神秘体験の二つの方法:脱魂と憑依/人間にとって必要なもの:導き手・相談相手・癒し/人生の案内者/チェロ曲とかコンテンポラリ・バレエとかベラスケスの謎とか

Posted at 13/08/26

【神秘体験の二つの方法:脱魂と憑依】

ベラスケスの十字の謎
カンシーノ
徳間書店

銀座の教文館の6階の児童書の店『ナルニア国』でふと目についたエリアセル・カシーノ『ベラスケスの十字の謎』(徳間書店、2006)を買い、4階のカフェで銀座通りを見下ろしながら読んでいたら、扉に引かれていたガブリエル・マルセルの言葉に「問題と神秘はいかに違うかと言えば、問題は避けることも解決することもできるが、神秘はいやおうなく自分に関わってくるものだ」という言葉があった。(Wikipediaによればマルセルは、キリスト教的実存主義の哲学者だということだ。)iPhoneをとり出して「神秘」について調べていたら、(これもwikipediaだ。ずいぶん世話になってる。1000円だけ寄付したことがある。)神秘とは英語ではmysteryあるいはsecretであって、神秘体験の仕方は大きく二つに分かれる、というようなことが書いてあった。一つは脱魂、もう一つは憑依である。

脱魂というのはたましいが肉体から抜け出して天国とかどこかに行って神秘的な体験をしてくるというパターンで、一番に思いつくのがコーランに書かれていたムハンマドの体験だが、多くの宗教家が修行中、瞑想中に体験したことが書かれている例を思いつく。

もう一つは憑依であって、憑依が起こるのも脱魂してからだ、という解釈もあるようだが、自分は自分でいてそこにほかの霊を呼び寄せ、自分の口で語らせるとかそういうパターンが憑依だということになる。

さて自分に起こるのがどういうパターンかというと、魂がここにない感じになってどこかを旅してきたような感じになったことはあるが、他の霊が自分の中に入り込んできたりした経験は記憶の限りでは、ない。神社とかに行って霊的な心地よさとか魂が洗われるような感じがすることはあるが、まあもともと人にそんなに簡単に(特に最近は)心を許さないところがあるからそういうパターンはあまりないだろう。昨日など、人と長時間話していて何かすごく長い旅に出かけていた感じがしたから、ある意味そういういわばスピリチュアルな(言葉の本来の意味で)旅をしてきたように感じた。これも広義の脱魂かもしれないと思う。

よくいろいろな霊を見たり、神秘体験というか近くにそういうものがいるのを感じる人がいるが、あれも広義では憑依というか招きよせみたいなものなんだろう。日本のシャーマニズム、つまり恐山のイタコとか沖縄のユタのような人たちは典型的な憑依だが、そのために日本人は霊的体験というか神秘体験というものは憑依されることだという意識が強いように思う。しかし、悟りなどの体験はある種自分を外から客観的に見るという体験であることも多い(まあどの人がどうだとはいちいち覚えてないので多いと言っていいのかわからないが)ので、どちらもあるのだが。まあおおざっぱに言って、男性や自我の強い人は脱魂をする傾向が、女性や自我の殻が柔らかな人は憑依の体験をする傾向が強いと言っていいのかなとは思う。

つまり大きく言えば自分から出かけていくか自分に招きよせるかということなのだが、どちらもできる人もいればどちらかをしやすい人もあるだろうし、もちろんそんなことは両方あり得ないという人もたくさんいるだろう。

最初のマルセルの言葉に戻れば、その霊というものもさけたり別れたりできるものなら「問題」で終わるのだけど、「神秘」であれば避けることはできない。もちろんキリスト教実存主義のマルセルにとって、神秘的に結合しているものは「神」そのものだろうとは思うが。


【人間にとって必要なもの:導き手・相談相手・癒し手】

まあ憑依というようなことで考えだすと種々雑多な霊はともかく、自分にとって必要な存在というのもあるのではないかということを考えた。まあこれは霊とかそういうものでなくてもいいのだけど、人間というものが霊的な存在であり、精神的な存在であり、身体的な存在であると考えると、人間はそれぞれ霊的な導き手と、精神的な相談相手と、身体的な癒し手がそれぞれ必要だ、と考えられる。導き手は神であってもいいが尊敬する人や大事にしている書物の言葉であることもあるだろうし、カリスマ的な指導者、つまり人間である場合もあるかもしれないし、また自分自身の強い信念であってもいい。判断や決断をする時に、自分の経験の範囲を超えた決断を迫られた時、何かをよすがにして決断を下すだろう。それが明確には意識されなくても、決断を手伝う何かがあるとすれば、それは導きと言ってもいいように思う。もちろんすべては自分の力だと考えてもいいのだが、その時にはある種の謙虚さを意識して持った方がいいかもしれない。

