ふみふみこ『ぼくらのへんたい』と世界文学または現代アート:逃れられない三つのもの、「死」と「セックス」と「国家」/『さきくさの咲く頃』『そらいろのカニ』:愛の不可能性より愛の可能性
Posted at 13/03/26 PermaLink» Tweet
【ふみふみこ『ぼくらのへんたい』と世界文学または現代アート:逃れられない三つのもの、「死」と「セックス」と「国家」】
ぼくらのへんたい(1) (リュウコミックス) | |
クリエーター情報なし | |
徳間書店 |
ふみふみこ『ぼくらのへんたい』が面白い、ということはもう何度も書いているのだけど、それではなぜ面白いのか、と考えてみる。ふみふみこはそれまでの作品でもずっと性的マイノリティを扱った作品が多い。今少し読み始めた『さきくさの咲くころに』も従姉妹の女の子と付き合ってはみたものの、本当は男の子の方が好きだった、という男子が出てくる。そのことについての怖さ、後ろめたさみたいなものもありながら、あっけらかんと自分の欲望に忠実だったりするところもあって、作者のセクシュアリティがどういうものかはわからないのだけど、それでも彼女がこうした問題を「逃れられないもの」としてとらえているのがよくわかる。
おそらく彼女にも、何かよくわからないけれども、何か「逃れられないもの」があるのだろう。いやもちろん、すべての人間には「逃れられないもの」がある。表現者が描くものとしては、そういうものが描いてあるから面白い、ということはあるのだろうと思う。読むのが辛い時もあるくらいだから、描くのはもっと辛いのではないかと思うし、『コミックリュウ』の連載を読んでいてもおまけマンガでストレスゆえか「涙が止まらない」などの症状が出ている、というようなことが描いてあったりした。
まあただそういうものが描いてあっても読んでて辛くなるばかりではなかなか読む気がしないけれども、この作品は前にも書いたようにすごく華がある。ツイッターでほかの(男性)マンガ家が「登場人物の男の子たちを好きになってしまう」と書いていたのだけれども、これは本当によくわかる。そして彼らのおかれた状況が、中学という一番閉塞しやすい場所だということもあるだけに、閉塞した自由でない中で懸命に生きている健気さのようなものが描かれていて、そこにすごく魅かれるものがあるのだろうと思う。
考えてみたら、世界文学、すなわちローカルな文学ではなく世界性を持つ文学というものは、人である以上それから自由になれないという問題を扱っているもの、ということがあるのだと思う。これは村上隆がアートに関して書いていたことと共通するけれども、つまり「死」と「セックス」と「国家」という、現代に生きる人間がそれから自由になれない三つの問題を扱っているものが世界性を持ちうるのだと思った。
そう考えてみると、世界文学と言えばすぐ東ヨーロッパの作家たちが思い浮かぶ理由もよくわかる。死と国家には、彼らは十分翻弄されただろうし、またセックスの問題も東ヨーロッパ系の映画を見ているとかなり深刻なレベルでとらえられていることを感じることがよくある。
もう一つは幻想という問題、マジックリアリズムといったものがあって、これはポストモダンなんだかプレモダンなんだかよくわからないところがあるが、人々が半分は現実として受け入れているある種の幻想性のようなものが多分、中南米やアフリカの作家たちは持っていて、そのあたりが近代の行き詰まりを突破する何かの手がかりのようにとらえられているのではないかという気がする。幻想を持たない民族はないし、またそれに共通する元型的なものがあるという思想からハリウッド映画や日本のアニメが成功しているというのが大塚英志の分析だが、ラテンアメリカの幻想はもっとローカルな感じがして、ちょっとあまり実感としてわからない。タブッキの持つ幻想性みたいなものの方が理解できるのは、自分という幻想を日本人である私もまた共有しているからかもしれない。
まあこの辺は踏み込んでいくといろいろバリエーションは出てくるだろうけど、そういう世界性を持ちうるテーマというよりも、人間が共通して逃れられないものであるところの死とセックスと国家、を軸に考えたほうが分かりやすい気がした。
特にどうしても逃れられないテーマがセックスなのだろう。『ぼくらのへんたい』ももちろんそこに逃れられなさがあるわけだけど、現代の日本の場合はそういう性的マイノリティでもなければその問題はそんなに深刻にならない感じがする。しかし、ヨーロッパの作家たちが本当に異形の神に仕える司祭のような深刻な表情でこの問題を扱っているのを見ると、なんだか彼らはセックスというものを憎んでいるんじゃないかという感じがしてくるところがある。多分それはキリスト教文化の影響が大きいのだろう。憎みながらも愛している、そういうものとしての逃れられなさが、彼らの作品を読んでいて感じられることが多い。
