つかもうとするのではなく、そっと触れるという感覚

Posted at 13/04/16

【つかもうとするのではなく、そっと触れるという感覚】

少し低迷していたのだが、だいぶ元気になった。過去の傷ついた記憶はただ封印するのではなく、それに傷ついたということを自分で認めてあげることが大切なのだが、しかし今の自分はすでに傷ついた可哀そうな少年ではない、ということを自覚することもまた大切なことだ。過去にとらわれていると現在に対応できない。そういう意味でも過去の決着はつけられるときにきちんとつけておいた方がいい。

封印を思わず解いてしまってからしばらく、忙しくてきちんと向き合えないでいたのだが、日曜日に酷いような状態になりながらもなんとか月曜にかけて向き合うことができ、今朝になっていろいろ気づきもあったので、だいぶ落ち着いてきている。まだ万全ということは言えないが、指針のようなものも一つ二つ、見えてきている。すべてのことに対応できる指針ではまだないが。

その間にもいろいろなものを読み、いろいろなものに出会った気がする。いや、そういうときほどいろいろなものを取り入れることができるのだろう。癒されるものもあれば元気が出るものもあるし、自分がこういうものが好きだったのだと気づかされるものもある。逆に、普段なら遠慮なく見られるようなものが今はみるのがもったいないと思ってしまうものもある。風邪を引いたときに普段好きなものを食べたくないと思うようなものかと思う。せっかく『進撃の巨人』のアニメが始まっているのに、もったいないことだ。第1回はニコ動で見られるようだし、2回以降は録画or予約したのでもう少ししっかりして来たら見たいと思う。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
村上春樹
文藝春秋

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、こういう状況の中で出会うべくして出会ったという感じのものなのだけど、それだけに読みが個人的に過ぎてしまうところがあると思った。これもamazonで予約してあったから発売日に手元に初版第一冊が届いたのだけど、やはりこういうときに昔の自分からのプレゼントのようにそういうものが届けられるというのはありがたい。傷の再発とかフラッシュバックのように自分が再び痛めつけられ、身動きができなくなっているときに、不思議に向こうからやってくる本にはその時自分に必要なことが書いてあることが多い。

今回向こうからやってきたのは『多崎つくる』以外には定期購読物で、整体協会の機関誌『全生』の4月号、山川出版社の『歴史と地理No.662 日本史の研究240』、スタジオジブリの広報誌『熱風』の4月号の3冊。そのほか、日曜日に食事をコンビニに買いに行ったときに買った『SAPIO』と、アリオ北砂に買いに行ったときに福家書店で買った埜納タオ『夜明けの図書館』(双葉社、2011)、そして昨日日本橋に出て買った桜井章一『体を整える』(講談社、2012)の3冊がある。こうして書いてみるとずいぶんたくさん読んでいるんだなと思う。こういう時にはネットの文章が救いになることはほとんどなく、救いになるのはすべて活字(含むマンガ)だというのも自分がどういう人間かということを含め、何かを示唆しているのだろうと思う。

こういう時はとにかく自分の勘が大事になる。観というか感というか感性というか。触った感じ、とでもいうか。私はどんな時でも「とにかく生きる」ということだけは揺るぎないので、しかし逆にだからこそ危ない時は傷ついた動物のように攻撃的になってしまうので、あまり人に近づきたくない、ということがままある。傷ついた動物が誰も来ない暗がりの中で独りで苦しんで傷がいえるのをただただ待つのと同じようなところが私にはある。逆に言えば、傷をいやすのに必要なものは何でも取り入れる。しかし正直、昨日などでも接せざるを得なかった人に対する人当たりはひどいものだったと自分でも思う。こんなところに書いても仕方ないのだが、申し訳ないと思う。

しかし傷ついた獣が本当に必要なものを求めてその野生の勘だけで必要なもののある場所にたどり着くように、確かに自分はその場所にたどり着いたと思う。自分の心の傷が完全に癒えたわけではないにしろ、その傷によって自分をアイデンティファイするようなことはしたくないから、何が自分が極めていくべき対象なのかを持っておかなければならないと思ったし、ものを書いていくということももちろんそうなのだが、もう一つ、体に対する技というか術のようなものに対する関心を自分なりにできるように身につけていくということがそれなのだと思った。これは本当に感じ方の世界に属すること、結局技とか術とかいうものは感性でしかないと思うのだけど、そういうものをもっと深めていくことこそが自分にとっての方向性なのだということを感じた。

体を整える ツキを呼ぶカラダづかい
桜井章一
講談社

それは、桜井章一『体を整える』に出会ったことが大きい。桜井という人の身体観は前から不思議なものを感じていたが、麻雀というフィルターを通してみている限りではあまりよくわからなかったのだけど、この本はからだのことに集中して書いてあるので、よりはっきりと感じられるところがある。

特に思ったのは、人は何かを「つかもう」とするけれども、力を入れて「つかむ」ことによって逃げて行ってしまうものがあるということ。むしろ「触れる」「そっと触る」ことが感覚を開き、スムースに何かをなせるということの大切さだった。私はもともとそういう感覚は発達している、というか「傷ついた少年」のころ、自分の居場所を求めて彷徨っていた頃に、自分がいていい場所悪い場所、自分があっても大丈夫な人大丈夫でない人、自分を受け入れてくれる自然、人は変わってしまうけれども自然は変わらない、その人が自分に対して安全であるかどうか、その人の言葉を自分の中にいれても大丈夫かどうかみたいな感覚がすごく発達した気がする。そのころすでに、何かを求めてそれに執着する気持ちみたいなものは希薄になっていたから、執着することの危険みたいなものから離れて、触れるという感覚は発達したのだと思う。執着すると、感覚が鈍くなる。逆に言えば、鈍感になっていると思ったら、何かに執着しているということだと思った方がいい。いつも流れるような風を感じる感覚を持ち続けていることが、自分にとって何よりも大事なことなのだと改めて思った。

