四月は残酷な月/ジャイキリ27/『謎の独立国家ソマリランド』/自己啓発本を読んで感じたこと:ものを教えることのむずかしさ/本当の幸福/自我と執着
Posted at 13/04/24 PermaLink» Tweet
【四月は残酷な月】
今日は雨。ここのところ、天気が良かったり降ったりをくりかえしているのは、菜種梅雨ということなのだろうか。今朝6時前に部屋のカーテンを開けたら白いものがちらついていて、まさか雪かと思ったら、風にあおられて飛ばされた裏の公園の桜の花びらだった。四月は残酷な月だ、というけれども、春というものはある意味、どこの場所、いつの時代でもこうした残酷さを持っているのかもしれない。冬の間家に閉じこもっていた人たちが外に出て活動をはじめるだけでなく、自然もまた閉ざされていた部屋の中から出て猛威をふるう。もちろん冬の豪雪や夏の嵐のような烈しさではないけれども、ほころびかけた人の気持ちを強い雨で打ち付ける、そんなところが春にはあるのかもしれない。
【ジャイキリ27】
GIANT KILLING(27) (モーニング KC) | |
ツジトモ | |
講談社 |
仕事が終わってからツタヤに出かけてツジトモ『ジャイアントキリング』27巻(講談社、2013)を買って帰宅。寝る前に一気読み。この時期のETUは本当に上り調子だったんだなと思う。椿が五輪代表に選出され、一瞬の逡巡のあと前を向く、サポーターグループとフロントとの和解、そうした前向きの話とともに達海へのオファー。そして彼の指導者としての原点が語られる。今連載中のところはETUがどん底になっているので、こういう時期もあったなと懐かしい感じだった。
【「謎の独立国家ソマリランド」】
謎の独立国家ソマリランド | |
高野秀行 | |
本の雑誌社 |
高野秀行『謎の独立国家ソマリランド』読了。面白かった。面白いという意味では、今シーズンナンバーワンかも。『多崎つくる』もよかったけど、これは面白いというのとは違うから、面白さという点では『ソマリランド』はここ数年読んだ本の中でも相当ハイレベルに面白かったと言っていい。日本ではほとんど知られていないソマリ人という民族について、「国際社会に認められていないのに高度な民主主義を実現している」ソマリランドという国を皮切りに、ケニアの難民キャンプや海賊の横行する(しかし実は中身は氏族的ではあるが民主主義の)プントランドや、イスラム過激派アル=シャバーブとの戦闘などで戦闘に次ぐ戦闘の毎日ながら都人の雅さを忘れていない旧ソマリア首都モガディショと南部ソマリア、ディアスポラの人々、さまざまな人に体当たりで話を聞き、文献を調べ、刑務所で海賊の話を聞いたり、現地人と一緒になって麻薬性の作用のあるカートを食べながら議論を繰り広げるという、実際他の人にはまねのできない突貫で、この大著を書きあげた気合と強運は、そう、やはりある種の強運と持って生まれた何かがなければ、この本は書けなかっただろうなと思う。凄いの一言に尽きる。
探検記というものは日本人の書いたものもスウェン・ヘディンのような外国人の書いたものも読んだことはあるが、ここまで現地人と同化しつつ日本人の視点から書いたものはなかなか読んだことがなく、エスノセントリズム(自文化中心主義、つまり自分の視点を一度否定してみるという姿勢が持てない)からどうしても抜け出せない西欧人の書いたものよりも、実際スリリングで面白いと感じる部分があった。まあ西欧人の書いたものもその偏見の現れようが笑える、ということはけっこうあるのだが、それはあまり若い人には勧められる視点ではない。
狭い視点で書かれている、おたくにしろ近代合理主義にしろ、本をけっこう読んでいたせいもあるし、逆に『気流の鳴る音』のような相対化の試みの強い本を読んだこともあるのだろう、こういうものの面白さというのは本当に未知の文明を一から知ったというような、とてつもない面白さがある。ソマリランド民主化の成功の謎みたいなものが随所で解き明かされて行くありさまはまたスリリングだし、そこにある政治家、またある歴史過程があったからこそ今に至っているというのも、ある意味歴史の面白さみたいなもの、政治の面白さみたいなものを再認識させてもらえるものがあった。
【自己啓発本を読んで感じたこと:ものを教えることのむずかしさ】
とある自己啓発本を読んでいて感じたこと。読んでいて何というかどうもいろいろなことを押し付けられているようなイヤな気持ちが湧きあがってきていることに気がついて、そのことについて少し考えてみた。
