自分を変えることと世界を変えること
Posted at 13/09/27 PermaLink» Tweet
【自分を変えることと世界を変えること】
子どもの頃から、いろいろなことを知りたい、いろいろなことが出来るようになりたいと思っていた。それはつまり、自分を変えたい、ということだ。自分を成長させて、いろいろなことを知っていて、いろいろなことが出来る、そういう人間になりたいと思っていた。
人の気持ちを分かったり、人の力になることをしてあげたり、そういうふうに出来るようになることもまた、自分を変えることだったし、人の中で印象に残ったり、人に好意を持たれたりするようになることもまた、自分を変えようとすることだった。
仕事について、働くのと引き換えに報酬を得る。そうやって自力で生活していけるようになることもまた、自分を変えることだった。人と深く付き合うことによって、自分以外の人間のことを知って行くこともまた、自分を変えることだったし、旅に出て普段では出来ない経験をすることもまた、自分を変えることだった。
世界を変えたいと思ったのは、いつからだろう。
世界に対する不満は、子どもの頃から持っていた。こうあるはずなのにこうなっていない、というようなことは。自分が世界の秘密を知らないだけなのかもしれないと思う部分もあった。それならば世界の秘密を知れば、納得できるはずだと。
自分の身の回りに理不尽はたくさんあったが、それはあるべきものがないだけ、実現すべきものが不十分で実現してないだけだと思っていた。
世界について、本当に疑問を持ったのは、中学生の時だった。
民主主義というものがなぜ正しいのか、どう考えても分からなかったからだ。
多数決で決めるのが正しいことだ、というようなことは、小学生の時に学級会で教えられるが、なぜ正しいのかは納得できなかった。だいたい小学生の時の学級会の決定など、決まるのは勢いであってみんなが面白がって手を上げる方が多数になる。そんなものが正しいなんて全然思えなかった。だから、中学校の公民で民主主義について学んだとき、それがなぜ正しいのかがわかると思ってとても楽しみにしていたのだ。
しかし分からなかった。
ロックとルソーの思想が説明され、社会契約という言葉は知ったし天賦人権説という考え方も知ったが、で?と思った。それ以上の説明はなかった。それは覚えるべきことで考えるべきことではなかったからだ。
私は本を読む子どもだったから、説明されていそうな本はわかる範囲でどれも読んでみたが、ちゃんとした説明はなかった。
自分で考えて、結論に至ったのは、いくつの時だったか分からない。ただ理解できたのは、民主主義というものは、一つの考え方であって、絶対的に正しいものではない、つまり「一つの考え方に過ぎない」ということだった。
そう考えていくと、その一つの考え方に過ぎないものを絶対的に正しいかのように考える体系自体に疑問を持つようになった。
つまり、「西欧近代社会」そのものに対してだ。
日本社会は、「民主主義」によって徹底的に規制されているわけではない、つまり民主主義の側から言えば「非民主的」な部分が多い国だから、逆に息が抜ける、息をつける部分があると思った。もちろんそのために理不尽なことが起こることもまたあるのだが。
しかし、それを絶対し、ないし神聖視しているように思える社会のあり方が、どうにも奇妙なものに思われた。
そう考えると妙なことはたくさんあった。例えば科学だ。
科学というものは、すべてのことがわかるわけではない。人間の認識や調査能力が、不完全であるからだ。そして、それが完全になることは、決してないだろう。だから、科学は原理的に常に不完全なものであると考えるのが妥当であるはずだ。そしてだからこそ、未知にチャレンジし、新しい発見をして行く可能性と喜びがあるはずだ。
しかし、科学に携わる人に、そうではなく、科学を絶対視し、完全なものとみなす傾向があることに気づいたとき、どうしようもない違和感を覚えた。たとえばいわゆる「トンデモ」批判だ。
もちろん、それらの中にはこじつけでばかげたものが多いのは承知しているが、「まだ分からないもの」について、端から否定しようとする傾向がある人が多いことに呆れてしまった。だからあるときから、科学というものは信用ならない、と思う部分が強くなってしまった。
科学や技術ですべてを割り切ることで自然を破壊して行くことに躊躇がないあり方にも不信を覚えたし、理論や理屈ですべてを割り切ってニュアンスを無視して行く考え方にも不信を覚えた。
