ティム・ボウラー『川の少年』/「出来ないことが出来るようになるということ」をめぐるいくつかの問題/能力と幸福
Posted at 13/06/15 PermaLink» Tweet
【ティム・ボウラー『川の少年』】
午前中は雨は降っていなかったのだが、午後になってだいぶ強く降り始めた。昨日の深夜というか今日の未明にもだいぶ激しく降ったようなのだが、記憶にない。しかし石垣沿いに自生しているつゆくさが軒並み倒れてしまっていたから、相当強く降ったのだろう。
川の少年 (ハリネズミの本箱) | |
ティム・ボウラー | |
早川書房 |
ティム・ボウラー『川の少年』読了。思った通り、とてもよい話だった。この小説は、1998年に『ハリー・ポッター』を抑えてイギリスの児童文学賞であるカーネギー賞を受賞しているそうだが、それだけのことはあると思う。いや、私はハリーポッターを読んだことがない(テレビで少しだけ映画を見たことはあるが)のでその評価が妥当なのかどうかはわからないが、この作品が少女がはじめて触れる死と生の問題を、説得力をもって語っているところは感動的で、ラストの方になると本当にすごいなと思う場面がいくつもあった。その場面について書くのはどうも「ネタばれ」になってしまうので気が進まないのだが、それでもごくありがちだと思ったいろいろな設定が、最後になって「これはすごい」になって行くところが、この物語の非凡なところだと思った。水源から海まで。これがたとえらているものの意味が、わくわくするものを隠している。
【「出来ないことが出来るようになるということ」をめぐるいくつかの問題】
今の自分を越えて行くとは、どういうことなんだろうか。
考えられることは四つある。一つ目は、今の自分の、力をどんどん伸ばして行って、今よりもさらに今やれていることができるようになること。これは一番ノーマルな形。
二つ目は、今できないことにトライして、出来るようになって行くこと。出来ることを広げていくこと。これは、今できることよりも今はできないことに注力することになるから、それをやることによって今できていることの力が落ちる、ないしは今できていることができなくなるんじゃないかという恐怖心が伴うことがある。それは故なしとはしないのだけど、それが今できていることにとってもプラスになる、という有機的な連関が確保されるのであれば、プラスになると考えていいだろう。しかし逆に、ある能力を高めることによってある能力が下がるということもあり得る。視力を失うと、超感覚的な勘が高まるということがあり、逆に言えばその感があまり鋭くならないようにすることで視力を失うことを防ぐ、ということが野口整体ではあるということを甲野善紀氏が書いていた。これはそういうことはあると思う。出来ないことができるようになるというのは、ある意味両刃の剣だということだ。
三つ目は、今の自分を否定し、今の自分にない力を身につけようとすること。今できることを否定して、出来ないことをできるようしようと努力すること。
こう書いてみると不自然なことは明らかなのだが、私にはどうもそういう傾向があったなと思う。自己否定癖というか、今できることは大したことはないのだと思いこみ、その力や関心を伸ばそうとせず、自分が羨ましいと思う、憧れる力に魅かれて行く。しかし実際のところ、それは本当にやりたいことではないというか、過去の自分を否定することで過去の自分が本当に好きだったもの、関心があったものも否定することになり、何が本当に好きなのか分からなくなってしまうということが起こる。たぶん日本には、いや日本だけではないが、そういう形で好きだったものを捨てさせられた人たちがたくさんいて、それを描いた古典的な作品が『市民ケーン』だけれども、市民ケーンは何が好きなのか知っているだけましで、何が好きなのかさえ分からなくなって自分を見失っている人が、世の中にはたくさんいるのではないかと思う。
そんなふうに自己否定してしまうのはなぜなんだろうか。
完全にそれで説明がつくかどうかは分からないが、私が思ったのは「闇雲な向上心」みたいなものがあるからじゃないかということだった。とにかく今の自分にとどまっていてはならない、とにかく前に進まなければならないという気持ち。それは多分、痛切な自己嫌悪を経験したことがある人には、そういう焦りにも似た気持ちは理解されるのではないかと思う。中島みゆきの『泥海の中から』に「ふり返れ歩き出せ 悔むだけでは変わらない 繰り返すその前に 明日は少しましになれ」という歌詞があるが、どう「まし」になればいいのか分からない、けれども「まし」にならなければならない、という痛切さを感じてしまう。
