打を持って発揮すれば、いい。世界はそういうふうにしか生きられないし、そういうふうに生きることが前提となって、できている。

ほんとうに大事なのはそういう主体の確立なのだ。

わたしは伝統にも近代にもオルタナティブにも違和感を持っていると書いたが、むしろそれは当然なのだ。自分が自分らしく生きやすいようには、この世界はできていない。自分が自分らしく生きやすいように、居場所を確保し、世界を変え、それを受け継がせていかなければならない。子どもたちはそこではぐくまれ、生きる力を身につけ、そしてまた新しい世界をつくっていくだろう。そのようにして人間は世界をつくって来た。

大きな自然の中で、人間がどこまでそれができるのか、どこまで「許されている」のかはわからない。すでに限界を超えている部分があるのかもしれないし、もっと直接的に自然の神秘を直接的にとりいれ、新たな生命観に扉を開くべき時期に来ているのかもしれない。

わたしは自分の生きてきた道、自分たち人間の生きてきた道を振り返りながら、新しい世界の扉を開くための糧になる宝を作り出さなければならない。世の中に風穴を開けて新しい風を吹き込み、より爽やかに生きられる人たちが増えるように、世界を変えて行く。

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