所有ということ

Posted at 13/04/04

【所有ということ】

真木悠介『気流の鳴る音』読了。最後の方にいろいろな考え方の軸のようなものが提示されていて、いろいろなるほどと思うことがあるのだが、ブログに簡単に書けるようなものでもないのでまた何かの折に書きたいと思う。

ひとつ考えたのが、「所有」というテーマ。「所有」というものを肯定するか否定するかというのがフランス革命の思想、すなわちブルジョア自由主義と共産主義、マルクス主義との大きな違いということになる。ヤマギシズムで無所有一体ということを言うし、所有というものをどう考えるかというのがかなり大きな思想上の問題だと思う。

自他の関わり合いを所有という一点にのみに重点を置くのは疎外された関係だというのはその通りだと思うのだけど、所有という感情、「持ちたい」「手に入れたい」という感情はかなり原初的なものだと私は思うし、それを一概に否定するのはかなり問題があると思う。

ただ、所有のあり方、持ち方、手に入れ方のようなものはかなりその人のセンスが問われる部分であることはたしかで、それがスマートにできるか否かというのはその人の知性とか教養というものが現れる部分なのだと思う。

逆に言えばスマートに所有するための洗練された技が教養というものだとも言え、(まあそれだけではないが)そういう意味で教養というものはブルジョア的だと言えば言えるだろう。

あらゆる感情がそうだけど、その感情に拘泥しすぎるのもかっこよくないし、全然こだわらないのも冷たい感じがする。所有ということが気持よくできる人はカッコイイと思う。手に入れることも、手放すことも、愛用することも、こだわらないことも、自由自在にできる人。そのことにこだわったり、それを守ったり、そのために戦ったりすることもスマートにできる人。見ているだけで気持ち良い人。そういう人になりたいなあと思ったりする。

感動するようなもののあげ方(与え方)のできる人っていいなあと思う。こせつかないものの手に入れ方のできる人もいい。自分がほしいものがほしいと思うのだけど、人が上げたい(買ってもらいたい)ものをもらう(買う)方が感動することが多い。「いい買い物」をするということ。それだけで自分の体系を組みあげることはできないにしても、それらは必ず重要なアクセントになる。

所有ということは否定的にとらえられがちなのだけど、もっと肯定的によい面をとらえたり、その本質的な意味を考えたりすればもっと面白いことが見えてくるのではないかという気がする。所有が否定的にとらえられるのは、えげつない所有の仕方をしている人がいるからだし、所有の多寡が生の質の優劣を決めるような状況があまりにありすぎるからだろう。しかしむしろ、その所有というものの感覚を洗練する方が、たくさんあればたくさんあるなりに、少なければ少ないなりに生を楽しむ術(すべ)につながっていくのではないかという気がする。

今の時点では所有というものは否定するより、それを洗練させることで世界を豊かにする、そういうものとしてとらえて行きたいと思っている。

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