しかし、そういうアップセットした状態で一歩一歩確実に前に進むことはできないわけで、自分がいろいろ空回りしてきたのもそういう「やみくもな向上心」みたいなものが原因なんだろうなと思った。こういうところは自分にはすごく昔からあって、一度落ち込むと周りが暗黒になってしまい、そういう自分に耐えられない、というところが子どものころからあった。今でもそういう部分は皆無ではないが、つまりそういう「暗黒の落ち込み」みたいなものをとにかくどうにかしたい、そういうときにはとにかく何か目標を持って努力することで最悪の落ち込みからは逃れられる、ということを経験的に知ってきたからだろうと思う。
つまり、一番危ないのは何かをやり遂げて満足している瞬間で、満足感が意識を覆っている間はいいが、それが薄れて来ると暗黒がぱっくりと口を開ける、ということが良くある。若いころはそうなると唖然呆然してしまい、またその暗黒から抜け出すのに長く苦しむということになったのだけど、最近ではとにかく目標を持つ、やみくもでもいいから何か目標を持つということでその場面を乗り切るという感じになっている。
だから、そういうときはある意味死の恐怖ないしはそれに似たものと戦っているわけで、死の恐怖を乗り越えるためには生きる意志を持つ、それを強く持つしかないわけだから、まあそういうやみくもな向上心というのはある意味盲目的な生きる意志でもあるのだった。
人によって、死の恐怖を乗り越えるためにものを食べるというタイプの人もいるし、乗り越えるために誰かと戦って権力を奪取するという人もあるし、乗り越えるためにお金を稼いだりものを集めたりするという人もあり、乗り越えるためにやみくもに成功を追求したりセックスを必要としたりするというひともあるが、私の場合はそれが向上心だということなのだろうと思う。だから私にとって向上心というのは生きるためにどうしても必要な切実なものであり、それがなくなるとぼんやりと死の恐怖の中空に宙吊りになってしまうようなイメージがある。
しかしまあ、こういう考え方はやはり余裕がないわけで、そこをこそ乗り越えなければならないという面もまたあるのだろうと思う。ただそれはそれを否定的にとらえるのでなく、ある自分の局面として客観的冷静的にそれを見つめなければならないけれども。
だから、四つ目は、自分の中を探って自分の心の底から出て来る望みを実現する力をつけること、ということになる。自分を向上させるというときに、いったいなぜ自分が向上したいのか、ということが自分の心の底の方からつながっている何かがなければ、今言ったようなやみくもさの中に埋没して行ってしまう可能性がある。
一つ目の、今できることを伸ばして行くというのは安全そうに見えるけれども他の力がつかなくて人間として歪になっていく可能性もある。ただ、人間が専門性を持って生きるというのはある意味そういうことでもあり、全的な能力もまた伸ばしつつひとつのことに特化して力を伸ばして行かなければならないケースは多いだろう。ただ、そこにある種の歪みがあるということに自覚的であった方がいいとは思う。
二つ目の、出来ないことが出来るようになるということも、いいことばかりとは限らない。車が運転できるようになって歩かなくなるとか、パソコンを使うようになって暗算能力が落ちるとか、人間の能力というのは常に出来るようになることがあれば使わなくなって退化して行く能力もあるからだ。いざとなったら森の中で一人で置き去りにされても生きていける能力くらいは、持ち続けておいた方がいいとは思うが、書いてみてそりゃ大変だよなとは思った。
【能力と幸福】
そういうことを考えると、人間の能力というものは、自分という人間存在の全体の中で、自分にふさわしい力を持ち、ふさわしくない力は持たないことこそが、その人にとって最も幸せなことだろうと思う。まあそう簡単にはいかないところが人間にとってややこしいところではあるのだが。どうしても自分にふさわしくはないことを望んだりするわけで、自分の分とか使命とか言うものをよほど正面から考えておかないと、能力という点で足を取られてしまうことが多々あるように思う。
私も私という人間の形がようやくおぼろげながら見えてきた感じがあるという段階に過ぎないので偉そうなことは言えないのだが、自分にふさわしい力を持って自分にふさわしい生を生きることが、やはりその人にとって一番幸せなことだし、人類にとってもまた幸せなことなんだと思う。
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