やはり自己啓発本というものは、結局どうしても押し付けがましさというものが出て来るということ。教科書臭というか、「こうやるのがいいよ」ということでも「こうやってみないといけないかな」という気持ちを起こさせてしまう。というか、起こさせなければ存在価値がないのだけれども。だから、ご飯を食べながらとか読むと、つい効率重視的な姿勢が強くなって舌を噛みそうになる。こういうものは「鋭!」と気合を入れて、静かに学ぶという姿勢で読むべきものだ。読み飛ばしやすく書いてはあるのだけど、やはりこういうものを読む以上何かを吸収しなければというふうにも思うし、現に吸収できるところはいくつもあるのだから文句を言う筋合いではないのだが、どうしても「今ある自分」に問いかけ、「これでいいの?」という疑問を突き付けて来るところはあるわけで、そこのところがやはりどうしてもどこかしらいやな気持がしてしまうのは仕方がないなと思った。
人にものを教えるという仕事は、宿命的にそういうものが伴うもので、やはり根本的に教えられる相手から「うざい」と思われる、ということは知っておいた方がいいし、そのことに鈍感になることはまあ、いい面ばかりではない。特に、「よいことを教えているのだから」という気持ちが強すぎると相手もより強く「うざい」という感じを持つわけで、そこに敏感になった方が返ってちゃんと伝えられるという面があることは考慮に入れておくべきだろう。
易経に、「我童蒙に求むるにあらず、童蒙我に求む」とある。我とは教える側であり、童蒙とは何も知らない蒙(めのみえない)の状態にある童(わらべ)、ということだ。何も知らない側が教えを乞う、ないし目で盗むということが啓蒙の、つまり教育の本質なのであって、教える側が「これはよいことだから」と誰彼なく教えるのは道を外れているということだ。
もともと人というものには学びたいという欲求があるもので、いつでもそのチャンスを狙っている。しかしそれが向こうから与えられるものになった途端、欲求が失われる。そのことに無神経になってはいけないということだ。
このようによくできた本だからこそ、引きこまれて読んでしまって、そこで示される方法について自然に考えている自分が何と言うか気持ち悪いというか、その順応性・適応性に自分でちょっとイヤな感じがしたりすることもある。
人は、その人がよいと思えば、無意識にその人のやり方を取り入れるものだし、やってみてわからなかったら自分から聞くものだ。そう思われてないのに与えようとすることは強烈に「うざい」という気持ちを呼び起こす可能性が高い。
まあこれは、生きるのにあまり必要でないと思われがちな内容を教えたことのある人なら誰でも感じることなのだが、まあ正直いって存在価値は希薄だ。しかしそこで自分の存在価値を正当化しようとするからよけい相手からうざがられる可能性はあるし、まあそういうデフレスパイラルみたいなものに自分も嵌っていたところは否めない。逆に言えばそこで生きていこうとすればそういう「うざさ」に鈍感にならざるを得ない面もあり、私はそういう感受性ではないのでそれは無理だなと思った。向こうが求めて来るまで、つぶやき続けているしかない。
まあ本屋で何となくそういう本を手に取るのは何か自分に必要だということを感じているからで、そういう意味でひとつこの本が教えてくれたことは、「人にものを教える・伝えることでその相手の生の流れを阻害しないようにすること」の大切さみたいなものもあったのだなと思う。
まあこれは自己啓発本と言われるもの全般に感じることであって、この本がよくできているからこそそういうことを感じたのだということはちゃんと書いておきたいと思う。
しかし、たとえば桜井章一の本などを読んでいると、言っていることは似たようなことであったりするのだが、そういう感じは持たない。桜井章一のような人にはやはり憧れを持つので、その人を真似てみたいとか、その人の考え方を学びたい、聞いてみたいと思うから、自分から聞こうとするのだ、ということに気づいた。逆に、言いたいことを押し付けている、とか押し付けがましい、と言われがちな人は、そういう憧れられる自分の人間力をもっと磨いた方がいいということでもある。まあ憧れられ方にもいろいろあるが、やはり物静かだけれども奥行きのある人、というのがある意味自分の理想だし、そういう人に近づけたらいいなあと思う。現実の自分の本質はそういうものとは違うということはけっこう分かっては来ているのだが。
