靖国神社参拝/適切さについて

Posted at 13/08/15

【靖国神社参拝】

きょうは68回目の終戦記念日。いつからだったか、毎年靖国神社に参拝している。少なくとも終戦60年の2005年からはずっと参拝している。あの年の8月15日は、ものすごい大雨だった。今年は穏やかな天気で、朝から暑かった。7時前に家を出て、参拝したのは7時半ころだったか。8時前には神社を出て、スタバに立ち寄ってラテを飲み、東京駅によって帰省の特急の指定を取って家に戻ったのが9時ごろだった。

今日は韓国の国会議員が靖国を訪問するとか、いろいろな情報があったので荒れるのかなと思っていたが少なくとも私が参拝したころには何もなかった。みたま安らかに、日本と世界が平和でありますように、と祈願して帰った。


【適切さについて】

帰ってからは、取り組もうとする原稿の全体像についてもう一度考え直す。和辻哲郎『日本倫理思想史』について、読んでみるのは悪いことではないと思うが、昨日一昨日いろいろ読んだものから考えても、やはり私の持っているもの、取り組みやすいものからはかなり離れているなと思わざるを得なかった。哲学とか真理とかいうものに憧れはあるのだけど、でもそういう方向性が自分にあってるかというとそうではないなあと思わざるを得ない。でもお題は精神文化だし、どういうものが自分にとって取り組めるものなのかとさまざま考えてみて、いろいろな「価値」がある中、自分が無意識に一番重視しているのは「適切さ」、あるいは「判断力」であるという結論に達した。もちろん判断力は判断力のみで独立して存在するわけではなく、様々な価値とその実現性とかの、すべてのことをおさえた総合的なものだ。それをどう描くかは腹案はあるのだけど、最終的にはそれを文章にしたときにそのことによって明らかにしようと思う。判断というのは思考と実行の境目、その両方を結びつける働きを持っているともいえるし、思考から実行へ移行する最も重要な手続きであるともいえる。現代において、それがどのようになされるのか、その鮮やかな、というか特徴的な例についていくつか考察してそれをまとめてみようと思う。その時それぞれの価値がどう生かされ、どう尊重され、どう採用され、どう反映されていくのかなどについて描ければいいなと思う。

適切さ、というのは私がいつも意識している(無意識に意識している、と言うと変な言い方だが)ことで、判断と実践とそのフィードバックなど、プラグマティックに考えることもできるが判断やフィードバックの時点ではそこに価値観が反映することは明らかだし、実践においてもその内容によれば当然精神性を持つものでもある。そのようにして現代の精神文化のダイナミックなところ、あるいは精神的なもの、文化的なもの、教養的なものを現代の生活の中で反映し、生かし、維持していくための方向性のようなものが見えるとよいと思う。

そんなことで、とりあえず方向性が出て多少は安心した。こういうことを考えるのはやはりまとまった時間が必要で、普段のコマ切れの生活の中ではなかなか考えるいとまがない。考え方やスタンスを整理して、しっかり取り組んでいきたいと思う。

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday