美しい男とはどういうものか:橋本治『美男へのレッスン』を読み始める

Posted at 13/03/11

【美しい男とはどういうものか:橋本治『美男へのレッスン』を読み始める】

美男へのレッスン 上巻 (中公文庫)
橋本治
中央公論新社

丸善丸の内本店で橋本治『美男へのレッスン』上下(中公文庫、2011)を買った。ついでに文房具のコーナーを見たら、今まで丸の内店では売っていなかった原稿用紙ノートを売っていたのでそれも買った。帰りにM'sでビーフシチュー弁当を買って帰った。昼にカレーを食べたということをなぜ失念したのか、夕食を食べながら不思議に思ったのだが。

最近、橋本治という作家の自分の中での重要性を再認識していて、でも実はそんなにたくさん読んでいるわけではないので、橋本の本の中で今読んで一番面白そうなものを買おうと思っていくつか立ち読みしてみて一番面白そうだったのがこの『美男へのレッスン』なのだが、うちに帰って読み始めると思った通り、というか思った以上ににやにやゲラゲラクックッという感じの始終いろいろな種類の笑いが込み上げる本だった。現在上巻95ページまで。Lesson22まであって今のところLesson3まで読み終わったところ。

美男とはいかなるものか、という「難問」に橋本がああでもないこうでもないと言いながら主にトニー・カーティスを軸に話を展開している。私はこの俳優をよく知らないのでネットで検索しながら読んでいるわけだが、他にもルドルフ・ヴァレンティノや歌舞伎の市川寿海などについても論じられていて、例によって教養に満ち溢れた橋本の縦横無尽の評論芸が展開されていく。

例によって橋本は美男とは何かということについていくつかテーゼを上げていくのだが、論証の中でしょっちゅうそのテーゼを改変していくので、いちいちそれを真に受けていてはだめなのだ。にやにやしながらそれを読まなければならない。で、美男とは何かということなど、実は「どうでもいい」ことなので、(いや美輪明宏とかはものすごく真剣にそれを論じているけど)そのテーゼは実にそれぞれが魅力的でばからしいのである。

一番面白いと今のところ思っているのは、人間は自分に似たものを求める、というテーゼである。だから男の思う美男と女の思う美男は違う。男は美男に逞しさを求めるが、女は美男に女のようにやさしい顔をした男を求める、という主張だ。これはなるほどと納得した。BLが流行るのもやはり基本はそういうところだろう。極端に言えば男の理想の美女は歌舞伎の女形であり、(ゲイバーなどでも実際の女性にはこんな理想的な女性はいないだろうなあと思うような人がいたりする、いやゲイバーというところに行ったことは今まで一度しかないのだけど)女の理想的な美男は宝塚の男役だというわけだ。

まあそんな感じの議論がどうでもいい感じの真剣さで展開されていき、読む側は終始にやにやしながら自分を振り返ったりしつつも読んでいくわけだ。何しろ橋本が言うように、女性のほとんどは自分を美女ではないと思っている(しかし醜女だと思うのもつらいので、「普通の女」という概念を発明し定着させたというテーゼもまったく橋本らしい辛辣さでおかしい)が、男性のほとんどは自分を美男だとどこか妄想している(だから男に関しては「普通の男」という概念は未発達)からだ。それはまあ、わかる気はする。

まったくこの人の議論は、知的で辛辣、シニカルなのである。しかしその全体を冗談めかすことにより、また「若くて力のない美男」に対しむしろ同情的な視線さえ送る、したたかで侮れないやさしさの持ち主なのである。