でも、こういうことからわかるのは、ものを書くことの難しさというか、はじめて私の書いたものを読む人は私のことはよく知らないということを前提に書かなければいけないということだ。著名な著者であっても、普段書いている、発言している内容とフェイスブックやツイッターでの発言とがかなり乖離している人がいるが、万人向けに書いている内容と、フランクなSNSでの発言内容ではかなり異なるようになる。SNSでは一応自分のことは理解されている、ということが前提となる発言がほとんどだが、逆にそれを読んで誤解したり幻滅したりすることも多いだろう。逆にSNSでの発言が面白からとその人の著書を読んでみたら全然つまらないということもよくある。SNSでの発言は感覚的になりやすいから、その感覚に共感してフォローしたりするのだけど、まとまった文章になると意志や主体、世界観みたいなのが思いがけないことがあって、残念に思ったりする。逆に文章を読んでこの人の感覚はつまらないなあと思っていた人がSNSでの発言を読んでこんなに面白い人だったのかと思うこともあるし、まとまった文章や作品ではなるほどなあと思って読んでいても、SNSではあまりに羞恥心が強すぎたり自分の感覚をそのまま書くことへの抵抗のみが示されていたりして、がっかりすることもある。
ツイッターをしていて思うのは、世の中には面白い感覚を持った人がすごくたくさんいるということと、その感覚を面白い作品に結び付けることがいかに難しいかということ。まあだからこそ頑張らなければいけないと身を引き締めたりはするのだが。
【本当の幸福】
今考えていることを少し書いておこうと思う。野口整体の考え方に、『全生』という考え方がある。これはまあ、健康というような意味で使われることもあるのだけど、ただ健康というと病気でないことと思われがちだがそういうことではない。身体の状態というのはいつも変わっているし、自分がいる周囲の状態もいつも変わっているのだから、身体はその状態を感じつつ常に良い状態へ自分を持って行こうとするし、そういう力をもともと持っている、と考えている。そして何か(いわゆる病気とか怪我とか)を経験するたびに、乗り越えて強くなって行く、そういう力がみなぎった状態が全生だ、と言ってもいいかもしれない。人はいずれにしろ死ぬ時が来るので、死ぬときが来ればきちんと死ねばいいのだが、そこまでできれば生を全うしたということになるだろう。病気を感じない無神経な状態、鈍感な状態が健康なのではなく、何か問題を身体が感じたらすぐにそれを回復できるはたらきがいつもみずみずしく働いている状態が健康、ないし全生だということだと思う。
で、結局、「幸福」ということもそれと同じことではないかと思った。つまり、不幸がないこと、困難がないことが「幸福」なのではなく、いろいろな問題を感じ取って、それを自然に回復して行く力を持っていることが幸福なのではないかと。人には仏教的に言えば生老病死という避けがたい不幸、ないし苦しみがあるし、そのことに突き当たっていつまでも立ち直れないのであればその状態は幸福だとは言えないだろう。逆に一時的にすべてが順調に言っている、ように見える、つまり鈍感が故の健康と同じように、悪い状態を見ないようにしているが故の幸福のようなものは、常にいつ失われるか分からないというそこはかとない不安と同居せざるを得ないということになる。
しかし、何かの問題に突き当たり、今の自分の力では解決できなくても、自分の力で何とか乗り越えていく、そのことにより新しい力が付き、強くなって行く、そういう力のもとになる力みたいなものを持っている状態が、本当の幸福なんだというふうに考えることもできると思った。
まあ幸福という言葉は多義的なもので、自分自身が幸福であればそれで幸福か、周りはどうでもいいのかと言えばそうもいかない。それは自分だけ健康であればいいかと言えばそういうわけにもいかないという健康の問題ともつながる。野口整体では自分の健康を回復する方法として活元運動というものがあるが、それだけでなく相手の生きる力を呼び起こさせる愉気という方法、また自分では上手く回復できない状態になっている人に施すことでその人の力を呼び起こす操法という方法もまたあり、活元運動と愉気は基本的に誰でもできるのだが、操法はやはり修業して身につけなければならない。しかし基本は自分が健康であればいいというわけではなく、周りの人もまたそういう力を呼び起こし、自分で生きる力を回復できるようにするということだ。
だから幸福というものもそういうものだろう。自分で自分の困難を乗り越える力を持つことがまず自分にとっては第一ではあるが、それだけではなく人が困難を乗り越えられる力を持つように勇気付けたり、その力を失っている状態の時にそれを取り戻すような援助をしたりすることは必要だろうと思う。現在でもいろいろな方法はあるけれども、まだまだ十分に洗練された方法はないだろうし、健康ということならどういう生活をしていても関係して来ることだが、幸福という問題は生き方そのものに絡んで来るので、そう一筋縄にはいかない。人間の健康状態は千差万別だが、それ以上に人間の生き方、生きている状態はものすごく多岐にわたっているわけで、一人として全く同じ条件はないだろう。
