結局私の「哲学」は「生きることは楽しい」ということなのだ
Posted at 13/02/21 PermaLink» Tweet
【結局私の「哲学」は「生きることは楽しい」ということなのだ】
日曜日に腰を痛めた。というのは、右足の内側が痛く、そのせいで歩き方がおかしくなったということがあったのだが、月火は何となく過ぎていたのだが水曜の朝にまた痛くなって何とかこらえていた。今日は基本的にそんなに痛くはないのだが、どうものどが痛い。最近わりといたいことが多くて、それは寒いので暖房をつけて寝ているから乾燥しているということなのだと思うけれども、のどの痛みの対策をしようと思って久しぶりに河野智聖『緊急時の整体ハンドブック』(ちくま文庫)を繰ってみたらのどの不調の時には足の内側を押さえる、というのがあって、何だ結局同じ原因だったのかと思った。何が原因でも腰の痛みは身体じゅうに影響するから、まず原因を除去して身体をととのえなければと思う。
緊急時の整体ハンドブック (ちくま文庫) | |
河野智聖 | |
筑摩書房 |
朝、自分のやりたいことについていろいろ思いを巡らせていたのだが、どうにも分からないことがあって質問形式でことばが降りて来るのを聞いていた(まあ作品がどこからか降って来るようなものだ)のだが、どうもはかばかしい感じがしなくてモーニングをじっくり読んだりしていた。昼前になって急に動きたくなり、車に乗って出かけて自然食スーパーでパンとカフェラテを買って車の中で食べながら本屋へ行ったときに、ふと自分はどういう人間かということを考えた。
今朝一番考えていて答えが出なかったのが、自分がいったい何をやるためにこの世に生まれてきたのだろうということだったのだけど、自分にとって何が大事だろうということを考えると、それは「楽しい」ことだということに思い当った。それは『犬神もっこす』を読んで芝居をしていたころというのを思い出したということもあったかもしれない。あの時代の一番の特徴は、「楽しい」ということだった。稽古をするのも楽しいし、バカをするのも楽しいし、公演を打つのも楽しいし、芝居を書くのもエチュードをするのも屋外パフォーマンスをするのもみんな楽しかった。仕掛けを作ったり使ったりするのも楽しかったし、舞台を叩く(作る)のも、舞台上でせりふを言うのも、演技をするのも、いや舞台上を場見って(立ち位置に蛍光テープを貼ったりサスペンションライトをどの方向へ感じるかで場所を決めたりする)そこに立つとか舞台袖の暗幕を取りつけたりすることでさえ何でも楽しかった。
さまざまな条件がそれを許さなくなり、またそこに安住してはいけないような気もして舞台の現場を離れたのだけど、なかなかそれに匹敵するような楽しさはない。もともと私がものを書いていたのは詩やエッセイ的なものを別にすれば戯曲を書くことから始まっていて、その芝居の楽しさが容易に想像できるからこそ戯曲が書けるのだということに思い当った。
ここ数年はずっと小説を書いているのだけど、どうも小説を書くことにある種「これで本当にいいのか?」という疑問が消えないところがあって、その理由が分からなかったのだけど、「戯曲」にあって「小説」にあるとは限らないもの、それは「楽しさ」なのだということが今日はっきりと分かった。
芝居というものは楽しいものなのだ。どんなテーマで、どんな舞台であっても、楽しくわくわくするものだ。芝居をやる人というのはどんな理由であれ、というか舞台芸術全般に、やはりその楽しさを知っているか知らないかでその人のアートの性質が全然変わって来るだろうと思うくらい、楽しさというのは重要な要素であると思う。仕事だから楽しさは特に求めてないという人でも、充実した舞台とそうでない舞台はあるはずで、やはり充実した舞台がいい舞台であることに違いはない。しかし、その楽しさというものが、小説にはあるのだろうか、というのが私自身の根本的な疑問だったのだ。
正直言って、私は読んでいて楽しいと感じる小説のストライクゾーンはすごく狭い。こんな小説のどこが面白いのか、どこが楽しいのかと感じる作品がほとんどだ。マンガならかなり多くの作品が楽しめるのに、そのあたりは不思議なのだが、特に現代日本のエンタメ系の小説はほとんどだめだ。ファンタジーならとりあえず何とかなるのだが、独りよがりっぽさをどこかで感じたらだめだし、作者の感性と自分の感性が合わないというか、たとえばこういう切っ先の形の感じ方、表現をする人の文章は読みたくないとか、こういう無神経な描写をする人の作品は読みたくないとか、こういうどろどろした自我を持っている人の作品は読みたくないとか、まあ要するに表現が自分の中に入って来すぎるので受け入れられる幅が非常に狭いのだ。