精神的な相談相手というのは導き手に比べて登場回数が多いから生身の人間の方がいいだろうし、ある程度はもちろん自分で整理しながら考える習慣をつけたほうがいい。そういう存在は子どもだったら遊び相手ということになるだろうけど、まあ座敷童子ではないが一人ぼっちの子どもが何か霊的な存在と遊んでいるというエピソードはよくあるし、心の中で信頼できる人に呼び掛けて自分で答えを出すということもある。

癒し手というのはこれもある程度以上は自分の力の範囲でちゃんと調子を整えることができるようになった方がいいが、整体やカイロプラクティック、マッサージや針灸、スポーツジムなどに通ってある程度人に調整してもらったりアドバイスをもらいながら健康を維持している人も多いだろう。宗教でも手かざしをはじめとして病気直しから信者数を増やした教団がたくさんあるように、身体的な、あるいは心理的・感情的な癒しということは人間にとって重要な要素を占めている。あまりよくわからないが、いわゆる守護霊というようなものも身体的・感情的にその人をガードする役割を持っているということなのではないかと思う。

まあ以上のことは自分が感覚的に感じていることの整理なのでこれが正しいとか言う気はないし、まあ客観的な科学的な記述でまとめなおしてみてもいいのだけど、なんかこういう視点の方が本質に近い気もするのでとりあえずはこういう感じで書いておこうと思う。まあ「神秘」というものを考えるための地図である。


【人生の案内者】

こういうことを考えたのは、何というか自分の仕事というのは、「案内役」みたいなものだなという気がしてきたからだ。地図をつくったりインフラを整えるほど大変な仕事でもなく、目的地まで行って目的地で案内をするガイドというべき役目でもなく、旅のきっかけをつくったり旅程のアドバイスをしたりするくらいの案内役。あるきっかけで、私のことを「怠け者で、馬鹿 lazy and stupid」だということが伝えられて、何というかそういうことを言われることは珍しいことなのでそれがどういう意味なんだろうと考えていたりしたのだけど、自分の役目は旅立ちの前の人にいろいろアドバイスをしたり心の準備をさせたり、つまり社会に出る前の若い人に関わる仕事や、年齢はともかく人生の大きな見取り図を示してこんなふうに行く生き方もあるしこんな生き方もある、こうだったらこういう可能性が高いしああだったらこんなふうなことも考えられる、でも選ぶのも、実際に生きるのも君だよ、という感じのことを伝える案内者なんじゃないかと思ったのだった。

人生のインフラストラクチャーをガチンコで作るとかのハードな仕事でもなく、人生の行った先でああでもないこうでもないと検討したりガイドしたりする仕事でもなく、人をぐいぐいとどんどん引っ張っていく仕事でもなく、力を貸してヒントを上げたりアドバイスしたりはするが最後まではついてかないでじゃあここでね、みたいな感じで自分の家に帰ってくる、みたいなイメージなのだ。

ドレの神曲
ダンテ・ドレ
宝島社

一番近いのが、というかまあイメージとしてはハードだけど、『神曲』のヴェルギリウスのような存在だ。彼はダンテを案内して地獄と煉獄をめぐるが、真の目的地である天国に行く前に帰ってしまう。真の目的地を案内するのはヴェルギリウスではなくヴェアトリーチェなのだ。またあるいはバプテスマのヨハネみたいなイメージだ。人々に方向性は与えるが、天国を与えることはない。天国を与えるのはイエスの役目であってヨハネの役目ではないのだ。まあサロメに首を斬られたりするような羽目にはならないようにしたいとは思うけれども。目的地は自分で選んでもらうしかないが、そこまで行く手助けは怠け者にできる範囲でする、というのが私という存在のイメージだなと思ったのだった。

まあそんなわけで、人生というもののまあできれば結構親切な地図がつくれるといいなと思っていて、まあそんなことの一環でこんなことも考えているのだった。精神文化というのは哲学や倫理学など学問の範疇から思想を通って宗教的・神秘的な範囲まで実に広く広がっているわけで、その広い範囲でのことを自分なりにどう考えるのか整理して地図を作っておく必要があるなと思ったし、またその地図自体が自分の作品たりえるようにも思うのだった。


