そうしない自由とそうする自由

Posted at 13/02/05

いろいろやることがあったり、精神的な余裕が不足していたりして、ブログをなかなか書けない感じがあるのだけど、ここ数日は山岸凉子『テレプシコーラ』を何度も読み返していたりした。

舞姫 1―テレプシコーラ (MFコミックス ダ・ヴィンチシリーズ)
山岸凉子
メディアファクトリー

これは数年前にずいぶん熱中して読んだものだけど、最近友人が貸してくれというので少しずつ貸しているうちに自分も読み始めてしまい、主に六花(ゆき)の成長を追いかけていく感じで読み直していたのだけど、いやおうなしにそのほかの重い話も読むことになるわけで、またまたガーンという感じになることが何度かあった。

ただそのガーンがなんというかいま必要なのかなという感じもあり、いろいろ考えさせられる状況もあるのだけど、こういう時には逆にこういうものを読むのもまた何かいいことなんじゃないかなと思う部分もあった。


改訂新訳ライフヒーリング(旧ライフ・ヒーリンク゛) You Can Heal Your Life
ルイーズ・L・ヘイ
たま出版

土曜日に横浜に行ったときにルイーズ・L・ヘイ『ライフヒーリング』という本をブックオフで見つけて読んでいたのだけど、「許す」ということについてすごく自分にとって根本的な必要があると感じることがあり、実際にそれをやってみて相当救われたと思った部分があった。

許す、というのは能動的に自分の行為でやることで、つまりそれは自分が変わる、ということなわけだが、世界を信頼して自分が変わるということを受け入れることが出来るということが、変わるということであり許すということであるんだなと思った。

怒るということについて考えるとき、なぜ怒るのかと言えば、要するに自分が怒っているのだということを理解し、怒るのをやめれば怒らないんだということに気付く、というのが山岸巳代蔵が述べているヤマギシズムの方法論なのだが、まあいずれも自分がそうしてるからそうなるんだということに気がつくところにポイントがある、という話だ。

許す、というのがポジティブな方法論であり、怒らない、というのがネガティブな方法論である、というのはある意味、ネガティブな方法論は知的な方法論で、ポジティブな方法論は信仰的な方法論であるという気がする。

普段知的な活動をしていない人にとっては知的な方法論がインパクトがあり、普段信仰的な方法論をしていない人には信仰的な方法論がインパクトがある、という部分があるのではないかと思う。

いずれにしても自分がそうしている、ということに気がつくところが重要で、それに気がついたときにそうしない自由もそうする自由も自分にはあるのだということに気がつくところに意味があるのだと思う。

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