自分がこういう人間だということくらいははっきり言えるように/寺山修司『戦後詩 ユリシーズの不在』と用いられるべき表現/アニメ『進撃の巨人』21回「鉄槌」/宮崎駿の「引退」と『風立ちぬ』の1年半かけて作られた4秒間のシーン/太古の森を絶滅させた人間の業を描いた『もののけ姫』と美しい兵器をつくるという生き方の意味を解き明かそうとした『風立ちぬ』

Posted at 13/09/02

【自分がこういう人間だということくらいははっきり言えるように】

東京にいる。いろいろと忙しくてやることも多く、また何にどう取り組むのかということ自体についてもいろいろと考えながら考えて方針を立てることに取り組んでいるという感じ。考えることについてもいろいろと複雑なことが出てきて、なかなかすっきりと自分の取り組みの全体像が見通せないという感じになりがちなのだが、やはりそこはしっかり整理をつけて自分はこういう人間だということぐらいははっきり言えるようにした方がいいのではないかと思った。ということについて今朝からいろいろ考えている。

Cut (カット) 2013年 09月号 [雑誌]
ロッキング・オン
別冊spoon. vol.41 2Di 62485-12 「進撃の巨人」表紙巻頭特集/Wカバー 家の裏でマンボウが死んでるP/特別ふろく「進撃の巨人」「Free! 」「K」ポスター付き (カドカワムック 507)
プレビジョン

昨日夕方丸の内の丸善に出かけて少し本を探した。雑誌を読んでいたらロッキンオンで出している『Cut』で宮崎駿の3万字インタビューというのが出ていて、買うことにした。もう少し探していたら『Spoon 2di』という雑誌で「進撃の巨人」の特集をしていたのでそれも買った。2diというのは考えてみたら「2次元」ということだな。Spoonがそういう雑誌を出すようになったのかと思うとへえとは思うのだが。

戦後詩 ユリシーズの不在 (講談社文芸文庫)
寺山修司
講談社


【寺山修司『戦後詩 ユリシーズの不在』と用いられるべき表現】

それから3階の文庫コーナーを物色していて、寺山修司『戦後詩 ユリシーズの不在』(講談社文芸文庫、2013)を見つけ、立ち読みしているうちにこれは自分が今考えていることをどう表現するかというテーマに関係してくる何かがあると思い、買った。私が今書こうとしているのは人が生きるということはどういうことなのか、どういう生き方があるのかというようなことを個人の面、社会の面、世界から見て、もっと大きく見て、みたいないくつかのディメンジョンから見てみたいというようなことなのだけど、その時にどういう言葉で、どういう語り口で、どういう構成で書くのかということがかなり死命を決することになるのではないかという気がする。寺山は「印刷活字の画一性によって言葉が「人間の道具」から「社会の道具」に変えられ、それによって「戦後詩」が人の心に触れあわなくなってしまった、ということを言っていて、それはそうだよなあと思った。

活字の画一性を捨てて個人を復権できる他の伝達手段を選ぶか、活字に見合うような社会的な文学に変質するかの二者択一、というのはかなり重要な問題提起で、そういうことに敏感な作者でさえ「パン屑にありつこうとする貧しい時代のブルースを書こうとして、いつの間にか個人の情念を捨て、社会的マニフェストにのめり込んでいる」と指摘している。それは社会に認められた通りの情念の発現というか、いわば出来合いのわかりやすい、しかし型通りの演技や義憤や情念の爆発の「月並みな」表現に陥りがちな表現のパターン、もっと深く考え、深く感じていてもその表現を差し控え、ここまでなら共感可能だろうというところで抑える、逆に言えばその月並み表現を増幅させることで確実に得られる感動を当てにする路線みたいなものとある意味共通するものがある。

とそういうことを書いていて、でもまあそういうこともできないと確実に人の心に届くようなものは作れないなあとも思った。私はそういうのがあまり好きではないので、このブログの文章もそうだが、感情表現になると敢えて微妙な部分は書くけれどもあまりにも明らかな感情みたいなものはあまりあからさまに描いたりしない傾向がある。まあそこの呼吸のようなものは現代の空気の中でつかむべきものでもあるかもしれず、書き方みたいなものはいろいろと考えられるべきだなとは思った。

それでは自分が書こうとしている文章はどういう文体で書かれるべきかということになるのだが、それはまあ考えていてもよくわからないので、いろいろと試しながら書いてみるしかないということなんだろうなとは思った。

