平原演劇祭2013第三部『烏江』ほか

Posted at 13/06/16

【平原演劇祭第三部『烏江』ほか】

朝起きてカーテンを開けると、路面は濡れていた。今日は平原演劇祭(第三部)がある。かなり降っているのでさて出かけるかどうか迷ったのだが、あの加藤家住宅でこのような雨の日にどういう使い方をするのだろうということを考えているうちに、行ってみよう、と思ったのだった。

11時前に傘をさして出かける。東武動物公園から田圃の中の雨の道を20分歩くことを考えて、少し大きめの傘。茅場町で日比谷線に乗り換え、北千住で特急りょうもうに乗った。1時開演なので食事をする暇がないから、車内で食べようと思ってサンドイッチを買ったのだけど、さすがにロングシートで食べるのも気が引けたので、500円の特急料金を払ったのだ。

車内はすいていて、さすがに快適。JRで言うとグリーン車並みという感じ。23分で東武動物公園に着いたが実家の方で言えば上諏訪・松本間とほぼ同じ。特急に乗るには短いが、乗る意味はある長さだと感じた。横浜に行くときでもグリーンに乗ることがあるし、まあ同じくらいの感じだ。

東武動物公園からは延々と早足で歩く歩く。幸い雨は上がっていたので比較的楽だったが、ずいぶん降った後らしく、歩道が水没している個所があってそこは車道を歩かざるを得なかった。家並みが切れると小さな川。この川のこんもりと森になった川辺が私は前から好きなのだが、変わらずにあってよかったと思った。あとは田圃の中をひたすら歩き、10分前に加藤家住宅に着いたが、まだ稽古中だった。(笑)さすが演劇界の極北。

ツイッターでの主催の高野竜君の告知によると、演目は『劇団12「しじみSF」、松本萌ソロ舞踏「ねぎ油」、暁方ミセイの詩朗読、田楽「烏江」』。なおお茶菓子つき、観劇無料とのこと。

長距離を一気に歩きぬけたのでさすがの私も汗が噴き出したが、タオルで拭いたり用意されていた団扇で扇いだりしながら凌いでいた。

ウイルスちゃん
暁方ミセイ
思潮社

まず1時から現代詩界の注目の詩人、暁方ミセイさんのポエトリーリーディング。座卓の前に座って広げた紙に書かれた詩を読み始める。どのようにこの詩たちを読むのだろう、と私も詩集『ウイルスちゃん』に目を通しながらあらかじめ想像していたのだが、読み方自体はほぼ私の想像通りだったのだけど、その肉声と彼女のたたずまい、それを包み込む何百年の歴史を持つ加藤家住宅の空間に溶けていく言葉たちの振る舞いは、私の予想を超えるものだった。ミセイさんの詩の言葉は、詩の命であるポエジーに溢れていて、緊張感鋭く、この身体とこの声からこの詩が生まれてくるのだと、納得させられるものがあった。ポエトリーリーディングを聞くのは多分もう10年ぶり以上なのだけど、これは行っただけのことがあったと思った。

次に劇団12「しじみSF」。この劇団のノリというのは私の理解を超えているところがあるのだけど、今回はなんというかこの芝居がどういうものなのかということが少しわかってきた気がする。実際、最近の演劇をそうたくさん見ているわけではないので何とも言えないが、自分がやっていた頃とはかなり違ってきているんじゃないかなと思った。

それから田楽「烏江」。田楽というか、能の謡のような節回しで不思議なストーリーが語られる。休憩前にはこの前半が進んだところで中入り。

休憩中はモツァレラチーズに完熟トマト、カンパーニュの薄切りという軽食が高野君手ずから振舞われ、ささっと抹茶を入れてくれた。この休憩中、暁方ミセイさんと少しお話ができ、ああこういう方なんだなあという人間の輪郭を拝見できたのはよかった。

後半はまず松本萌ソロ舞踏『ねぎ油』。これは大変良かった。するめを持って現れて、私の目の前にしばらくいたのでするめの匂いがかなり強烈ではあったが。特に身体の集中の仕方というか、何か独特なところがあるように思った。歌が入ると少し緊張というか集中が弛んだというか戸惑い感があったけど、またすぐそのバランス点を見つけたように思った。よかった。