もちろん、原発事故のケースを見ればわかるように、日本でのこうした事故に対する対処は十分に科学的なものだったとは言えず、科学的なマインドを持った人でさえ歯がゆい思いをした人は多かっただろう。日本ではあまりに科学や技術が政治に左右され過ぎる。つまり、科学技術というものが政治に対して十分な権威を獲得していないのだ。
もちろんこれはこれで問題がある。日本では「技術屋」や「英語屋」という言葉があるように、そういう特定の権能は常に「」に入れられ、政治に従属させられてしまう傾向があり、原発問題のような科学的な判断を最も重視しなければならないような状況が出現しても、十分に政治を従えさせられる力を持てないことは問題ではある。原発への不信はそういう政治への不信であるとともに、政治に従属させられて真実を語っていないと思われる科学のあり方への不信でもある。
しかし、いかに十分な科学的配慮が出来たところで、日本という地震や津波などの天災が避けられない国においては、想定外のことが起きることを無視できるはずがない。科学や技術に携わる人には、そういう謙虚さが欠けているし、おそらくは科学というもののあり方が、人間は不完全なものであり、その人間がやっている科学というものも不完全だという前提を軽視しているところがあるように思う。
それは本当には科学的な態度ではないはずなのだけど、科学を権威と認めさせようとするあまりなのか、その不完全さをも認めようとしないところにまた、不信感を持ってしまう。
三つ目はそれと関連するが、身体に対する考え方だ。やはり中学生のころ、私は野口整体の考え方に触れ、それまでの身体と健康に対する考え方と全く違う身体の見方が存在するということに鮮烈な衝撃を感じた。しかしそれでもそれ以降、身体の不調は近代医学で何とかしようとしていたのだけど、結局良くならないものを常に抱えることになった。実際に野口整体の操法を受けるようになったのは2001年以降だが、身体の不調に対する考え方がどんどん変わってきて、今では全く医者にかかる気がなくなっている。医学的な知見を無視するわけではないけれども、あまり合理的でないと感じることが多くなっている。
四つ目は、半ば政治的な問題だが、日本が強制的に開国させられ、その伝統文化の上に不自然に西洋近代文明を接ぎ木しなければならなかったという歴史的事実そのものだ。西欧近代文明の主張する普遍性をいかに受け入れ、いかに反駁して行くかということが日本近代の大きなテーマともなり、動揺をくりかえす原因ともなった。いくつかの揺れの中で、さらに日本は数度にわたり西欧ないしアメリカ文明の受け入れをつきつけられてきている。最大のものが敗戦によるGHQ支配だったが、その後も何度もグローバルスタンダードをつきつけられてきていることは言うまでもない。
五つ目はそれと表裏一体の問題だが、西欧近代教養を受け入れざるをえなくなっているということ。これはそれまで、日本の学問というものの足腰が弱かったこととも関係している。江戸時代までの学問は、完全に政治に逆らうことは許されなかった。ヨーロッパでは宗教との対立の中で学問が形成されて行ったが、日本では政治がより強い足枷になっていた。明治以降むしろ学問が自由になるために西欧近代の学問の方法論が積極的に取り入れられて行ったが、その中で良く言えば折衷され、悪く言えば不完全な学問が日本的なものとして形成されてきた。
したがって、日本の学問は最初から不合理なものを内包しているところがある。それは接ぎ木文化であるがゆえの宿命的なものはあるのだと思う。
結局、そういうさまざまな不満を私は持っていて、それに対して戦わなければならないという意識を、西欧近代のスタンダードに風穴を開けて風通しを良くして行かなければならないという意識を私は持っているのだということを思い出した。
2007年ごろまではそういう意識が強くあったのだけど、自分の中での行き詰まりみたいなものが大きくなって苦しんでいた。その後また、自分自身を変えることに力を入れながらやってきたのだけど、何のためにそういうことをしているのかを見失っていた。
私はこの世界に風穴を開けたいと思っていて、そのために自分の力を高めようと思っていたのだ。
それを思い出した。
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