「気流の鳴る音」を読み終える/ヘシオドス『神統記』

Posted at 13/04/02

【「気流の鳴る音」を読み終える】

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)
真木悠介
筑摩書房

土曜から今朝にかけて、いろいろなことをしながら、真木悠介『気流の鳴る音』をずっと読み続けていた。本棚を見たらちゃんと『現代社会の存立構造』の隣に元の本があるのを発見したのだが、中身を見ると線を引っ張ってあるところもあるのだが、全然覚えていないところを見ると、やはり20歳のころ読んだときには何がなんだかよくわかっていなかったのだなと思った。『気流の鳴る音』書中の、「気流の鳴る音」の稿を読了。あとは「旅のノートから」と「交響するコミューン」が残っている。

現代社会の存立構造
真木悠介
筑摩書房

この稿の本編は、人類学者カルロス・カスタネダの、「呪術師」ドン・ファンの下での「呪術師の修行」みたいなことが中心になっていて、そのための道行きを四部に分けたストーリーとその構造がテーマになっているので、ある意味その「物語の中」に引きずり込まれていくような魅力がある。その中で、読んでいる「私」の自分のありようのようなものに対し様々な光が照射されていく、というところが面白いのだが、ある意味「向こう側の世界」に引きずり込まれないようにする注意もまた必要であるように思った。そのことについての注意すらこの本には書いてあって、それは<意志>である、と表現されている。意志とは、向こうへ行くときにも必要だが、こちらへ還ってくるときにも必要なものであると。

書かれている内容として、一番面白いと思ったのが「図柄」と「地」の関係だ。人は常に「図柄」しか見ていないが、よりよく見るためには「図柄」の影にあるもの、「地」を見なければいけないという指摘で、それによって世界がトータルに見えてくるという指摘だ。これは若い頃は本当にぴんと来なかったのだけど、たとえばこういうことなんだと思う。

人は身体を見るときに、器官の方を見る。胃が痛いとか骨が痛いとか。しかし、大事なのはそういう「図柄」を見ることなのではなく、その「地」である気の流れのようなものを見ることなのだ、ということではないか。これは野口整体の考え方だけど、その言っていることに「図柄」と「地」という考え方を当てはめてみると両者ともなるほどと思えるところがある。

またもう一つ別の例で言えば、小説表現においてストーリーとかキャラクターとか会話など、どうしても「図柄」の方を見てしまうけれども、本当に重要なのは「地」である描写の部分、風景描写や人物描写など、その世界を存立させている部分を見ることなのだ、ということなのだと思う。

「図柄」ばかり見ていたらいっかな動かなかったものが、「地」を見ることによって世界が動き出す。そんなことが実際に自分にもよくあったように思う。

最後の、「翼を持つことと根を持つこと」に関しては、あまりよくわかっていなかった部分もあったが、ここで取り上げられている「所有」の問題について、いろいろ考えるところがあった。このことについてはちょっと自分の中で根の深い問題に重なるところがある感じがして、まだきっちりと言い切れない部分がある感じがするので、またもう少し考えて、何かに気付く必要があるように思われた。

「殺される」ことと「奪われる」こと、どちらがより本質的な問題かと言えば、「奪われること」の方がより本質的な問題なのかもしれない、とちょっと思ったりした。生きることの喜びと、所有することの楽しさみたいなものとが、重なる部分。その内実はおそらく、所有という形式よりも、充実しているという内実の方が重要なのだと思うのだが、まだそのあたり、しっくり言葉で言いきれない部分があり、また何かの折にひょっと気づいたりすることなのかもしれないと思う。


【ヘシオドス『神統記』】

神統記 (岩波文庫 赤 107-1)
ヘシオドス
岩波書店

日曜日、日本橋の丸善でハヤシライスを食べた後、本を探したのだがなかったので丸の内の丸善まで行き、ヘシオドス『神統記』(岩波文庫、1984)を買った。少しギリシャ神話のあたりを読んでおこうと思ったので。それからホメロスの方へ行こうという感じもあるのだが、読みと書きのバランスもあるし、『神統記』を読み終えてから考えようと思う。

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