アニメやキャラクターの立った小説のように物語構造で世界性を求める考えもあるだろうけど、正統的な文学の上ではやはり扱うテーマこそが重要である(もちろん描写や構成だって重要だけど)ことが多いのではないかと思うし、何が「世界の人が逃れられない問題なのか」ということを考えながら作品をつくるということが、その作品に世界性を持たせるために重要なことなのだろうと思う。
会田誠作品集 天才でごめんなさい | |
会田誠 | |
青幻舎 |
日曜日に見た会田誠の作品は、まさにその死とセックスと国家の問題の作品化だった。しかし、それを見てだから何だというのか、というのがよくわからなかったのだけど。その辺、ちょっと上手すぎるのが逆に訴える力の弱さになっている点があるような気がした。テクニック的に上手なので、ついそっちの方を見てしまう。バイオレンスジャックの人犬みたいな女の子たちの絵はやはりグロテスクでショッキングではあるのだけど、バイオレンスジャックの方がより根源的なものがあった気がする。オオサンショウウオや滝の水と戯れる女の子たちの絵は、むしろ生命の根源への帰還みたいな意味があるのだろうか。
いずれにしても現代アートというものは、そのあたりのところに取り組まざるを得ないところがある。生きる意味、この世に生きていることの意味の根源を照射する作品であることが、どのジャンルにおいても現代アート、音楽、文学、エトセトラの一つの大前提になっているのだろうと思う。そこから同バリエーションをつけていくかはそれぞれの自由ではあるのだけど。
【ふみふみこ『さきくさの咲く頃』『そらいろのカニ』:愛の不可能性より愛の可能性】
なんとなく読めないでいたふみふみこ『さきくさの咲く頃』(太田出版)と『そらいろのカニ』(幻冬舎コミックス)を読了した。これは昨年、ふみふみこの作品が出版社を超えて「三か月連続刊行」されたときのもので、初回限定描き下ろしペーパーがついていた。今年1月発売の『ぼくらのへんたい』2巻がリュウコミックスだから徳間書店。まあ漫画の世界ではそうメジャーとは言えない出版社だが、それでもそれをまたいでキャンペーンが行われるということで時代は変わったなあと思った覚えがあった。
さきくさの咲く頃 | |
ふみふみこ | |
太田出版 |
『さきくさの咲く頃』は一冊一話の作品で、主人公の女の子とその従姉妹の男女の双子をめぐる話。主人公の女の子がその男の子の日常を双眼鏡でのぞくという習慣があったり、その男の子が男の子のことが好きだったり、といろいろあるのだけど、『そらいろのカニ』に出てくる様々な性癖の人たちも含め、マゾヒストや同性愛者だけでなくのぞきも露出狂も結局はある意味「性的マイノリティ」なんだよなあと思う。同性愛者の権利は認められる方に動いているけれども、幼児性愛者の権利が認められるようになる可能性は近代民主主義国家ではまずありえないわけで、セックスの問題というのは常に慣習や権力との対立の可能性を内包しているということを改めて思わされる。
ストーリー自体はまあ高校生の青春なのだけど、そういう問題を絡めながらもすっきりとした読後感ではある。三人の進路がそれぞれこれからどうなるの?的な感じで終わっているのになんだか爽やかなのは、なんというかある意味作者の人生を肯定する感じというものが現れているように思い、好きだなあと思った。
そらいろのカニ (バーズコミックス スピカコレクション) | |
ふみふみこ | |
幻冬舎 |
『そらいろのカニ』は、エビとカイが生まれかわり死にかわり、何度も出会って愛しあい、というか関係を持ちあうという話で、不思議な輪廻転生譚。女子修道院での同性愛から愛人を座敷牢に幽閉する主人の話、性別のない世界で愛しあう二人や、セクサロイドを作ったマッドサイエンティストなど、「あなた」と「わたし」が様々なものに置き換えられて愛すること、交わることとは一体何なんだろうと答えが出ないまま展開していく話。読んだときにはよくわからなかったが、こうして書いてみるとだんだんそうかこういう話なんだよな、という気がしてきた。その輪廻転生性と、愛を扱っているというところが手塚治虫の『火の鳥』のようではあるのだけど、手塚の作品に感じる「愛の不可能性」よりも、「愛の可能性」の方に重きが置かれている感じが好きだ、というかより現代的で新しい感じがすると思った。
火の鳥 1・黎明編 | |
手塚治虫 | |
朝日新聞出版 |
「男とか女とか、そんなに大事なこと?」というのは『ぼくらのへんたい』の4人目の男の娘、「ともち」の発言だが、『そらいろのカニ』を読んでいると、明らかにふみふみこ自体がそういう感覚を持っているのだと思う。それがすべてではないだろうけど。それに対して「まりか」は、自分の男としての肉体に感じる違和感、女の子になりたいという気持ちは大事なことなの、という。歴然と男だけど、決然と女である、という、ある意味一番「弱い」まりかが一番「強い」というパラドックスが露わされているのだが、「男であるとか、女であるとか、そんなに大事なこと?」という疑問自体がやはりふみふみこにとっても大事なことなんだなと思った。
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