コスモスと林檎ミントと胡桃の実/南場智子『不格好経営』:自分の人生の経営者であるということ

Posted at 13/09/13

【コスモスと林檎ミントと胡桃の実】

また夏が帰って来たような暑さ。でもコスモスは満開で、今まで日陰に生えていて花がついていなかった個体も一輪花をつけていた。日陰だから大丈夫かなと思いつつ刈り取らずに残しておいたそんな個体から花が咲くと、残しておいて良かったなあと思う。数年前に亡くなった親戚のおばさんがコスモスが好きで、いつも草取りをしたり部屋のまわりを整えたりしていたことを思い出す。あのおばさんのお葬式も、すごく気持ちのいいものだった。それからコスモスの花を見るとそのおばさんを思い出すのだが、あの人がそうしたようにきれいにコスモスを咲かせたいと思っていてもなかなかそうはならなかったのだけど、今年は少しはきれいに咲いたかなと思う。コスモスが終われば花の季節も終わって、やがて秋から冬へと移っていく。

このところいろいろなことがオーバーワークというか、がんばっている割にはなかなか成果が出ないようなことが多く、少し凹んで疲れが出ているところがどうもあった。昨夜も風呂に入ったあと居間で横になってなかなか動けず、のろのろと自室に戻って着替えて歯を磨いたところで気を失った。今朝は疲れが残っていてなかなか起きられず、目が覚めたのが7時半。それから軽く活元運動の準備運動をして中身に入ってからすぐ整理運動をし、二三行モーニングページを書いて部屋を出て、草を刈りに行った。ほとんど時間がなかったから箕にひとつ分だけ草を刈ったが、それでも山に入るのと入らないのとでは全然違うなと思う。今朝は栗は落ちていなかったが、胡桃が一つ落ちていて、それから昨日ネットでたまたま見つけた林檎ミントの使い方を読んでいたので増えすぎて困っているこのハーブを二三本抜いて戻った。

朝食後職場に行ってごみの処理をし、それからお城の向こうのサークルKでティーバッグと週刊漫画タイムズを買う。そのまま帰る気がしなかったので湖に出てしばらく湖畔を走り、ガラスの里美術館のところを曲がって豊田の方に出て市街へ戻り、ガソリンを入れて市役所の裏を通って帰ってきた。帰ってからモーニングページを書き進めるがどうも愚痴っぽいことが多い。まあ愚痴るのはがんばってるからだよなあと思いながら、しばらく休んだり林檎ミントでアップルティーにしてみたりし、少し横になって休んでから、出かけようかなと思ったが、そう言えば面白くなってきたところだった、と思い直した南場智子『不格好経営』の残りを読み始めた。


【南場智子『不格好経営』:自分の人生の経営者であるということ】

不格好経営―チームDeNAの挑戦
南場智子
日本経済新聞出版社

私は、人生の本質は経営だと思っている。つまり、自分の人生を、自分が主となって経営すること。人にはいろいろな職業があり、いろいろな生き方があるけれども、結局は自分の人生は自分で責任を持つしかなく、その判断や決断、実行はすべて自分で行わなければならない。それは会社において経営者が行っていることで、そういう意味でどんな人生も自分が経営しなければならないことに違いはない。そこに大変さもあるし失敗はすべて自分が引き受けなければならないという苦さもあるが、逆にすべて自分が決められるというすがすがしさもあるわけで、これは逆に小なりといえども経営というものを実際にやってみないと分からない部分があると思った。少なくとも、私自身にとって、「経営」という経験は「人生というもの」を理解する上で最も重要なファクターだったように思う。

世の中にはいろいろな職業がある。教師もあれば、コンサルタントもある。しかし、自分は自分の人生の経営者になることはできても自分の人生の教師になることはできないし、自分の人生のコンサルタントになることはできない。スキルや心構えを自分に教えれば、あるいは人生の方向性やメリットのある事業を提案すれば終わりというわけにはいかないのだ。人生は結局、自分の責任で自分で経営して行くしかなく、騙されたとか信じてたのにとか行っても誰も取り合ってはくれない。取り合ってくれたところで、その人が自分の人生を肩代わりしてくれるわけではないのだ。

私の人生を振り返ってみても、今まで本当にバカみたいな失敗をたくさんして、人にも自分にもたくさん迷惑をかけてきたが、まあここまで何とか生きて来られている。それは稚拙であったとはいえ自分の人生は自分で決めて自分で動くしかないという部分が自分にあったからだろうと思う。憶病であっても、頑固であっても、周りが見えなくても、先が見えなくても、とにかく生きてきた。それが自分の人生を曲がりなりにも経営してきたということであるならば、まさに『不格好経営』とはそのままの題名になると思った。