それから「烏江」後半。なんだか話はよくわからないと言えばよくわからないのだが、つまりは焼くと人間を焼いた匂いがすると言われる「コノシロ」という魚の話。すしネタでは普通コハダというし、特にその新子の握りがおいしそうなのだが、コノシロ自体は切腹の時に最後に供せられる魚だということもあり、縁起が良くないものとされているのだけど、宮代などに伝わる伝説では誰かの身代わりにコノシロを焼いて、その人は焼け死んだと見せかけて逃がす、という話が全国にいくつか伝わっているのだそうで、その話だった。最後には「烏江」という題のもとになった項羽と劉邦の覇権争いの際の、敗走する項羽が烏江にやってきたときの話が語られて、なんだかよくわからない壮大な大団円を迎える。

終了後高野君に聞くと、この元の台本は100年ほど前のもので、地元の名士が酔っぱらって書いたものなのだそうだ。なんか妙に地元になじんだところのある話だなあと思っていたが、その話を聞いて腑に落ちるものがあった。

謡を語ったり、その場に座って台詞を言っていたりするのが、どうもなんだかこの庄屋屋敷で宴会などの際に誰かが座興に何かを演じたりするような感じがどうもふっと思い浮かんだりしていたのだけど、たぶん実際そんなものだというか、その土地、その建物の霊性というか何かそこにあるものを呼び出して、その地霊、屋敷の霊の魂鎮めというか、あるいは逆に魂振りというかを行い、その場に何かが共振して、見ている側と演じる側とその場にいやおうなく何らかの共振現象を起こしていることが感じられた。

ファイヴ・マイルズ・アウト(紙ジャケット仕様)
マイク・オールドフィールド
EMIミュージック・ジャパン

高野君が開演前の前振りに語っていたユリ・ゲラーのスプーン曲げの話とかマイク・オールドフィールドの「ファイブ・マイルズ・アウト」を引用してカレンダーに晴れと書けば晴れる、みたいな話が、降霊術の霊媒の語りというか、悪場所への客引きというか、トザイとーざいと観客をお芝居に引きずり込む、その技量というか度量にさらに磨きがかかっていたように思った。

いずれにしてもこの芝居はこの場所でやる必然性があり他の場所でやるとこのわけのわからなさが出ないことは必定というものなので、またこの場への執心というかそれもまた高野君の芝居の大きな要素なんだということを、私自身としては初めて明確に認識させられた公園でもあった。しかしまあ相変わらず誰にでも勧められるという芝居ではなかったが。(笑)

ツイッターで高野君とやり取りをしていて、また今日拝見して、ああそうなんだなあと思ったのは、高野君と芝居との付き合いは私の芝居との付き合いよりもずっと長いのだということで、何か私にとってよりずっと彼にとって芝居というものは自分という存在と抜き差しならない関係にあるのだということだった。私の芝居との付き合いは大学に入ってから10年ほどなのだけど、彼は高校時代から、あるいはそれ以前から芝居に関わっていて、私にとって芝居は80年代のある種のかっこよさというか、スタイリッシュなもの、まあもちろんそれにとどまらない「たましいの表現」みたいなものであったのだけど、高野君にとってはそのスタイリッシュ性はほとんど捨象されていて、たましいの表現というよりは「たましいそのもの」みたいなところがあるということを感じさせられた。

劇団12の芝居というのもそういう「かっこよさ」と無縁なところがあり、たぶんそういう部分が高野君と共鳴し合うところがあるのだろうと思うし、ウェルメイド性とか娯楽性とか表現の前衛性とかまあそういうある意味しゃらくさい部分が一切剥ぎ落とされていて(まあ今回は現代詩のプリンセスをお招きしているということもあり、ややそういう意味でのお化粧が皆無だったと言えない面もあったやに思ったが、まあそれくらいはご愛嬌だろう)集まってきた客の前で最後の稽古をしたり「この芝居できんのかよ」と口走ったりしているのは演劇の極北というよりはもうすでにオーロラの彼方という感じなのだが、何というか彼のやりたいこと自体はよりその骨がどんどん太くなっているように感じられた。余計なところがそぎ落とされ、骨だけがどんどん太くなっているというなんだか怖い事態だが、まあそれはそれでいいんだろうと思った。相変わらずいろいろ考えさせられる芝居だった。


【今日買った本】

音楽気質―音楽家の心理と性格
ケンプ
星和書店

終了後駅まで歩き、ちょっと道を間違えたりして5時前の急行で北千住、千代田線に乗り換えて千駄木に出て往来堂で少し本を見、新御茶ノ水まで行って小川町の澤口書店でケンプ『音楽気質』(星和書店、2004)を買い、丸の内線で東京駅に出て夕食の買い物をして、丸善で本を探してピーター・バラカン『ラジオのこちら側で』(岩波新書、2013)を買った。音楽関係、児童書関係の本をいくつか立ち読みして帰宅。

ラジオのこちら側で (岩波新書)
ピーター・バラカン
岩波書店

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