『気流の鳴る音』/トランスジェンダー/空白を埋める

Posted at 13/03/27

【『気流の鳴る音』】

個人的な気づきはたくさんあるのだが、あまりに個人的過ぎてあまりブログに書くネタにならないのだけど、敢えて少し書いてみようかと思う。

気流の鳴る音―交響するコミューン
真木悠介
筑摩書房

最近、自分にとって重要というか、影響を与えられたものを見直そうと思っているのだけど、特に大事な存在が河合隼雄と橋本治だ、ということは思った。評論の面では呉智英とかもあるのだけど、子どものときからの影響という意味でいえばC・S・ルイスなどもそうだ。しかし、今自分がこういう人間であるということに関して言えば、真木悠介(見田宗介)『気流の鳴る音』という本とその著者の主宰した見田ゼミの合宿というものの影響はかなり大きいと思った。私がはじめて活元運動を体験したのもこの合宿だったし、世界のとらえ方のような面でもさまざまな影響を受けた。まあその本から影響を受けたのもその前段階があるのだが、そのあたりは少し話が立て込むので今回は書かない。

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)
竹内敏晴
筑摩書房

演劇でいえば野田秀樹と唐十郎、という影響は公言できるのだけど『言葉が劈かれるとき』の竹内敏晴については書きにくい感じがあって、それは見田ゼミのことを書きにくい感じと少し共通している。それは、「たましい」の問題みたいなことへのスタンスにも関係することだからかもしれない。

ただこのあたりのところに、自分が感じている世界をかなり肯定的に見ていいのだという感じが与えられたところがあって、それは高校のときまでの自分の出自にある座標軸が与えられたということと、二つの問題が交錯しながら在ったのがその問題で、それに加えてさらに演劇とか言葉とか体の問題が重なってきて、よく考えてみると自分にとってとても重層的に重要な位置にこの本はあるのだということを認識した。かと言って、私がゼミに参加したのは1年だけだし、この本も本当に読了しているかどうかすらあやしい。何と言うか、自分の中でいくつもの問題が重なっているところであるからか、出来れば素通りしたい感じみたいなのが自分の中にあったことに気がついた。

しかしとりあえず、自分というものをきちんと考えるには、避けておくと分からなくなりそうなポイントでもあるから、敢えて自分の中でもう一度位置づけなおさないといけないなあと、思ったりしている。

同時代の中で、あるいは自分の周囲の人たちとも、ある程度共通する教養というか文化というか風潮のようなものとしてそれらはあったので、何かその基盤自体の評価みたいなものが、自分の中でまだよくできていないということもあるのかもしれない。いずれにしても、みていかないといけないなあと思う。


【トランスジェンダー】

『ぼくらのへんたい』のことばかり最近書いているのだけど、同性愛とか異性装とか言う問題は自分の中でも実際に実行するかどうかはともかくけっこう関心のある問題だということ、つまりトランスジェンダーというテーマが自分の中でやはり素朴な疑問のような形で存在しているのではないかと思った。というのは、自分の過去の作品について考えていて、考えてみたら『大聖堂のある街で』という作品はまさにそのあたりのところを一つの題材にして書いているのだということに今更ながら気づいたからだ。まあこの作品はいろいろなテーマというか気になることを押しこめていて世界としては好きなのだけど緊張感の持続という点でどうかなというものではあるのだけど、トランスジェンダー感のようなものが一つの基調にはなってるなと思う。

いろいろな形で自分の書いたものを振りかえることで、自分がこれから書くべき作品が見えて来るところがある気がする。


【空白を埋める】

リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)
大塚英志・東浩紀
講談社

最近大塚英志をよく読んでいるのだけど、この人とは考え方が全然違うとは思うのだけど、世の中のとらえ方みたいなものがなるほどと思うことが多い。いま主に読んでいるのは東浩紀との対談の『リアルのゆくえ』なのだが、この本を読んでいると自分の中で空白になっていた90年代から0年代の前半ぐらいの時期が、だいぶ見えて来る気がするし、その中で生まれて来た新しい言説や若い人たちの言論の、なんだか自分にとって全然意味が取れないことなども、だいぶとらえやすくなってきたように思った。

権力のとらえ方が、マルクス主義的な対立概念でとらえるのでなく、マーケティング的な無意識への作用によって抵抗なく思い通りにして行くものに変化している、という指摘はふうんなるほどと思ったし、言説にしても本当に商品として消費できるものだけが取り上げられている傾向が本当に顕著になっているんだなと思う。

また、人間の嗜好性のさまざまな分化の結果、むしろお互いに理解できない層に分裂しつつあり、それが『セキュリティ』という感覚の肥大化に結び付いているのだという指摘もなるほどと思った。そしてそれがナショナリズムの言説と大変親和性が高いという指摘にもうなずかされた。自分の中で、この二つの感覚がものすごく肥大化した時期があったから、それはすごくよくわかる。この問題をどうとらえ、「自由」や「多様性」とどう両立させていくかは、確かに重要な問題だと思った。

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