救済というのは他力本願に思われているけれども、本当は究極的には自分自身の生きる力が回復されることだと思う。まあ残念なことに人間は自分の生きる力を発揮することで人の生きる力を阻害するという場面がごく日常的に起こるわけで、そこに生きることの根本的な困難があるから、人の幸福というのはどうしても、個人的な側面だけでなく社会的な側面が常に伴うことは避けられない。そこが幸福という概念が社会学的にもまた検討されなければならないということを示してもいるのだろう。
本当にすべての人が幸福に生きられる社会が来るのかどうか、それは分からないが、仏教の上での理想はそういうことだし、菩薩という存在はその誓願を立てた人ということになる。宮澤賢治もまた、「世界人類が幸福になるまで、個人の幸福はあり得ない」と言っているが、それはもちろん幸福には個人的側面だけではなく、社会的側面もまたあるからだ。
【自我と執着】
ここで立ち上がって来るのが執着の問題だ。というか根本的には自我の問題といってもいいかもしれない。自我というものを人間が持つことによって、愛とか不安とか怒りとか苦しみとかそういうものが立ちあがり、愛するものに執着し、失われる不安を覚え、自分を損なおうとするものに対し怒り、求めるものが得られないことに苦しむ。
あ、そうか、今気づいたが、生老病死という四苦は人間という生物が生物として本来持っている条件から来る苦しみなのだが、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦という四つは人間に自我があるが故に発生する愛着・執着の苦しみなのだ。なんか実際、自分がいかに自我というものにちゃんと関心を持ってなかったかということがわかる。
まあつまり、仏教ではそういう執着をある種の病ととらえ、それを離れることで生きる力を回復する、悟りを開くというところがポイントなのだと思う。まあそれは確かにそういう面はあるだろうと思う。少なくとも、一度それを客観化して自分から離して見れば、自分の状態が見えて来るということは確かだと思う。
最初の四苦に関しては生命観の問題だが、次の四苦に関しては自我観の問題になる。自我を主体と考える立場からは自我が執着してしまう問題に関してはあまり徹底的な対策がとられていないような気がする。まあ仏教でもキリスト教でもそういう苦しみを離れる最終的な解決策としては世俗を離れる、禁欲の戒めを持つ(仏教では受戒・カトリックでは修道誓願を立てる)ということになる。仏教の五戒とカトリックの清貧・貞潔・服従の三つの誓いは共通するところもあるが、やり方としてはかなり違う面もある気がする。いや、この辺になって来るとよく知らない局面に入って行くのだが。
まあそういうわけで、自我の執着を放つということについてはまあいろいろな問題、側面があるのだが、かなり高度な問題がいろいろ絡んで来るし、「個」というものの意味にも関係して来る。見田宗介『自我の起原』はまだほとんど読めていない、というか読み始めるきっかけを作るのにこういう思考をしているというようなものなのだが、自我というものが「派生的な」、よく言えば「高等な」存在だ、という『二千年紀の社会と思想』の指摘は面白いなと思い、逆に言えばより原初に戻れば「個」というものはより混沌の闇の渦の中に沈んでいく、そういう存在であり、動物よりもより「進化」した人間であればこそより「個」の利害に峻烈になる、ということだということになるのだろう。
だから一度そういう原初の混沌の中の一体性を剥奪されてしまった人間が殺し合わないで済むためには「社会性」という「本能に代わるもの」を持つしかないということになり、人間のあり方もまた本能に基づいて構築されるべきか、理性に基づいて構築されるべきかという二つの理論が出てきて、まあそれは『気流の鳴る音』の中ではアポロン原理、エロス原理、ニルヴァーナ原理の三者の鼎立として語られている。
まあそういうわけで「個」という問題、「自我」という問題、「執着」という問題を考え始めると小さいシールの裏に全世界がひっついて来るようなとんでもない重さというか、マグリットの空飛ぶ石の上の小さなお城みたいな、お城は小さいが岩はでかいぞみたいな話になって来る。
まあ現実問題としては自我の執着を切ったりそのままにしたりいろいろな対処がなされているわけだけど、まあそこらのところで軽快さというか、あまりとらわれないで動いた方がいいんじゃないのという感じが、まあ私はしているところがあるのだけど、まあまだ何とも言えない。自分の中にある解決できてない問題もまた、そういうところと関わって来る部分があるわけだから。
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