大塚英志『サブカルチャー文学論』と真木悠介『気流の鳴る音』

Posted at 13/03/29

【大塚英志『サブカルチャー文学論』と真木悠介『気流の鳴る音』】

今日は朝からいろいろ仕事があってものを書く時間があまりとれなかったのだが、さて一段落と思って別の仕事にかかったら、また別の課題が浮かび上がってしまった。なかなかどうして、いろいろある。

サブカルチャー文学論
大塚英志
朝日新聞社

amazonから本が二冊届いていた。1冊は大塚英志『サブカルチャー文学論』(朝日新聞社、2004)。江藤淳が文芸時評をやめた時の言を取り上げて、全体文化⇔部分文化(サブカルチャー)の対立から、全体文化からの視点というもの、あるいは全体文化への視点というものについてまず取り上げていて、なるほどサブカルチャーというもののとらえ方を上位文化に対する下位文化という階層的なものととらえるのではなく、全体への視点の欠如という形でとらえているのが面白いと思った。まだ30ページほど。(いまアマゾンのサイトを見て文庫化していることを知った。文庫の方を買えばよかった)

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)
真木悠介
筑摩書房

もう1冊は真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫、2003)。この本は元の単行本を大学1、2年ころに読んでいるのだが、当時はほとんど理解できなかったのだけど、いま読むととてもよい本だなと思う。なんというか、自分が大事だと考えていることが丁寧に書かれている感じがして、このあたりの感性のみずみずしさが自分にとっても一つの出発点だったんだなと思ったりする。おそらく、当時はまだ一般的になっていなかった価値観が、現代にはおそらくは著者の影響等もあってかなり多くの人に支持されるようになっていて、ある意味この本に書かれていることが実現している部分もあるからこそ、容易に、また深くこの本の世界を理解できる、ということもあるのではないかという気がする。こういう世界が書きたかったんだよなあ、という世界の表現。失われてしまったものもあり、まだ実現していないものもあるが、その間にある「いま」は、何かが確実に実現しているし、また失われてしまったもの、あるいは失われてしまいそうなものを愛惜する何かも育まれていて、ある意味温かい気持ちにさせられる。この本もまだ35ページほど。

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