未来を明るいものにするために、力を抜いてみようと思う

Posted at 13/03/16

【未来を明るいものにするために、力を抜いてみようと思う】

美男へのレッスン 上巻 (中公文庫)
橋本治
中央公論新社

橋本治『美男へのレッスン』上下(中公文庫、2011)読了。面白かった。まだ3月だが、今のところ2013年に読んだ本で一番おもしろかった。文庫化は2011年で、元の本は1994年だからすでに19年前の本で、この本を読みながら当時の橋本の活躍をネットでチェックしてみると、私が彼の本を一番読んでいたのは80年代後半だけど、彼が一番活躍してたのは90年代なんだなあと思った。

どこかでも書いたが、私にとって90年代はいろいろな意味で「失われた10年」で、暗い記憶はたくさんあるが、その当時何がはやっていたかとか文化の第一線に関する記憶のようなものがほとんどない空白の時期なので、その頃に橋本治が実はけっこう派手な活動をしていたということも全然記憶にない。今調べて見てサイケ歌舞伎『月食』(動画が出ます)とかなんだかすごいものを横尾忠則の美術・宮本亜門の演出でやっていたりして、こりゃあ80年代からバブルの悪ノリのなれの果てというか、凄いところまで行ってたんだなあと思った。

そして1994年という年は、一連のオウム真理教事件と阪神大震災の前の年でもある。この文庫化が東日本大震災の(おそらくは)直前に為されたというのもなんだか奇しき縁(発行日は大震災以降になっているが)だなあと思うが、やはり私の中で1995年という年は、私の人生の中での日本社会史の前半と後半を分けるような年だなあという意識がある。つまりそれまでは何とか保っていた高度成長からバブルの、80年代文化の残光が、ついに息の根を止められた年、という印象なのだ。個人的にも悩みのどん底にあったということもあるが、やはり何かが本当に崩壊した年、という感じがある。それ以降も住専ショックや911同時多発テロ、イラク戦争やリーマンショック、そして2011年の東日本大震災と原発爆発というSF的悪夢の破滅に至るまで、まだ崩壊の過程はおそらくは完全には終わっていないというのが実際のところだとは思うが、ただ1995年が何らかの分水嶺になっているような気はする。

まあ暗い側面だけを見ていれば暗い時代は続いているというか、ある意味始まったばかりというふうに見えなくもないけれども、明るい側面というかまだよくわからないけど新しい時代、新しい創造もまた崩壊と同時に始まってはいるわけで、私自身も1995年ごろからすでに自己再生の試みにトライするようにはなっていた。1996年に大学院の修士課程に入ったり、(つまりその準備は94年ごろからしていた・99年に修了)98年にシングルに戻ったり99年に無職に戻ったりインターネットで詩を書き始めたりネットでのやり取りをはじめたり、さまざまに文章を書いてさまざまに応募したり、短大の講師をはじめ、日本近代史の勉強をはじめたり塾の仕事をはじめたり、さまざまに試行錯誤を続けていたのが95年以降で、ようやく最近になっていろいろ少しは見通しが見えて来たようなところがある。95年から考えてももう18年も経っているわけで、その年に生まれた子供ももう大学生になるくらいの間、試行錯誤を続けていたというのもなんだかすごい話だと我ながら思う。

いつの日か、どこかで、「未来は暗いもの」と見定めてしまった(誤認だが)ところがあって、未来のことを考えても暗くなるから未来のことを考えるのはやめよう、と思った時があった。その時から未来について考えなくなっていたために、最近ようやく未来のことを考えようという気になってから自分の中を点検してみるとものすごく悲観的な未来観を持っていることに気がついたのだった。

未来は暗いかもしれないけど、それでもそういう未来を少しでもよくするためには、今現在のことだけをしっかり考えて、それを充実させていくことが唯一の道なんだと思い定め、それを実行してきた。なかなかうまくいかなくてそのために試行錯誤がすごく長くなってしまったけれども、「今を充実させていくことが未来を切り開く道である」ということ自体は間違ってないわけで、それを理解できたことはよかったと思っている。

まあしかしそれは未来をよくするための必要条件ではあるけれども、十分条件ではない。未来はやはり未来のことであって、現在をよくすれば未来も絶対によくなるわけではない。未来は未来のこととしてまた考えられるべきであるのもまた事実ではある。

「未来を知ることができたらどうするか」あるいは「どうするべきか」ということについて、実は全然考えたことがなかったということに最近気がついた。未来のことを考えていても、願望とかそういう漠然としたもの以上に現実と同じ手触りを持ってこうあるような未来、というようなことについて考えたことがないというのもまた問題だなあと思った。時間軸の中で過去から現在を経て未来への全体像みたいなものは、たぶん描けないことはない。もちろんその描き方は人によって違うだろうが、だいたい過去や現在というものをどうとらえるかだって人によって違うのだからそういうのはある意味当たり前なのだ。

そういう未来というものを読みとり、描くときに、どうすればいいのか、ということを考えているときに、一つ思ったのは『力を抜く』ということだった。

逆境にあると人は耐えるので、どうしても力が入る。試行錯誤している間も何とかしようとしているから、やはり力が入ったまま抜けない、という状態になりやすいのだろう。私もいつも頭を使い過ぎだとか力が抜けてないと整体に通って言われている人間なのだけれども、今後は『力を抜く』ということがひとつ大事なことになって来るように思った。

身体の力を抜く。その方が柔軟にいろいろな出来事に対応できるし、結局は自分の身を守ることにもつながる。頭の力を抜く。その方が型にはまった思考でなく、感受性を生かして柔軟に物事を実現して行くことにつながるし、もっとすらすらとものを書けるようになるだろう。

そして力を抜いた臨機応変の身体と心で未来をいわゆる虚心坦懐の状態で見ることができれば、もっと未来というものが鮮やかに見えて来る、ということを思うようになったのだった。

力を入れることによって身を守るのではなく、力を抜くことによって柳に風というかふっとすり抜ける、みたいなことは芝居をやってる頃はもっと容易にできたものだが、教員時代に愚直にぶつかっていくみたいなことをついやってしまったために変なことになったんだなあと思う。考え方についてもやはり同じことだなと思った。

そんなふうになる前の自分のことを考えて見ると、私という人間はもともとやたらと楽観的な人間だったのだ。楽観的過ぎるのを戒めるためにさまざまな困難が自分を襲ったんだろうなあとは思うけれども、そういうことに過剰適応しすぎてきたということはあるなあと思う。

良くも悪くもさまざまな経験をしてきたということで感じ方考え方が広くなっているという点を生かしながら、自分の力が生かせていけたらいいなあと思う。

『美男へのレッスン』の内容、何にも書いてないけど、実は以上のようなことを考えるのに凄く大きな影響を与えられている。それだけでなく、まあここには書けないような現状認識に関することも、凄く影響を与えられているので、まあなんだか思いついたときにまた少しずつでも書けたらいいなとは思っている。

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