私はこういうところに橋本の作家としての力量と魅力を見るのだけど、それは一言で言えばどういうことか、ということを今日考えていて、つまりは「知的で、シニカルだけど、あたたかい」ということだと思った。私が面白いと思うのは、まず「知的である」ということだなと思う。まあ「感覚的である」でもいいのだけど、やはり「知的」な部分がないときついなと思うところはある。帰りにiPhoneで『ほぼ日』の対談を読んでいて、糸井重里という人はつまり、「知的で、いい人ぶっているけれども、あたたかい」人だなと思った。まあつまり、橋本よりは糸井の方が人が悪いのだ。これはまあ糸井という人の方がある意味芸が多いというか、「知的で、悪ぶっているけれども、あたたかい」ということも平気で出来る人なのである。ということはつまり糸井の方が「大人」であり、橋本の方がいくつになってもいたずらっぽい「少年」であるというふうに言ってもいいのだと思う。

まあ上の3点セットを読んで、「知的」と「あたたかさ」はいいが真ん中の「シニカル」とか「いい人ぶってる」とかはあれなんじゃないか、「知的で、いい人で、あたたかい」がベスト、と思う人もいるかもしれない。しかし、知的でいい人、というのはありえない。「知的である」ということは、ある意味「容赦のない」ことであるので、「いい人である」こととは両立しないのである。知的な切れ味のよい「いい人」はまあ概念として両立するまい。

まあつまり、「知的である」というのは本質的なことであり、だから「感性的である」とかと入れ替えてもいいのだけど、「いい人である」というのもある意味での本質であるから、相容れない本質同士が両立することはまあないわけではないだろうけどその分葛藤が強くはなる。また、「あたたかい」というのはあたたかくする、ということであって、やはり自らそうあろうとしている、その道を選びとっていることであるから、ある種の方向性だと考えてもいいのだろうと思う。だから「知的で、シニカルで、暗い」とか、まあ作家にはいろいろタイプがあるだろうが、本質的には知的であるか感性的であるのがまあだいたい好きな条件で、(その2つは両立しうる)方向性としては、やはり「あたたかい」ものを目指している、書こうとしている人に共感する。

その真ん中の「いい人ぶってる」とか「シニカルである」というのは何かというと、まあつまりそれが芸であり、芸風だ、と言っていいのだと思う。だから真ん中を入れ替えてみれば、「知的で、リアリストだけど、あたたかい」とか「知的で、理想家肌で、あたたかい」とかもあり得るようになる。「感覚的で、描写力があって、暗い」とか、「感覚的で、描写力があるけど、何も考えてない」(志賀直哉とかちょっとそういう感じがする時がある)とか、「感覚的で、理想家肌で、自滅する」とか、まあそういう破滅型天才みたいな(三島とか太宰とかか)本質、芸、方向性を持っている人もあり得る。まあこの3つの軸で見る考え方って結構面白いかもしれない。

まあそんなことを電車を降りてから家に帰るまでの間考えていたのだけど、「知的で、シニカルだけど、あたたかい」なんて作家の王道のような気がするのだけど、やはり日本では多分少数派なんじゃないかなと思うし、日本の文学ってもっとドグマ的な部分が結構強いから、橋本のような知的な小説家はやはり異端になってしまうんじゃないかなという気がする。

今日、丸善で本を調べていて、橋本の著作が思ったよりたくさん書棚に並んでいて驚いたのだけど、でもまあ日本で主流になる作家というのはやはり何らかのドグマを持ってる人が多いような気がする。

まあちょっと議論が中途半端になったが、私はそういう作家が好きなので、なかなか私が面白いと思う小説というのは数がないし、むしろ海外の作家の方にそういう人が多いのは、まあちょっと残念なことでもある。自分の面白いと思うものを世の中に広めていくためには、まあつまり自分の面白いと思うことを売り込んでいくしかないんだろうなと思う。

***

今日は3月11日。震災から2年。黙祷の時間は気付かずに通り過ぎてしまったけれども、震災のことを考えていてちょっと涙が出てしまったりはした。被災された方々をはじめとして個人にとっても、日本全体にとっても辛い耐えがたい体験であったけれども、希望がないというなら希望を作ってしまえばいい、ということをテレビで言ってる人がいて、本当にそうだなと思った。どんなに大変な状況の中でも、生きて行かなければならないし、そして生きていくためには希望が必要なこともある。なければ作ればいい。まさにそうだと思った。

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