音楽が与えてくれるもの/Yui:againと日本人の音楽的DNA

Posted at 13/06/09

【音楽が与えてくれるもの】

音楽をあまり聞かなくなってから、どれくらいたつのだろう。

一番聞いていたのは、おそらく中学生・高校生のころではなかったか。なぜあのころ、あんなに音楽を聴いたのだろうと考えてみると、あの頃の自分にとって音楽は、自由の象徴のようなものだったからかもしれない、と思った。

籠の鳥、いやもっと違う表現が妥当だが、まあそのようななかなか外の世界に出ていけない生活の中で、音楽は自由に自分の内面を解放してくれる、そういう存在だった。

だからそこから出て、自分で生活するようになれば、前ほど音楽が必要でなくなった、ということはあるし、音楽よりももっと心を奪われるものがいろいろ出てきた、ということもあるだろう。心を奪われたからと言って、それが自分の財産として残ったかというと、それはまた別の問題ではあるけれども。

逆に言えば、音楽を聴くということは、今でも本当はあの頃と変わらず、本当に自由なんかじゃない、ということを思い知らされるから、音楽を聴くのが辛いという面もあるのかもしれない。

ジャズも、ロックも、あらゆる音楽はすべて、解放を目指している、と思う。クラシックも、しかつめらしい演奏をされるからわからなくなるけれども、本当は今ここに居る自分を、どこか違う場所に連れ去ってくれる、そういう音楽だったはずだ。

そういう意味では、音楽というものにはオーソライズされてしまえば負けだ、という側面がある気がする。音楽をやる人間は、いつまでも若い。若さがなければ、現状を完全に受け入れてしまえば、音楽はそこで終わりになる、という側面があるのだと思う。

そういう気持ちを駆り立ててくれる、あるいは強制的に駆り立ててしまう、音楽というものは、ある意味鬱陶しいものだ。自分が自由でない、という自覚があるときは、音楽はすごく味方になる。しかし、自分が今自由なんだ、と思いたいときには、その気持ちに「本当にそうなのか?」と突きつける刃にもなる。音楽の前で、嘘は許されない。

確かに私は、偽の自由の中でまどろんでいたのかもしれないな、と思う。音楽が本当に私に与えてくれるものは、つまりは本当の自由に向かって、自分を駆り立ててくれることなのかもしれない。そして本当の自由というものは、いつになっても実現するものではないし、実現することがないからこそ、人は生き続けることができるというものなのだろうと思った。満足とは、死と同じことなのだ。


【Yui:againと日本人の音楽的DNA】

again
Yui
SMR

最近、ヘビーローテーションで聞いている曲がある。Yuiという歌手の、「again」という曲だ。以前のエントリでも触れたが、ニコニコ動画で『進撃の巨人』の手描き二次創作作品として投稿された映像につけられていた曲として私は知った。もともとは2009年にリリースされた曲で、アニメ作品『鋼の錬金術師 Fullmetal Archemist』の主題歌としても使われたという。

鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST パート1 BOX (1話~13話収録) [Blu-ray] 北米版 日本語音声可
Funimation

私は最近の音楽はあまり聞いていないし、この曲も歌詞がずいぶん早口でダダダダダーッと流れるので最初は自分に縁のないものと感じていたが、この手描きアニメで歌詞が表示され、それが『進撃の巨人』の各場面に非常にマッチしていて、ドスンと心に深く入ってしまった。以後、この映像を再生し、iTunesで曲を購入し、何十回となく繰り返して歌を聴き、口遊んでいるうちにだいたい歌えるようになった。『進撃の巨人』のオープニングテーマ、『紅蓮の弓矢』も最初はほとんど歌えなかったが、これはMADを何度も繰り返してみているうちにだいたい歌えるようになった。考えてみれば当たり前なのだが、曲を覚えるというのは50になった今であろうと中学生のころであろうと原理は全然変わらないわけで、要するにただ何度も繰り返し聞いてそれを追いかければいいわけだ。そうして歌えるようになってみると、自分に縁がないと思っていたこの世代の曲も、全然普通に自分のものとして感じることができるということに気づき、結局自分の中で勝手に壁を作っていただけなんだなということがよくわかった。

今朝、なんとなく本棚においてあったソプラノリコーダーを手にとって「again」を吹いてみて、この曲が「ヨナ抜き」であることに突然気づいた。つまり、ファとシを使わない音階、日本の近代歌曲、特に演歌でよく使われる、あのヨナ抜きなのだ。

正確に言えばファもシも使われているところはあるのだが、それはいわば描写的な部分のメロディであり、つまりは背景的なところで、ここぞという感情や決意が表現されるフレーズではすべてヨナ抜きになっている。

従来のシンプルなヨナ抜き歌曲と違うのはファやシが出てくるところではそれが何かの気持ちのブレとか、ある種の弱さの表現、感傷を現しているところに入ってきているということで、断言すべきところはヨナ抜き、という使い分けがうまいのだということが分かってきた。

これは自分にとっては興奮するような発見で、こんな「若い人の新しい曲」が日本近代の伝統的な文法を踏まえたうえで書かれていて、ある意味日本人の音楽的DNAとでもいうべきものが今でもきちんと受け継がれているのだということに感動したし、それでよりこの曲が身近なものとして感じられるようになった。

そういうスタンスを持ってこの曲を改めて聞いてみると、実はものすごくシンプルというか、骨格のはっきりした骨太な曲なのだということに気付く。ホ短調、つまりギターコードで言えばEm(Eマイナー)がベースになっていて、4度の転調をしてAm、つまりイ短調になり、最後にまたEmに戻る。iPhoneで再生しながらクラヴィノーヴァでメロディーを弾いてみて、そのことがよくわかった。

よしだたくろう 青春の詩(紙ジャケット仕様)
フォーライフ ミュージックエンタテイメント

昔の曲と違うことがあるとすれば言葉の数が多いということだが、考えてみれば吉田拓郎なども「イメージの詩」とかかなり口数の多い曲を歌ったりしていた。それらと違うところがあるとすると音のかっこよさということになるが、それは洋楽から取り入れた要素だろう。「again」の最初のギターソロとかはデレク・アンド・ドミノスの「愛しのレイラ」のフレーズを思い出させる、というか全体に、「愛しのレイラ」の狂熱的なノリみたいなものを、日本的な繊細さで処理した、みたいな感じのところが「again」にはある。つまり、この曲は本当はすごく日本的な曲なのだ、ということになる。

いとしのレイラ
デレク・アンド・ドミノス
ユニバーサルインターナショナル

そうして考えてみると、つまり私たちは、原初的な日本人なのだ。どういうところに日本を感じるかというのは人それぞれなのだが、私は今朝、楽器をいくつか弾きながらこの曲を聴いてみて、それを強く感じた。

ギターの弦もそろそろ張りなおして、弾けるようにするといいかもしれないな、と思った。

ちなみに、ヨナ抜き以外の日本的音階としてニロ抜きというのがあるそうだが、つまりレとラを抜く音階、「島唄」のような曲の音階だそうで、これは日本的というより沖縄的なんじゃないかと思った。

島唄
THE BOOM,宮沢和史
ソニーレコード

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