寺山の文章というのは斜に構えているというか、読んでいて下手に共感すると悪場所に連れて行かれるようなところがあることが多いので結構警戒して読み始めたのだが、この本に関してはかなり実直に書いているのでどうもあまり警戒しないでもよさそうな感じがしてきた。寺山自身もあとがきで「批評とはなんという醒めた仕事だろう。……私はこれを書きながら、終始他人である自分を感じて苛立たしかった。……それはきわめて孤独な仕事であった。そして「孤独の難しさは、それを全体として処するところにある」限り、私の批評もまたたやすく受け入れられないものと思われる。」と書いていて、つまりは彼自身が隔靴掻痒を感じながら書いていたのだなと思う。ただおそらく、だからこそこの書は信用できる、と思えるところがある。まだ読み始めたばかりだが、いろいろ受け取れるものがある気がする。


【アニメ『進撃の巨人』21回 鉄槌】

帰ってきて夜中に『進撃の巨人』のアニメが始まるまでに少しいろいろできることをしておこうとものを考えたり調べ物をしたりしていたら、宮崎駿監督が長編アニメの制作から引退するというニュースが飛び込んできた。おいおいと思いながら『Cut』を読んだり、ネットでいろいろ調べたりする。そのうち『進撃の巨人』が始まったのでそちらに集中した。今日はどこまで進むかと思ったが、思ったより進んだし思いがけないところで「to be continued」になった。以下はネタバレなので読みたい方は反転させてください。

前半でリヴァイ班が全滅し、後半でエレンと女型の戦い。女型に破れたエレンはうなじをかみちぎられ女型にさらわれる。そこに駆けつけたミカサが、絶望の表情から激怒の表情に変わり、超絶な迫力で女型を襲う。しかし刃が通らず、そこに駆けつけたリヴァイに「エレンは死んだのか」と聞かれ…

いやしかし、前半も後半も戦闘シーンの三連発ですごい迫力だし、どれも原作とは微妙に構成を変えてあって、しかし原作で凄いと思った場面は忠実にアニメ化しているし、ここはもっときれいに描いてほしいなというところは美しくなっていて、すごいなと思った。ミカサは「パワー型ヤンデレ」という評があったがまさにそういう感じ。ただ、絶望から激怒に転換するのが一瞬すぎて、原作の絶望と激怒が入り混じったものすごく不安定な感じではなく、きれいに二色に別れているのがちょっと残念な気もするが、しかしそこでコントラストをはっきりつけたために全体の迫力はアップしたことも確かだと思う。この辺は監督の演出意図次第というところなので一概には言えないが、まあこれはこれでよくできているなと思ったし、もちろん非常に感動した。

見終ったあといつもの通りネットを少し渉猟して印象に残ったものをRTしてからもう一度録画を見直し、それから録画してあった『プロフェッショナル仕事の流儀特別編・宮崎駿』を少し見たが、もう遅くなってしまったので寝た。


【宮崎駿の「引退」と『風立ちぬ』の1年半かけて作られた4秒間のシーン】

今朝も起きてから、なんだかいろいろなテンションを引きずっていて整理をつけるのが大変だなと思いながらものを考えながら整理したりしていた。9時になって整体の予約の電話が15回目くらいでつながって済ませると、さてと思って考えるヒントを探ろうとPCの前に座ったら隣家から突然電気ドリルの音が聞こえ、何事かと思って見に行ったら何かの設置工事をしていたので、これはうるさくなるかもしれないと思ってうるさくてもできる仕事から片付けようと洗い物をしたり洗濯を干したり現金の収支を計算したりして、昨日見かかった『プロフェッショナル』を最後まで見た。『風立ちぬ』の一つ一つのシーンにどれだけの心血が注がれているか、そして二郎の声を庵野秀明がやることによっていかに見事に最後のピースが嵌ったかということがよくわかってとても感動した。関東大震災の混乱の中、菜穂子の手を引いて上野高台の里美邸まで行くその混乱の描写の、たった4秒間の場面が完成するまでに1年半かかったのだという。それだけの積み重ねがあることを見ると、評論家の批評が実に安く見えてくるわけで、どれだけのことを考えてこの作品がつくられたのかを見ることは批評の仕事とは違うかもしれないが、それを見ることによってより的確な、というかより焦点の絞れた批評ができるのに残念だなあと思うところがあった。

宮崎駿の「引退」が一体何を意味しているのか、6日の公式の記者会見まで一切語らないとのことだったのでよくわからないのだが、今まで何度も引退をほのめかしてきた宮崎監督だがスタジオジブリから公式に発表されたのは初めてなのだという。多分そこでは、また何かたくさんのことが語られるのだろう。気を引き締めて、その発言を待ちたいと思う。