【チェロ曲とかコンテンポラリ・バレエとかベラスケスの謎とか】

涙骨抄―生きる智慧
真渓涙骨
法蔵館

なかなかブログも更新できないので、買ったもの、読んだものの整理。土曜日にマーケットプレイスで注文していた真渓涙骨『涙骨抄』(法蔵館、2005)が届いた。『中外日報』に明治30年から昭和31年まで書き続けた文章から選んで編集したものだそうだ。涙骨というペンネームは、1歳の娘を亡くした時に「骨壺の中に収まっている我が子の骨を見て涙が止まらず、その涙が骨にしみ込んだ痛切な体験」をし、それ以来使うようになったものだそうだ。『涙骨賞』に応募しようと思ったので、先ずその人を知りたいと思った。自ら『船底の火夫』としてただひたすら中外日報の運営に当たり、有名になることを避けた生き方の人なのだそうだ。

TVアニメーション 進撃の巨人 原画集 第1巻 [#1~#3・PV・ED収録] (ぽにきゃんBOOKS)
浅野恭二監修
ポニーキャニオン

日曜日は丸善に寄った際、前から気になっていた『進撃の巨人 原画集』第1巻(ポニーキャニオン、2013)を買った。アニメの原画というものがどういうものかよく知らなかったのだが、着彩前の輪郭線で描かれたものだった。それで見ると、一つ一つの絵がいかに上手いかが本当によくわかると思った。

チェロ協奏曲ロ短調(+オリジナル・エンディング)、チェロ協奏曲イ長調、他 イッサーリス、ハーディング&マーラー・チェンバー・オーケストラ
クリエーター情報なし

それから今日銀座に出かけてまず山野楽器でクラシックでいいのがないかと探していたら、イッサーリスのドヴォルザークのチェロ協奏曲集があって、これを買った。イッサーリスは以前聴いたアルバムがとてもよく、2012年の新録音ということで買ってみた。ドヴォルザークらしい(というか私のイメージで、なのだが)平明な感じの曲想だった。それからバレエのコーナーを見ていたらDVDで気になるものがあった。あまりよく知らないのだが、ハインツ・シュペルリという人の振り付けのチューリッヒバレエ団がバッハの無伴奏チェロ組曲を踊るというもの。コンテンポラリで、まだ少ししか見ていないが、スイスということでベジャールっぽさもあるし、ドイツ語圏ということでノイマイヤーっぽさもあり、でも年代的には調べてみると1940年生まれだからもう70を超えているし、ノイマイヤーの一つ下で、ほぼ同世代ということになる。全然知らないコリオグラファーだったが、少し見た限りではすごく好きな感じの振り付けだったし、ダンサーの肉体の見せ方がなんか面白いなと思った。男性ダンサーのソロが、なんか筋肉ムキムキ的で、これがバレエかと少し意外な感じがしたが、まあ細い人ばかりがやるのがバレエじゃないという感じが面白いなと思ったのだった。イッサーリスは私より3つ上の人だった。

それから教文館へ行って本を物色するが全然ほしいと思うのがなく、あ、っと思って6階に上って、最初に書いた『ベラスケスの十字の謎』を買ったのだった。この本は、主人公がベラスケスの不朽の名画『ラス・メニーナス』に描かれた一人の少年だというのが面白く、そしてこの少年が「背が伸びない」という運命を背負っていて、そういう存在としてスペイン宮廷に連れてこられたイタリア人だ、という設定(というか事実)を読んで、強い興味を引かれたのだった。あの『ラス・メニーナス』という絵はベラスケスの最高傑作だと言われているけど、なんだか変な感じのする絵で、中心にいる王女マルガリータからしてなんだか普通ではなく、描かれている人々もなんだかわけありなのだけど、その中でごく普通に見える右端の少年(というか子ども)がそんな人物だとは思いもしなかった。この少年ニコラス・ベルトゥサトは、5歳くらいに見えるが絵の完成時には12歳~13歳なのだ。まだ読みかけだが、かなり面白そうな予感がする。

それから4階のカフェでカフェオレを飲み、木村家で朝食用のパンを買って、日本橋まで歩いて途中パイロットの万年筆博物館(入場無料)をのぞき、日本橋コレドの地下で夕食の買い物をして帰宅した。

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by Luke Peterson

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