著者の南場智子さんは大企業の創業者であり経営者で、彼女が1999年に創業したDeNAは今や東証一部上場企業であり日本に12にしかないプロ野球の球団を所有しているという押しも押されぬ大企業になっている。しかしその経営は従来の日本企業のあり方とはかなり違うものを感じていたし、またライブドアや楽天のようなIT系の新しい企業ともまた違う部分を感じていた。新しい企業はやはり創業者や社長の人柄が強く反映される部分があるが、DeNAにもやはり南場さんの個性が強く反映されている部分があるように思う。そういうところも含めて私はこの企業に興味を持っていたし、一時は株式も保有して株主総会にも出たことがあった。現在ではそういうこともしていないが、今回この本を読んでみて、改めて勉強になったことも多く、また自分の考えが肉付けされて行く部分も多く感じた。

第5章まではいろいろの苦労がありながらも楽しく経営を拡大して行く感じで終わりの方は少し飽きてきた感じがあったのだが、第6章でご主人の癌が見つかり、結局社長を退任して家族としてご主人を支えることに全力を挙げて行くところから、経営と人生の関係について改めて考えさせられることが多く出てきたように思う。面白いとは思いながら付箋は付けずにいたのだが、6章の終りから7章にかけてずいぶんたくさんの付箋をつけた。そこには経営とかつまりは人生とかについての多くの示唆に富んだ考えが書かれているので、今日はそれについて書いてみたいと思う。

【問題を恐れず、対処する姿勢と能力が必要】DeNAは新しい企業だ。だから新しい技術が新しい事業を生んでいくのだが、そうすれば新しい課題が発生し、事業者は軌道修正を求められる。この循環はイノベーションがある限り続いて行くから、事業者は問題を起こさないようにびくびくするよりも新しい問題に柔軟に対処していく姿勢と能力が必要だ、という。これは人生においても、誰の人生も「新しい人生」であって、今までのことは参考になるようでならない。だから必ず問題は起こるわけで、それに対処していく姿勢と能力が求められるということになる。そして問題を恐れて縮こまっていては自分の人生において何かを成し遂げて行くことは出来ないわけで、リスクは意識しつつもそれにとらわれていてはいけない、ということを改めて思う。

【第三者だから言えることの価値を評価する】コンサルタントと経営者は根本的に違う。コンサルタントはときに思い切った提案が出来るが、経営者はそのリスクを全部背負うことになる。だから経営者と同じ立場で提案するということは根本的に出来ないことだ。「優秀なコンサルタントは間違った提案をしても死なない立場にいるからこそ価値のあるアドバイスが出来ることを認識している。」安全な立場にいる第三者であるからこそ出来るアドバイスがある、ということは良く理解すべき。あなたは私の立場でないからそんなことが言えるんだろうという恨みごとを言う人がいるが、あまり生産的ではないということになる。

【選んだ選択肢を正しくする】「本当に重要な情報は当事者となって初めて手に入る。だからやり始める前にねちねちと情報の精度を上げるのは、あるレベルを超えると圧倒的に無意味になる。」「事業リーダーにとって、「正しい選択肢を選ぶ」ことは当然重要だが、それと同等以上に「選んだ選択肢を正しくする」ということが重要になる」選択、つまり判断・決断というのは情報も重要だが時期も重要だ。差し迫ったものから片付けるという方向を取らなければならないこともある。その選択が正しかったかどうか、仕事をはじめて見てなかなか見極められないことも多い。そういうときは判断が正しかったかくよくよしていても意味はないわけで、「選んだ選択肢を正しくする」ためにとにかく頑張る、ということが重要になる。先のことは誰にもわからないが、目標のある人は目指すべき未来がきちんと見えている。それが本当に実現できないのならそのうちそれははっきりして来るだろう。しかしそれも選択肢を正しくする努力を続けているからこそ見えて来る感覚というのもあるわけで、「決めるときも実行するときもリーダーにもっとも求められるのは胆力」、とにかく腹を据えてやる、ということになるし、それが必要だ。

【「現金に対する感覚」の重要性】事業をするうえで重要で、コンサルティングの立場では身につかないことのうち重要なことは「現金に対する感覚」だ。お金を守ることで会社を守り、キャッシュフロー管理の重要性、利益を尊ぶ、つまり財務の健全性を重視する姿勢が重要だということ。夢のある仕事をしているとどうしてもお金よりも戦略性のようなものに気を取られがちになるが、そこを引き締める感覚こそが「現金に対する感覚」なのだ。それは私自身も非常に賛同する。

特にキャッシュフローに関しては、経営や営業というものに携わらないで来ていると、出るところを押さえる、という感覚は身についても入る方を増やす、という感覚がなかなか身につかない。事業会社に関わることと公務員や教員であることの一番大きな違いはそれで、黙っていても給料が入って来るし頑張っても特には増えないという状況におかれると、「稼ぎを増やす」という感覚が乏しくなって行く。日本人のお金に対する潔癖さというかお金を増やそうと努力することをよしとしない伝統的意識みたいなものは結局支配階級が武士という俸給生活者であった時代の名残であって、健全にブルジョアジーが発達し貴族もまた領地経営の感覚が必要とされた欧米とはそこが違うのだと思う。

私は大学卒業後はしばらく塾講師のバイトで働いた時間分だけ収入が増えるという生活だったが教員になってからは完全に経験給と年齢給で決まるシステムでそこには凄く不満を持っていたのだが、同僚がそのシステムに安住しているのを見るとやはり私とは感覚が違うなと思った。教員をやめてからは不安定になったが、働けば収入になり働かなければお金が減るという感じが実に健全である意味ほっとしたことを思い出す。経営に関わるようになってからはいかにしたら仕事が増えるかということを強く考えるようになり、宣伝や問い合わせ対応にも意識が違ってきて、やはりすべてはまずキャッシュの入り次第なのだということを強く感じている。

こうしてブログなどを書いていてアフィリエイトで些少な副収入があるのだけど、なぜかアフィリエイトを嫌う人が多く、そのために読者を逃しているところも多分ある。しかしなんというか、自分の書いた文章で本を読みたくなってamazonで買ってくれたりすることによって発生する収入があるうということは、ある意味そういう自分の現金に対する意識を確認するために意味があると感じているところもあり、そういう形で続けさせてもらっている。

現金に対する感覚というのは、つまりお金というものをどう言うものととらえるかということになるのだけど、日本は伝統的にお金を不浄のものととらえる傾向があって、それに関わることを忌避する傾向があった。しかし現実問題としてお金がなければ生活していけないし、だいたい公務員がもらう給料はわれわれの収入から強制的に差っぴかれる税金から払われているのにそんなことを言われるとムカつくというようなものでもある。

この辺は私自身が意識改革が必要だというところがずっとあったのだが、最近ではお金というものはつまりは生命エネルギーの表現だととらえていて、ある意味ゲーム的だけどバイタルフォースの単位みたいなものだと思っている。もちろん状況によって意味するところは違って来るが、世の中はお金をメディアとして回っているという意味ではある意味健全性を担保するものでもあるし、仕事の正当な報酬=対価としてお金を受け取るということできちんと世の中の歯車を回しているのだということは意識していいことだと思う。まあそういう感覚が一番研ぎ澄まされるのが経営という仕事であることは間違いない。

【優秀な人と仕事をする】南場さんは人材採用の時、とにかく人材の質には妥協しないことを心がけたという。純粋に優秀な人が好きだということもあったというが、凄いと思える人、尊敬できる人と一緒に仕事をすると自分の気持ちも高揚し、怠惰な自分も最高に頑張れるということがあるという。これは確かにそうだと思う。会社をスタートさせてメンバーを増やすときに、ものすごく優秀な創立メンバーに「あなたより優秀な人を連れてきて」ということだけを条件にしたという話も凄いと思うが、確かにそういう会社ではうかうかしてられないけど、仕事をしていて非常に爽快だろうと思う。今までいろいろな人と仕事や活動をして来て、やはり優秀な人たちと仕事や活動をしている時は自分自身すごく充実していたし楽しかった。

【自分の仕事に対するオーナーシップと思考の独立性】優秀な人たちにはどういう共通点があるかというと、素直だけど頑固、頑固だけど素直、なところだという。サービスの立ち上げなどアクションに関するアドバイスは必ず丁寧に聴いて徹底的にやるが、結論に対するアドバイスには自分で考えて反論したりする。「自分の仕事に対するオーナーシップと思考の独立性を自然に持ち合わせている」のだという。

この言葉は私はすごくいい言葉だと思った。自分の仕事に対するオーナーシップと思考の独立性。人生に対してもそうあれかしだ。自分の人生に対するオーナーシップと思考の独立性こそが、自分の人生を切り開いていく力の本質そのものだと思う。

日本ではどちらかというと自分の人生を誰かに託す、誰かについて行くという生き方が称賛される傾向があったような気がする。武士、つまり侍というのは「主君に仕える人」であり、その道徳が日本人全体を支配する傾向があった気がする。そういう人はそういう人で潔いとは思うが、私はやはりそういう生き方は出来ないなあと思う。

民主主義というものは、自分の人生を自分で責任を持っている「大人」たちが合議によってものごとを進めるということが原点であって、誰かに人生を委ねるという生き方はそれには基本的に反している。だから日本が本当の意味で力強く生き返るためにはそうした自分の人生を自分で経営する感覚を持った人が一人でも多くいることが大切だと思う。いつもそんなことを考えているのだが、この本はその考えをさらに強いものにしてくれたように思う。誰でも人生は「不格好」なものだが、自分の力でがむしゃらに生きてこそ、何かを得ることが出来るのだと思う。

この本のあとがきに、創業のときに世話になった人と人材のやり取りを巡って対立したことが書かれていて、結局最後まで明確な感謝も謝罪もしないまま相手が若くして亡くなってしまった、ということが書かれている。経営ということは、人が生きるということは、そういうどうしようもない自分の犯した取り返しのつかない何かと顔を突き合わせていなければならないということでもある。そのことを最後に書いたのは、懺悔の気持ちもあればそれを書かなければ自分の人生に何か嘘を残すことになると感じたからだろうと思う。それでもなお進まなければならないというのは現代を生きる人間の業のようなものだけど、やはりそれが書かれなければ画竜点睛はない、とも感じた。読む人を作者と同じジェットコースターに乗せて急上昇や急降下を経験させる、そんな本だと思った。読了。

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