【太古の森を絶滅させた人間の業を描いた『もののけ姫』と美しい兵器をつくるという生き方の意味を解き明かそうとした『風立ちぬ』】

甲野善紀氏のメルマガ『風の先、風の跡』vol.59が届いた。有料メルマガなので全部は見せられないが、宮崎駿監督に触れたところが多く、タイミング的にまた深く読まなければいけない感じがしたし、すごくなるほどなあと納得するところがあった。

甲野氏は以前から『もののけ姫』で初めて宮崎作品を見たのだが、それによってものすごく大きな衝撃を受け、しばらく立ち直れなかったということを書いていた。そのことについて今回のメルマガでは詳しく書いている。

簡単に言えば、彼が愛している「広葉樹の森」は『太古の森』が破壊された結果できたものであり、彼が心の安息所と感じていた「鍛冶仕事」<「タタラ製鉄」は自然破壊そのものであった、ということをまざまざと突きつけられたことによる深い衝撃であって、その人間の業の深さの自覚に立ち直れないような衝撃を覚えたということなのだ。

しかしそういう人間の業の深さを自覚することによって、むしろ「悟り」とでもいうべき心境になり、「とにかく逃げ場がなくなった、あとはとにかく思い切って自分のやりたいことをやるだけだ」と思うようになったのだという。

これを読みながら思ったのは、何かとかまびすしい『風立ちぬ』のテーマの話であり、「生きねば」というテーマ、亡き妻からの「あなた、生きて」という呼びかけをどう評価するかという問題だった。高橋源一郎が『Cut』の中でこの問題について、「生きねば」というのは「生きる」という「罰」を受ける、引き受けること、と表現しているのだが、ああなるほどそういう言い方もあるなと思った。私には甲野氏の言うような「業」という表現が分かりやすいのだが、キリスト教的な表現で言えば「罰」ということになるのだろう。もちろん「業」と「罰」とでは微妙にニュアンスが違うのだが。

『プロフェッショナル』の中でも二郎という人物がどういう人間か実際に絵を描くアニメーターに問われて「何を考えているのかわからない感じの人」だと答えて、「難しいですね」と頭を抱えられていたが、上映後の感想でも確かに「何を考えているかわからない」という批判がずいぶん出ていた。私は「そんなことないだろう」と不思議に思っていたが、まあ逆に言えば宮崎の演出意図はすごく実現されたということになる。まあ一筋縄では行かない不思議な映画なのだが、つまりは堀越二郎は「美しい飛行機」をつくることに賭けた、自分の人生の心血を注いでできる限りのことをした人間であって、そのこと自体をとやかく言おうとは考えてはいなかったのだという結論に達したのだと思う。堀越二郎という人は、亡くなるまで英国紳士のような人だった、というふうに言ったり、「昔のインテリはものすごく頭がよくて、だから余計なことは言わないから口数が少ない」と言っていたのだけどいったいどういう人間なのか、よく考えてみたらそういう人間像というのは今では本当に少なくなっているんだろうなあと思ったりした。

それに実によく当てはまったのが庵野秀明だったというのも可笑しいが、考えてみるとこういうインテリ像というのは、こういう言い方をするとバカみたいなのは承知で書くのだが、私なんかに似ているんだと思った。だから私から見てこの二郎という人はひどく自然で人間臭い人に見えるのだなと思った。すごく頭がよくて、でもそういう意味では馬鹿で、怠け者と言えなくはない。でも、自分のやるべきことに精励して、一切言い訳をしない。昔はそういうタイプの人がたくさんいた。一つの典型は、極東軍事裁判で死刑になった元首相・広田弘毅だろう。彼は裁判で一切の弁明をせず、型通り無罪を主張して称揚と死についた。彼にとっては靖国神社に祭られるのも迷惑だし、合祀だ分祀だなんだと騒がれるのもまったく意に反したことだろうと思う。

まあ評価されても評価されなくても(もちろんちゃんと評価された方がいいに決まってはいるが)毎日ブログをアップして誰かに届けばいいと思って文章を書いているというのもまあ考えてみれば何なんだろうなあとは思うが、もうある意味書くことを離れては自分の人生はないと感じていることもまた事実だし、なるべく人に届きやすいように書くことを工夫して行こうとは思うが、読まれても読まれなくても何かしら文章を書き続けていくことだけは確かだろう。

自分がどんな人間かいうことはそんなに簡単ではないけれども、そんなふうには言えるかもしれないと少し思った。

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