むしろ純文学系の方が自分との距離を取りながら読む読み方がだいぶ分かってきたのでまだ読めるのだけど、エンタメ系は大したことも言ってなくて楽しくもないのに読まされるのは苦痛だという方が先に立つからなかなか読めないのだ。(本当に昔は太宰とか三島とか読めなくて苦労した)
まあそんなふうにあんまり多くの小説を楽しめない自分が小説を書くということ自体どうなんだろうというのがあって、そこにいつも疑問符がついていたのだけど、今日考えていて分かったのは、ほとんどの小説が楽しくないと言うなら、自分が楽しいと思う、楽しめる作品を書けばいいのだ、ということだった。
私に何か哲学があるとしたら、というか私が持っている哲学というものはつまり、「人生は楽しく、生きることは楽しい」ということであり、もっと意志的な言い方をすれば「人生は楽しめる」ということなんだなと思った。楽しくないのはとにかくいやだし、楽しくないことが続くと人生本来そういうものじゃないだろうという気がどんどん強くなって来る。本質的なことをやっていれば辛いことでも楽しめるというかそういう部分があるが、不毛なだけのことをやっているとそれは違うだろうという気がして来る。
人生楽しまなきゃ嘘だし、楽しめなきゃ嘘なのだ。
何と言うか小説というジャンルはどうしてもかっこつけているところがあって、そこが根本的に戯曲とは違うところがある。戯曲とは声に出して言わなければならないという実際的な物理的制約があり、そこに退廃に陥らない何かがあるのだけど、小説はそういう制約がないので何でも書ける。そこに面白さを求める人は多いだろうと思うけれども、そのせいで変な方向に逸脱して行ってしまう恐れもすごくあって、それを評価するという方向で変な表現のインフレーションというか、そういうことが起こる場合がすごくある気がする。それは観念的な現代芸術が陥りがちな罠とおそらく共通しているところがあるのだと思う。
だからそういうジャンルの中で自分が思う楽しさとかそういうものが感じられる作品がどういうふうに評価されるかは分からないのだけど、でもやはり自分が書くならそういう作品を書かなければ意味がないと思うし、それは小説だけでなくこういう(今書いてるこの)文章であってもそうなのだと思う。
まあ何かそういうことが分かったので、そういう感じで頑張ってみたいと思っている。
空海! 感動の言葉 (中経の文庫) | |
大栗道栄 | |
中経出版 |
ということで何か一冊買って帰ろうと思ったのだが、本屋の中をぐるぐる回って結局買ったのは大栗道栄『空海!感動の言葉』(中経文庫、2011)だった。この中に出て来る空海の言葉について、いちいち自分で解釈してみるとけっこう面白いし、それこそ自分の哲学を表現したものになる気がした。「風燭滅え易く、良辰遇い難し」(風の前の蝋燭はすぐ消えてしまうし、良い星に遇うことは難しい)という言葉など、「いのちというものはすぐ終わってしまうが、楽しむことはできる。良い星めぐりに会えるとは限らないが、楽しく生きることは可能だ」というふうに読んだりする。物事をどういうふうに受け取るかは自分の意思次第、だから楽しいのが好きならば楽しいと受け取ればいい、ということだ。いのちなんていつだって風前のともしびで、風の吹き具合によってはいつ消えてしまうか分からないのだから、生きてるうちはとにかく楽しくやればいいし、人の星めぐりを羨んでいても楽しくないのだから、そんなことと関係なく自分は自分の人生を生きることを楽しめばよい、ということになる。
そういうふうに考えると佛教の苦諦だって苦と受け取れば苦だが楽と受け取れば楽なのだ、ということになる。どうしようもなければ変えればいい、状況が変わらなければそこを離れればいいのだし、どうしなければならないというようなことは本来何もない。
「沈迷の端驚かずんばあるべからず」という言葉もいいなあと思う。「いつもあなたは迷いの淵に沈むそのぎりぎりのところにいるということに気づいて驚くのです」、というような意味だろうか。そしてそのぎりぎりのところを楽しみながら走って渡っていく、そんなふうでありたいと思う、とか。すげこえー、とか言いながら。
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