自己認識と文化

Posted at 13/08/10

【自己認識と文化】

精神文化ということについて考え始めてから、よく夢を見るようになった。昨日も何となく、道徳とか正邪、善悪というようなことについて考えていた。一昨日の夜は何となく進撃の巨人に類似したストーリー性のある夢を見たのだが、昨日の夜は夢らしい不条理なよくわからない夢を見た。

村上春樹が、河合隼雄とは親しかったけれども、河合の本はほとんど読んだことがない、と言っていて、それは、小説家はそういう分析的な本を読まない方がいい、自分で分析をはじめたら終わりだ、みたいなことを言っていたので、私も読まない方がいいのかなあなどと思ったりしていたのだけど、私にとっては逆のようで、むしろ自分を考える、文化だとか正邪だとか道徳だとかそういうものについて読んだり考えてみたりした方が、自分の中にさまざまなイメージが湧いて来るのだと思った。

ただ、考えてみると私は、今のところそういう本を「分析的」には読んでおらず、何か新しいわくわくするような知識を仕入れるという感じで読んでいるのかもしれないと思う。
今日見た夢は、なぜかズボンがパジャマのままで出かけてしまい、なぜかまあいいやと思って二つ先の駅まで電車に乗って、そこでやっぱりまずいかなあと思ったりしていたら、駅のホームなのにエンコしている車がいて、バッテリトラブルで車が動かないから手伝ってくれと言われて何かしようとして目が覚めた、というようなものだった。その駅は実在する駅なのだがしかしその風景は実際の風景とは全然違っていて、今考えると三重県にいた時の高校時代に乗車していた国鉄の寂れた駅の風景だった。

何となくぼーっと考えていて、つまりこれは、自分が自己認識が出来ていない、客観的に見られていない、と自分が思っている、ということではないかと思った。アイデンティティも問題だけど、自分を客観的に見るということも必要だろうなあと思って見たのだが、その時の客観性というのは一体何かと考えてみると、結局自分が持っている「常識」から見て適切かどうか、ということなんだろうなと思う。

昔私は、自分なりにけっこう強固な「常識」を持っていたと思う。意識の上では、自分は何も知らないし、何も分かってないという気持ちも強かったが、意識下ではかなり堅牢な常識が構築されていたなと思う。しかし結婚生活が破綻したり教員の仕事をする中で底なし沼のような違う世界をのぞいたりしたことで、その「常識」というものはかなり痛めつけられ、壊れてしまったが、逆に言えば少しは柔軟性を得たという部分もあるような気がする。そういう自分の持っている「常識」というものが今どういう状態になっているのか、それを探るのも今の自分にとってはかなり大事な気がするし、それが創作の基盤にもなる気がする。

自分自身の常識も変化するけれども、社会的な常識の一般的な中心みたいなものも定まっているわけではないし、だんだんに動いて、伸びたり縮んだりし、自分が新たな経験をして常識に新たな部分が加わるように、社会もまた新たな構成員が加わり古い構成員が退場し、またそこで起こる事件から新たな常識が加わったり忘れられたりして、自分の常識も社会の常識も充実したり書きかえられたりしている。

それは常識というよりも、世界の見え方とか、何が適当で何が適当でないかと感じるその基準の背後にある感覚、つまり常識という意識上のことというよりももっと深層にあり奥行きも広がりも豊かさもある、「文化」というのがふさわしいものかもしれない。

自分が持っている文化、カルチャー、感覚的なもの、物質的なもの、金銭に対する考え方、人間関係に対する考え方、そのほかetc, etc.

そういう意味で、自分の持っている精神文化はどう言うもので、物質文化はどう言うものか、あるいは金銭文化や人間関係文化はどういうものかということを見て行くことが、自分の作家的基礎になるんじゃないかと思った。

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