人として生きていると、知らない間に何かに対する執着が生まれている。知らない間に鈍感になっている。そして何かの巨大な竹箆(しっぺ)返しが起こる。自分は普通の人間として生きてきたつもりになっていて、かなり完璧にそれを熟していたらしく、逆に自分が過去に普通でない時代があったという事実を自分でもそれとわからず不意に表現してしまった時に急に深淵が口を開けてしまったということなんだと思う。その深淵に向かい合うことに最初は心が決まらなくておたおたしてしまったのだが、その深淵の時代に自分が得たものもきちんと数え上げることが、その深淵の時代をただ暗いものとして蓋をしてしまうだけでないことにするためには必要だし、身体の傷のようには精神の傷は簡単には癒えないから、おそらくは時々人の来ない暗い場所で傷に喘ぎながらその傷をいやす過程は必要になるのだとは思うけれども、それもまた感性を鈍らせないためには必要な過程かもしれないということを、自覚しておけばよいのかなと思う。

しかし救いになるのは、結局はからだの感覚なのだなと思う。唯一生きている現実は、この体のある現在であるだけなのだし、フラッシュバックというのも結局心のどこかが固くなることによってからだのどこかが固くなってしまう現象だから、からだの感覚を取り戻すことで対処できるという面もある。人は結局過去と向き合いながらも、現在を生きるしかない。そのために自分にとって必要なのは、常に風が流れるようなさわやかな感覚を持ち続けることだろう。できるだけ執着の生じないように、生じていることに気づいたらそれを洗い流すように心と体を整えながら生きていきたいと思う。

執着がなくても生きることも愛することもできるはずだ。というか、生きることも愛することも、本来執着とは関係のないことなのだと思う。

読んだ本の感想などを少しだけ。

SAPIO (サピオ) 2013年 05月号 [雑誌]
小学館

『SAPIO』で印象に残ったのは小林よしのり「大東亜論8章 杉山茂丸との出会い」だ。杉山という人は夢野久作の父で「右翼の大立者」だという話は知っていたが、伊藤博文の暗殺を企て山岡鉄舟に紹介状を書いてもらうものの伊藤に説伏されて引き下がったとか、頭山満との出会いで九州に産業を起こし鉄道事業を始める案を出し実現させたとかいうことは初めて知った。このあたりの話は坂本龍馬が勝海舟を斬りに行って逆に弟子になった話とかに似ているが、幕末明治の志士というのはそんなものだったのだろうなと思う。

『歴史と地理』では、横浜の山下公園が関東大震災の後の瓦礫の処理のため埋め立てられた海面につくられた公園だったということをはじめて知った。この雑誌は時々へえと思う歴史の真実を教えてくれる。

『月刊全生』では、野口先生の「人の生くる楽しさというものは、苦しむということによって本当に得られるので、ふところ手では本当の楽しさは分からない」という言葉。苦しい時にはこういう言葉が支えになるし、本当にそうだとも思うのだが、自ら苦しさに飛び込む度量のようなものはまだまだだなと思う。多分、急に苦しみに襲われるよりは、自分で飛び込んだ方がその苦しさを楽しさに変えやすいと思うのだが、しかし襲われてしまったら仕方がない、その苦しさの中でどうやって生きるか、「之を避けないで勇敢にぶつかって之を征服してしまうこと」で苦しさを楽しさに変えて行く工夫をしていくということなんだなと思う。まあ何とかなるしなんとかできる。そういう意味では、私は基本的には常に前向きではあるし。

『熱風』では「フィルム」という特集。富士フィルムが映画撮影用フィルムの生産をやめたのだそうで、デジタル化がさらに加速するということなのだが、フィルムであることの意味みたいなものの特集がなされていて、それは面白いなと思う。ジブリでもデジタル化は進んでいると思うが、宮崎駿の意見なども載っていると面白いとは思ったのだが、まあそういうことはまたどこかのインタビューに出るのだろう。彼は意見そのものがコンテンツとして価値のある人になってしまっているからなあ。

夜明けの図書館 (ジュールコミックス)
埜納タオ
双葉社

埜納タオ『夜明けの図書館』。レファレンスサービスの話。夜明けの、というのはつまり調べ始めて夜が明けた、みたいな意味らしい。読み切り4話、『JOUR素敵な主婦たち』という凄い名前の雑誌に連載された作品らしいが、面白かった。タオという筆名から見ても多分そっち系の指向のある人だと絵を見ても思うのだが、作品自体は薀蓄もの。5月に2巻が出るようなので、続きも楽しみだ。

桜井章一『体の整え方』は少しずつ読んでいる。体についての見方、感じ方を少しでも深めていけたらいいなあと思う。

整体入門 (ちくま文庫)
野口晴哉
筑摩書房

昨日イオンに買い物に行った帰りに、古本屋で野口晴哉『整体入門』(ちくま文庫)を見つけたので買った。広めたいと思う本を安くなっているときに買うことはいいなと思った。

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